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「真実を貫く」俳句教育に向けて   野ざらし延男と夏井いつきの実践から

俳句教育実践の書

沖縄の俳人、野ざらし延男編『俳句の弦を鳴らす―俳句教育実践録』(発売元 沖縄学販)が、昨年九月に刊行された。一般的に行われている学校俳句教育の問題点、氏の教え子たちの俳句、また授業実践の模様や自主作成俳句教材等が掲載され、初心者への俳句入門としても、また教員たちに向けた俳句教育入門でもある重厚な書となっている。その発刊の言には、高校教師として野ざらし氏が約五十年間に渡って積み重ねてきた戦後教育と俳句教育の現場経験からの直言がなされている。そのなかで、大きく次の二点とその関わり合いに注目した。

一つは、戦後教育の原点としての沖縄戦である。第二次世界大戦末期の沖縄には米軍が上陸し地上戦が繰り広げられ、民間人を含む二十万余りの犠牲者を出した。また約二千人の少年少女たちが動員されそのうち約千人が戦死したといわれる。国の「捨て石」とされた沖縄という土地だからこそ、軍国主義と皇民化教育によって誤ちを犯しその犠牲となった歴史から学ばなければならない。「教え子を再び戦場に送らない。真実を貫く教育を」。これは、野ざらし氏が一九六八年に新潟で開かれた「教育全国集会」に沖縄代表として参加した際のスローガンだ。

二つ目は、俳句教育における浅はかな季語絶対化への懐疑である。小学校高学年の教科書に出てくる俳句の季語に対する記述が、「季語を使う決まりになっています(習わしです/約束になっています)」などと「奇妙」であるという。季語を使わなければいけない具体的な根拠が明示されていないのだ。そして教科書に掲載される例句の多くを有季定型の句が占める。野ざらし氏は「この『季語遵守』の思想は皇民化思想に通底しているようにみえるが如何に」と言う。(本書所収の無季俳句の例 〈モナリザの微笑の中に迷い込む 大城淑乃〉)

野ざらし氏の(俳句)教育理念

一つ目の沖縄戦の反省と教訓を原点とする野ざらし氏の教育者としての理念は、本書中、次のように語られている。「教育は自由でなければならない。教育の指針は、埋もれた才能を発掘し、個性的、創造的生き方を据えるべきであると考える」。

二つ目の季語(また文語、歴史的仮名遣い)偏重への批判はそこから必然的に帰結されるだろう。そして高校生が俳句を作る意義について次のように言う。「俳句は若者にも十分魅力ある芸術であってほしい。(略)形式と内容の呪縛から解放し、創造の翼を保証することである。俳句は、青春真っ只中の若者に、人生で一番エネルギーに満ち溢れたときに、自己の生命感をぶつけることができる詩型でなければ魅力はない。」

教育に深く携わることのない有季の俳句作家のほとんども、また教科書で俳句を教える教師も、何故俳句には季語が必要なのか、その根拠をとことん考えることなく、俳句における季語の絶対化を受け入れている。そのような思考停止の、長い物に巻かれる精神は、戦争へ突き進むしかなかった無関心の大衆の性質に、どこか通底しているのではないか。俳句には季語があるものだから深く考えることを止めて季語を入れて作りなさいという教育そのものが、全体主義を身体化する芽を子供たちに植え付ける教育に繋がりかねない、ということだろう。このような主張は、果たして飛躍の過ぎた暴論であろうか。

野ざらし氏は、「教育は単眼でなく、有季も無季も認める複眼の姿勢が欲しい」と記している。それでは、ということで、「有季定型」を基礎として俳句を教える側にも光を当ててみたい。

俳句の「もっとも基本の型」

俳人の夏井いつき氏は「俳句の種まき」を合言葉に、TBSテレビ『プレバト!!』など、いまや俳句の国民的普及に大きな貢献をされている。夏井氏は元中学の国語教師で、また愛媛県松山市で毎年開催される高校生を対象にした俳句コンクール「俳句甲子園」の立上げ(一九九八年)にも関わってきた。

その著『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』(PHP研究所)の「はじめに」で、世間一般の人々が抱いている俳句の印象とそれに対する答えが投げかけられている。〈「私にはセンスや才能がないから無理だよ」(略)俳句経験ゼロの方から、よく聞く言葉です。(略)センスや才能がなくても、ちょっとしたコツさえ知っていれば、誰にでも簡単に作れるのが俳句です。(略)これまでのどの入門書よりも、わかりやすく、基礎の基礎から、丁寧に学んでいきます。落ちこぼれにはさせません〉。

