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読破の後味

第163回直木賞、芥川賞を受賞した3作品を読み終えた。実はこんなこと、なかなか無い。ぶっちゃけると、3冊とも図書館で借りた。そういうのって、作家さんには印税が入らないから申し訳なく思うこともあるけど、だったら図書館は何のためにあるんだろう?とも思ったりする。
賞を獲ったからと言っても興味が湧かないこともある。読もうと思っても気分が乗らないこともある。その作品の出来は賞を獲ることで保障されたわけだが、それが私の趣味に合うとも限らない。知らない作家さんの作品なら、尚更だ。

破局/遠野遥

主人公は公務員を目指す大学4年生の陽介。大学生の日常ってこんなだと思うと、何だかちょっと複雑。前半はそれなりに普通の大学生っぽいのだが、後半にいくにつれて自堕落な日常へと変化する。男性でも女性でも、付き合う相手によって生活や考え方が変わるのだな。読み終えて最初に思ったのは、人間は1日1回は外へ出てお日様にあたらないとダメになるんだなって。

陽介の一人称で語られるのだが、彼の思考で頻繁に出てくるのが、
私は彼氏だから」っていう言葉。

彼氏だからこうしなきゃいけない。
彼氏だからこれは許される。
彼氏だからこれはしてはいけない。
人間と人間の関係において、自分にこういう縛りを課すのはものすごくストレスなのではないだろうか。もっと自然体で良いはずだ。○○の彼氏、あるいは○○の先輩、友人、それぞれの立ち位置で、この場面ではこうすることが“らしさ”だと、そういう人間を演じているかのようだった。

もちろん人は誰でも多少は自分を演じている。他人から自分がどう見えているか。どう見られたいか。でも本当はああしたい、こうしたいという自我があって当然だ。


結局のところ陽介は自我を抑制しすぎていたのだろう。“いい人”すぎたのかも知れない。それまでが順風満帆だったのかもしれない。それとも周りに流されゾンビみたいに何も感じないのがラクだったか。

それで良かった。全てそれでうまくいっていた。だから自分の立ち回り方が否定されたりうまくいかなくなったりした時に、修正が出来ず、収拾がつかなくなってしまったのだ。理由が分からなかったのだろう。


ドラマ“MIU404”のセリフを思い出す。

“いつだったら止められた?”

一人称だからこそ、いろいろなことが突然沸き起こる。相手が何をどう考えていたのか、どういう気持ちだったのか。こちら(主人公)側からでは分からない。そして理由も。

何で?何で?こんなはずじゃない。何かの間違いだ。夢だ。そう思いながらもまた周囲に気を配ったりしているところが、この人の優しさであり弱点だ。


遠野遥さんの文章はとても生々しかった。その生々しさが若さであり、脆さであり、眩しくもある。陽介には、無事に公務員になって、普通に幸せになって欲しかった。幸せになれる人のはずだった。

少し辛い青春小説。この作品は後を引く。

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