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批評基準で俳句と芸術を考える  ―正岡子規「俳諧大要」と高浜虚子〈「玉藻」研究座談会〉

正岡子規「俳諧大要」を読む

機会を得て、正岡子規「俳諧大要」を再読した。日清戦争の従軍記者として中国大陸に渡ったものの喀血して帰って来た子規が、故郷松山で養痾中に執筆し、明治二十八年(一八九五)から新聞「日本」に連載されたものだ。前半は俳句本質論が、後半は俳句修学術が、子規の残した評論中、最もまとまった形で書かれている。冒頭に次の有名な一文がある。

一、俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。  故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし。
(俳諧大要「第一 俳句の標準」より)

なお、ここでの美術は芸術を指す。近代俳句の祖、正岡子規がこのように理路整然と「俳句は文学」と言い切っているのに対し、現在の俳句観では賛否が分かれるだろうとも思う。実際、昭和の石田波郷は、「構成とか創作とか想像とか、さふいふものが文芸の性格をなすならば、俳句は文学ではない。俳句は人間の行そのものである」(「此の刻に当りて」昭和18年10月「鶴」)といい、韻文精神の徹底と切れ字の使用を唱えた。これは戦中に起こった散文化・スローガン化した新興無季俳句への批判を多分に含んだものであったが、「俳句は文学ではない」が独り歩きして曲解されもしただろう。俳句は文学(芸術)か、そうでないか、という二項対立を超えて、子規の「俳諧大要」の引用部について考えてみたい。
そこでまず、私なりに図式化をしてみた。俳句も文学も美術(芸術)の円の中に包まれる(図1)。

美の標準1

そして諸芸術ジャンルは「美の標準」によって通底している(図2)。

美の標準2

また、柄谷行人は引用部を次の様に解説している。

むろん「美の標準は各個の感情に存す」がゆえに、「先天的に存在する美の標準」はないし、あったところで知りようがない。しかし、「概括的美の標準」はある、と子規はいう。ここで彼がいうのは、二つのことだ。俳句は、芸術であるかぎり、同一の原理の中にあるということと、そして、それは、個々の感情に根ざすとはいえ、知的に分析可能なものであり、したがって、批評が可能であるということである。
(柄谷行人「俳句から小説へ 子規と虚子」)

この指摘は、俳句が芸術であるならば諸芸術と同じ基準で批評が可能であるということだろう。しかし同時に、批評(知的に分析)が可能であるならば、俳句は芸術であるということも言えそうだ。「美の標準」(図2)=批評の有無こそが、芸術一般という概念(図1)を成立させうるということか。子規は明治二十一年(一八八八)に習作集「七草集」(漢詩・短歌・俳句・謡曲・物語など秋の七草に見立てた七種)を書き上げていて、また病床では多くの写生画も残した。異なるジャンルであっても同一の基準で批評できることを実践のうちに体得したのだろう。

作る者と享受する者

高浜虚子は先の子規の「俳諧大要」の引用部について「之は極めて当り前のことを云つたのでありますが、併し其当時は俳句が俄に高く評価されたものの如く感じて、皆驚きの目を瞠つたものであります。」(高浜虚子『俳句読本』昭和10年)といっている。歴史的に鑑みて、当時はいかなる芸術観や俳諧(俳句)観を前提としていたのかを踏まえたうえで、子規の言葉は読まれるべきだろう。小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で、「俳諧の時代」と「俳句の時代」という区分けで俳句史における芸術観の変遷を説いている。

 平安時代以来、作る者と享受する者とがはっきり別である種類のわざは藝術にあらずとする意識が、根づよく存在した。もちろん、その反対は、藝術なのである。いまわたくしたちは、画や彫刻を藝術だと意識する。しかし、それらは、昔の人たちにとっては、けっして藝術ではなかった。(略)
 だから、俳諧は、ひとつの「閉鎖された世界」であり、また「自給自足の世界」でもあって、どこからでもおいでなさいの自由貿易国ではない、その点は書でも和歌でも、同じことである。(略)
 俳句は「解放された世界」なのである。それが子規による革新のいちばん重要な眼目であった。

小西によれば、俳諧や和歌や書は作る者と享受する者が同じであるというそのことによって当時の「藝術」であった。しかしいまの芸術観は反対に、作品を享受する者は必ずしも作る者ではない、むしろ別の者へと広がっていかなければ、芸術とはみなされない。このような芸術観の時代的差異を頭に入れておく必要がある。その上で改めて「俳諧大要」の引用部に戻ると、子規が言う「美術(芸術)」とは、作る者イコール享受する者という旧来的な芸術ではないのは明らかだ。「俳諧大要」で子規は、作る者と享受する者が異なる新しい芸術観を提示するとともに、その中に俳諧を位置づけることによって、俳諧を俳句に変革したのだ。そしてその芸術観の核心は、「皆同一の標準を以て論評し得べし」という批評可能性である。
もし現代の俳句への批評文が、俳句実作者にしか通用しないものであるならば、それは「俳諧」的であり、旧来的な芸術観に寄っていると言えるのではないか。
ただ、俳諧の歴史的延長線上に俳句があり、俳諧と俳句で明確に二分することには留保が必要だ。俳句における切れの効果や、季語によって生み出される象徴性などの基礎知識・体験が読者と共有されなければ、凝縮された短い言葉の連なりである俳句は読解できないこともある。このような俳句を読むにあたっての基礎知識が文化教育として継承されていないことと、詩が入り込むすきのない「取扱説明書」的な道具としての言葉に呑み込まれる情況下で、現代でも、俳句を作る者イコール享受する者という「閉鎖された世界」を無意識に志向している俳人も多いのではないだろうか。これは現代に限らない事象かもしれない。俳句は、俳諧を志向しがちなのである。
しかし、果たしてそれでよいのか、と、子規の「俳諧大要」は問いかけてくる。子規の言葉が現代の私たちの頭を柔軟にしてくれるのは、子規の問題意識は、俳句に限らず芸術を対象としているからだ。そして、芸術に内包される俳句とは、「美の標準」を外と同じくする総合的芸術としての可能性が開かれているということ。またさらに、子規にとっての芸術批評とは、単独のジャンルを超えた射程をもつものであったことも読み取れそうだ。

