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私が算数を復習する理由

小学生の頃、算数ができなかった。
まったくと言っていいほど、できなかった。

今思うと、原因は低学年の頃から学校を休むことが度々あったからだ。
保健室登校をしている期間などもあったため、周りの児童に比べると、教室で過ごした時間は全体的に少なくなるはずだ。

そんな訳で、授業についていけなくなってしまったのだ。
というのが、私の分析。

算数以外の主要教科は、教科書を読んだり、毎月家に届く通信教材に取り組むことでカバーできていた。
しかし、算数だけはこれが通用しなかった。

先生に「この前休んでいたところがわからないので教えてください」と言えばよかったのだ、と今なら思うが、当時はそういう発想はなく、ただ単に「私は算数が出来ないんだな」と思っていた。

このようにして「出来ない」が積み重なったまま中学生になる。
今度は、当たり前だが数学ができなかった。
そのまま高校生になっても苦手意識が拭えない。
理系の進路は完全に閉ざされ、大学は文学部を選んで入学した。
ちなみに、数学の定期テストで取った最低点は、高校1年生のときの12点である。

高校3年生のとき、文理選択で文系を選んだ私は、もう算数や数学に関わらなくていいのだ、と思って心の底から嬉しかった。

しかし、社会人になってから、やっぱり理系的な思考が出来た方がいいな、と思うようになってきた。
ちょっとした計算が必要なとき、頭の中が混乱して、もたもたしてしまうのだ。

だから、いつか算数の復習ができたらいいなあ、と思っていた。
算数に苦手意識を持っている大人のための復習本というのは、巷には結構あるものだ。
実際やった人の声などを聞くと、子どもの頃にわからなかったことも、大人になった今ならわかる、という趣旨のものもある。
だけど、なかなか重たい腰が上がらない。

そんな私に転機が訪れたのは、少し前のこと。
そのとき、私は小川洋子『博士の愛した数式』を読んでいた。

この作品は第一回本屋大賞を受賞したり、映画化もしていたため、知名度としてはかなり高く、タイトル自体はずっと知っていたのだが、最近になってようやく手に取って読んでみたのだった。

この物語を読んで、私の数学に対する認識の何かが、確実に変わった感覚があった。
と、言うのは、数字というものは文字に、そして、数式というものは文章に似ているのだな、と思ったからだ。
例えば、作中に登場する「博士」のセリフで、このようなものがある。

"「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。(略)。」"

私はずっと、言葉というものは、感情や概念を物質世界に存在させるための入れ物だ、と思って生きてきた。
だから、私にとって言葉はとても大切なものだ。
そういう視点で考えると、数字や数式は、宇宙が終わるまで揺るぎなく存在する真理を、人間が認識できるように表現する道具なのだな、と思った。
目には見えないものに人間が理解できる形を与える、という意味で、数字も文字も似たようなものではないだろうか。
ということは、数字を扱うこともまた、言葉を操るのと同じように大切なのではないか、と思えてきたのである。
すると、算数の復習に対するモチベーションが俄然あがった。

そんなわけで、今、私は大人向けの算数復習ドリルをやっている。
疲れていたりして出来ないこともあるが、仕事のお昼休みやアフター5などを利用して、無理が無い範囲でコツコツとやっている。
ずっと数学に苦手意識のあった私は、恥ずかしい話だが、小学生の復習だとしても、うっ、と思うことが正直ある。
それでも昔のように、右を見ても左を見ても何もわからずお手上げです、という状態までにはならないので、なんとかその日のノルマはこなせている。

さて、このドリルをやっていて、月並みな疑問が浮かぶ。
例えば、倍数判定法についての次のような解説。

"百の位の数を4倍した数と下2桁の数を比べて、大きい方から小さい方をひきます。この差が8の倍数ならばもとの数は8の倍数です。"

桜井進『1日5分!オトナのためのやりなおし算数ドリル』

数にはこういう性質があるのだな、というのはわかる。
だけど、これに何の意味があるんだ?
これこそ「勉強なんてしなくていい」と言う小学生が真っ先に口にする言葉の典型だと思うのだが、私も同じようなことを考えた。

自分なりに色々考えた結果、なんだかよくわからないけれど、宇宙のこういう性質がたくさんたくさん精密機械のように嚙み合って世界の調和がとれているんだな、と解釈した。
その性質自体には意味がないように見えても、それが無くなってしまったら宇宙は正常に機能しなくなってしまうだろう。
私が生きている世界とは、ものすごく奇跡的なバランスの上に成り立っているのだ。
そう考えると、この世界に要らないものなど存在しない、と思える。
こんな私でも、何かの役には立っているのだろうか。

『博士の愛した数式』で「博士」は、こんなことも言っている。

"「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」"

最初、これは数学が好きな人だから出来る考え方だ、と思った。
だけど、今の私は、数字の織り成す機械仕掛けに思いを馳せて、「数学が美しい」という感覚が、なんとなくわかった気がする。

算数なんて、数学なんて大嫌いだった。
そんな数字の世界を「美しい」と思える日が来るなんて、思ってもいなかった。

小学生で学習する算数ですらこんなに感動を覚えるのだから、理数系の教科をもっと積極的に勉強していれば、想像できないくらいカラフルな世界を体験できていたかもしれない。
だけど、それは私が自ら閉ざしてしまった可能性で、後戻りはできない。

それでも、本当の本当に少しだけど、世界の真理に近づくため、今日も私は算数ドリルを解いている。

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