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となりの敷地の神白さん:第一話【天ぷら①】

あ、天ぷらだ。

と、会社帰りの私の鼻が感じた。
隣の敷地のキッチンから、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
おそらくサツマイモの天ぷらだろうか。

ああ、いいなあ。

漠然と、そう思う。
木製のテーブルに並んだ、ごはんに味噌汁、天ぷらに、おひたし…それを本当に他愛のないやり取りをしながら食べる家族。
そんな様子が想像出来、思わず頬が緩む。

あまり食欲が無かったはずが、良い匂いに空腹を自覚する。
私は今日、何を作ろう。冷蔵庫にうどんの麺が残っていたから、温かいうどんでも食べようか。

そんなことを考えながら、築30年のアパートの階段脇を通る。

すると、階段下に置いてある自転車のカゴにタッパーが入っていた。
タッパーの入った自転車は、間違い無く私の自転車だ。
私は朝、タッパーなんて入れただろうか?いや、私は何も入れていない。そして、出かける時は何も入っていなかったはずだ。

不審に思いながらも、タッパーを覗き込む。
すると、タッパーの中には天ぷらが詰まっていた。

「あ…お隣さんか」

天ぷらを見たとたん、恐らくの送り主が判明し、思わず頬が緩む。
自転車のカゴから天ぷら入りのタッパーを取り出すと、先ほどの甘い香りがふんわりと香る。そして、ほのかに温かい。
身体の冷える冬の夕方。すっかり冷たくなった指先から、じんわりと身体の芯まで広がっていく。

自室に戻る前に。と、私は来た道を引き返す。
アパートを背に、道路に出て、すぐ隣にある一軒家へと歩を進める。
隣の家の道路脇の腰窓からは、光が漏れている。
それを確認し、私は隣のお宅の玄関へと歩を進める。

ガラス引き戸の、30年どころではない風格の玄関。
床は無機質な金鏝仕上げではあるが、洗濯ばさみや洗剤、植木鉢が置かれている様子に、決して冷たくは無い生活感を感じる。
玄関脇には、バックミラーの付いた黒い自転車が止まっており、古いながらも錆の無い様子から、丁寧にメンテナンスをされながら使われているのだろうことがうかがえる。
実家の玄関にどこか近い雰囲気を感じ、他人の家のはずだが、不思議と緊張は無い。

「……神白さ~ん、笹森です。こんばんは~」

すう、と息を吸ってから玄関に向けてそう呼びかけると、数分後、ガタガタと音を立てながら引き戸が開く。
すると中から、小柄なおばあさんが出て来る。私の隣人である、神白ともえさんだ。
パーマをかけた短い黒髪に、ぱっちりとした二重が印象的な、黒くて丸い瞳。皺がありながらも、艶のある健康そうな肌の色。桃色の毛糸のセーターに、スウェット地の鼠色のズボンを履いて、足下の黒いサンダルからは、白い靴下が覗いている。

「あら、笹森さん。どうしたの?」
「いや、この天ぷらってもしかして神白さんからかなあ、と思いまして。その、お礼に……」

思いの外きょとんとした顔に、人違いだっただろうかと動揺しつつも、聞いてみる。
手元のタッパーに神白さんが気付くと、目が弧を描く。
人の良さそうな表情に、自分の肩の力が抜けるのを感じた。

「わざわざ良いのにねえ。さっき置いてきたばっかりだから、安心して食べてねえ」
「いえいえ、食べるにしてもお礼が先かと…その、有り難く頂戴します」

正直、これで3回目の頂き物のため、神白さんを疑う気持ちは無い。
いつも全て美味しく頂いている。そしてこの寒い日に、これだけぬくもりを感じるタッパー。
疑いようも無く、私の帰宅時間に合わせて、わざわざ自転車のカゴに入れてくれたのだ。
言いながら、自然と会釈をするかたちになる。

「ふふ、今回は南瓜も入ってるからねえ」
「わ…!南瓜、好きです。ありがとうございます」

南瓜という単語に思わず声がワントーン上がる。
サツマイモの天ぷらも好きだが、南瓜の天ぷらも好きだ。
あの南瓜の橙色を見ると、何故か特別なものを感じる。
自覚は無いが、実は私は橙色が好きなのだろうか。

「いえいえ、それは良かった」
「じゃあ、冷めないうちに頂きます。本当、ありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざありがとねえ。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

そんな他愛のない、数分のやり取りを終え、神白さんの家をあとにする。

こんなご近所付き合いを、地元から離れた場所で、まさかひとり暮らしをしてからすることになるなんて、全く予想していなかった。
「おやすみなさい」と言われて胸の中に温かいものが広がる。
この感情はなんなのだろう。不思議な感覚に気恥ずかしさを覚える。

温かなタッパーに入った天ぷらを抱えながら、私はアパートに帰宅した。

⇒となりの敷地の神白さん:第二話【天ぷら②】

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