高浜虚子の批評

子規の弟子の高浜虚子は、子規が没した一九〇二年から、俳句の創作を離れた。その間小説の創作に没頭し、一九一三年、河東碧梧桐の新傾向俳句に対立して俳壇に復帰。俳句の根本理念は「花鳥諷詠」「客観写生」であるとした「ホトトギス」は大正・昭和俳壇の中心となった。その虚子の晩年、「玉藻」(虚子の娘、星野立子創刊)掲載の「研究座談会」(虚子が若手に交じって同時代の俳句を読む連載。虚子は昭和二十九年四月から昭和三十四年四月まで参加)で、虚子の俳句批評の特徴を見ることができ興味深い(筑紫磐井編著『虚子は戦後俳句をどう読んだか』深夜叢書社 参照、抜粋)。「人間探求派」の一人、加藤楸邨の句〈かなしめば鵙金色の日を負ひ来〉への批評の一部を引用する。([ ]内は同席者・星野立子の発言)

虚子 [何故こんな気負って作らねばならないか(立子)]昔から私に句を見せる人の句は見てゐます。見せない人の句まで見る暇がない。楸邨という名前は聞いてゐるし、一度来たこともあるので人は知ってゐるけれど、一家をなして独立してやつてゐるから、その句は全く見なかつた。今初めて其句に接して、かういふ感じは我々の感じと根底から違つてゐると思ふ。
虚子 [研究するのに広く見る必要がある(立子)]それはそうだ。併し私は仲間の句を見るだけで一杯だ。芭蕉も他門の句と言って敬遠してゐる。
虚子 写生的でない。写生的な句を強調してゐる我等にとつては門外の句だ。

一連の「研究座談会」を概観すれば、「ホトトギス」派外の作者であっても、俳句に即して是々非々の批評を加えているのだが、虚子独自の俳句基準も強く伺える。筑紫磐井氏は虚子の評価用語を「①われらと同じ俳句 ②われらと違う俳句 ③問題ある俳句」と整理している。引用部の「我々」「我等」とは「ホトトギス」的(花鳥諷詠(有季)、客観写生を理念とした)俳句という意味だろう。筑紫氏はこのような「われらの俳句―われらと違う俳句」という虚子の評価基準は、相対評価であり、「否定の理由にはならない」という。つまり自分たちと違うが否定はしない、というのだ。虚子は、無季俳句については「十七字詩」と呼んで、季題がなければ俳句ではないが、評価基準は「(「十七字詩」も「俳句」も)面白みは同し文字が齎すのだからおなしでなければならぬ」と述べている。
さてここまできて、子規と虚子が辛うじて繋がった。子規の「皆同一の標準を以て論評し得べし」は、虚子(「面白みは同し文字が齎すのだからおなし」)にもある意味で引き継がれていた。
だがしかし、虚子の前出の批評は、果たして批評と言えるだろうか。俳句として絶対的に正しい「われらの俳句」を定め、それに合致するか否か判断を下してから論評を始めるという考え方自体が、虚子の俳句批評が、「作る者イコール享受する者」の俳諧的な「閉鎖された世界」に囚われたものだと言わざるを得ない。

虚子 新興俳句といつても、何といつても、さう新しいことは出来ませんよ。俳句は、そのうちにほろびますよ。併し能楽、歌舞伎がなか〳〵亡びないやうに容易に亡びない。伝統の中で新しいことを出来るだけするのが、我等の任務ですよ。それでも中々大変な仕事です。それが伝統俳句の世界です。もつとづば抜けた新しいことをしたい人は、俳句から、どん〳〵出ていつたらいいのですよ。

俳句はほろびるだろう、と虚子は言う。しかし今も俳句を生き延びさせているのは「われら」伝統守旧派の仕事だけでなく、「われらと違う俳句」でもあったことはその後の歴史が証明しているのではないか。虚子とは、このような極端な守旧派を演じることを、自らの使命と課した人だったのではないだろうか。ホトトギス楼上に立て籠もる虚子の孤独にとって、「研究座談会」は、か細くも貴重な外部との交流であったようだ。「俳諧大要」(第三 俳句の種類)で子規は、俳句の種類分けを縷々述べた後、「一、以上各種の区別皆優劣あるなし。一、以上各種の区別皆比較の区別のみ。故に厳密にその区域を限るべからず。」と、俳句を「解放」している。


※タイトル写真は、明治32年12月24日第3回蕪村忌


「コールサック」(石炭袋)107号より転載

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