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次世代の学び「創」の本棚

はじめに

コンピューターや人工知能(AI)に「使われる」のでなく「使う」あるいは「一緒に働く」ことが必要な世代に必要なことは何か。

本記事でも取り上げている、作家であり元大学助教授の森博嗣は「教育というもの自体を信じていない」といつくもの著書で繰り返し述べている。

あるのは「学び」だけであり、大人にできるのは「学ぶ環境」を用意することだけだ。

その結果、育まれるのは「創造力」かもしれない。
本記事では4冊の本と通してそれを考えたい。

未来のことはわからない

「教育のことはわからない。なぜなら、未来のことはわからないから」
これは、平田オリザ『22世紀を見る君たちへーこれからを生きるための「練習問題」』(講談社現代新書)の冒頭の一文である。

本書は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起こる直前にあたる2020年3月に刊行された。
もし、「これからの教育はこうなる」といった決めつけをしていれば「直後から大外れ」な本となっていただろう。
本書の刊行後、オンライン授業をはじめ、教育も社会もたった2年で大きく変わったからである。

本書は主に「大学入試改革の批判的振り返り」と「未来の教育の抽象的な議論」、「そのための演劇教育の有用性」について語られている。

やはり新型コロナウイルス感染症でうやむやになっている感のある「大学入試改革」「高大接続改革」について冷静に振り返るにも有用な本だろう。

人工知能の第一人者による教育論

人工知能の第一人者として知られる1人にマーヴィン・ミンスキー(1927年8月9日 - 2016年1月24日)がいる。

ただし、ミンスキーが目指した人工知能は現在主流のスタイルとは異なる。
現在の主流にある人工知能は「物事の意味」を理解する必要はない。
「膨大なデータを学習し、その特徴から統計的に判断する」というスタイルである。

一方、ミンスキーは著書『心の社会』(産業図書)があるように、「心や意味を理解する人工知能」を目指した。

よって、現代の人工知能やロボットには批判的である。生前の主張は、『知の逆転』(NHK新書)で読むことができる。

創造する心

さて、以上を踏まえた上で紹介するのは『創造する心 これからの教育に必要なこと』(オライリー・ジャパン)である。

本書は、ミンスキーのエッセイを死後に集めたものである。
ただし、ミンスキーによる文章は全体の半分ほどで、残り半分は、パソコンの父と呼ばれるアラン・ケイをはじめとする数々の学者・友人が解説、寄稿により構成されている。
この解説・寄稿により、エッセイの表面には表れていないミンスキーの思想を読み取ることができる。

人工知能が普及する時代にあるべき教育とは何か、それを人工知能の父が解説している貴重な1冊である。

創るセンス 工作の思考

この記事の冒頭でも紹介した森博嗣の著書。

2010年刊行の本だが、森博嗣のエッセイは10~20年先を捉えた文章が多いため、現在でも十分に通用する。

簡単に概要を説明すれば、過去の時代は全員が「創る」必要があったが、現代は(例えばガンダムのプラモデルや、レトルト食品のように)お手軽であり、「創る」から「組み合わせる」へと変化したこと、それに伴い人間から「創るセンス」が失わていることを指摘している。

これは子どもに限ったことではなく、周囲の生活用品もどんどん「モジュール化」しており、「修理」でなく「交換・買い替え」で済むことが多い。
そのために簡単な修理のスキルすら必要のない社会になった。
それは豊かになった証拠なのだけれど、「いざというとき」には困るだろう。

失われたのは、「ゼロから何かを手探りで作る」という過程だ。
例えば、筆者の子どもは3歳のとき、気づいたら白いダンボールをハサミで切って「ペッパーくん なりきりセット」を作っていた。
体に身に着け、タブレットを胸元に持てばペッパーくんになる。
別に誰も教えていない。
人間には、そもそもそういう能力が備わっているのだろう。
しかし、このような例は珍しいと思われる。

創造性を育みそうな「レゴ」や「マインクラフト」ですら「組み立て」の範疇である。
この点は注意しておきたい。

今後に求められるのは「クリエイター」である可能性が高いからだ。

創作する遺伝子

日本を代表するゲームクリエイター小島秀夫『創作する遺伝子』(新潮社)は、小島氏が影響を受けた本などを「小島氏というフィルタを通して紹介」する書評本としての性質と、エッセイとしての性質を持ち合わせている。

本書から読み取れるのは、小島氏のようなクリエイターになるには、とにかくたくさんの「作品」に触れる必要性だ。

ところが一方で、前出のベストセラー作家である森博嗣氏は「小説家になりたいなら、小説を読むヒマがあるなら、小説を書け」と各所で述べている。

このあたりは、各々の経験的な差だろう。

実際、森博嗣作品は、社会的・歴史的な出来事などが作品に盛り込まれていることが少ない一方、小島秀夫作品は社会的・歴史的な出来事が作品に複雑に組み込まれている。

どちらが正解ということではなく、共通する「創」ることへの情熱から読み取れることがある。

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