また「おわりに」では〈世の中には「型だの技法だのは無視していいのだ!」「すべての表現は自由であるべきだ!」と主張する向きもあるでしょうし、そのような考え方を否定するつもりもありませんが、それらはしっかりと基礎を身につけた後の議論ではないかと思うのです〉と、先ずは型からという初心者へ俳句を教える姿勢を語っている。

具体的には、上五に「四音の季語+や」、中七に「下五の名詞を描写する七音」、下五に「五音の普通名詞」という「俳句のもっとも基本の型」とする(本書中の例 風鈴や時の止まった腕時計)。この型で俳句を作る練習をし、そのあと徐々に型を増やしてゆくことを提案している。このような「型」を基礎とした俳句指導法は、本書でも夏井氏が紹介している藤田湘子『新版 20週俳句入門』など、これまでも伝統的に行われてきたものであろう。

型と自由/目的と手段

自由を教育理念とする野ざらし氏と、まずは季語を含めた「型」を身に着けましょうという夏井氏の、俳句を教える道筋は対照的に見える。しかし両者が俳句初学者を連れていきたい最終的な目的地は、決して遠いものではないように私には思われる。

以下野ざらし氏の言、「私の俳句指導の大きな狙いは、『俳句で豊かな人間教育を!』ということである。その柱は三本ある。国語教育の立場から、表現力を高めること。情操教育の立場から、感性を磨くこと。人間教育の立場から、埋もれた才能を掘り起こすこと」。

以下夏井氏の言「俳句には、人を救う力があります。私自身『もう立ち上がれない』と思うような苦しい出来事に直面するたびに、何度も何度も俳句に救われてきました」。

野ざらし氏の「感性を磨く」には、当然自然や季節の変化に敏感に心を動かす感性も含まれている。そして「埋もれた才能」とは、周囲と比較して埋もれている相対的才能ではなく、一人一人が自分自身の才能や感性に気付きそれを養うという固有のものであろう。また夏井氏の「人を救う」俳句は、季語や型を守ることよりも、自分の心情を自分の言葉で表現できるという創造的行為自体に重きが置かれている。両者とも、俳句を単なる「趣味的文芸」の域に止めず、人が生きる上での根底にある本質的なものを表現できる器のようなものという意識が前提とされている。目的地に辿り着く道はひとつではない。その道程として、いかなる教育手法が適当かを検討すべきなのだ。

両者の特長と留意点

野ざらし氏の教育手法の特徴は、それぞれの生徒が元々持っている主体性を信じ、それを自由に伸ばすことに力を注がれている点だ。生徒によっては季語が自己表現の足かせになる。また季語以外のテーマで俳句を詠みたい生徒もいるだろう。これは目的地への近道のように思える。

逆に、「自由にやっていい」と言われることが苦手な生徒もいるだろう。そこで「自分には文学的センスがない」というトラウマを植え付けてはいけない。制約やお題があって始めて創造性が発揮できるタイプもいる。そのような個性や主体性の発揮の仕方がわからない生徒にとっては「季語」がそれを引き出してくれる手掛かりにもなるだろう。その意味で、「有季も無季も」という提言は理に適っているだろう。注意すべきは、「何でもあり」ではなく、俳句ならではの特性をいかに伝えるかである。野ざらし氏は俳人でない教師に向けての俳句教育も実践し、「ピラミッド型」の俳句教育を提唱している。本書『俳句の弦を鳴らす』は、その教育法を広める重要なテキストである。一方で、物事を広めて一般化するには、単純な「型」がそれに寄与することは定石であろう。自由を基盤とした俳句教育理念を教育の現場で共有し、それをいかに広げていくかを議論してゆくべきだろう。

一方の夏井氏の俳句教育の特徴は、「落ちこぼれ」を作らないということだろう(ちなみに野ざらし氏も「俳句エリートを作らない」と言っている)。先に挙げた夏井氏の著作は学生のみに向けたものではないが、過去の学校国語教育で「落ちこぼれ」た大人たちを救っているようにも思われる。「自由に」と言われることに苦手意識を持つタイプの人々に向けて、俳句ならば自己表現ができる希望を与えてくれる。だが反対にこの「型」を公教育の初めの段階でプログラム化されたらどうだろうか。表現したい主体性のある生徒の個性を縛ってしまうことにはならないか。折角良い感性を持っていても、俳句の束縛を嫌って俳句にネガティブな印象を持たれては、俳句の未来にとって大きな損失であろう。

俳句教育へのより踏み込んだ議論を

ここで、これまで見てきた、野ざらし氏の実践してきた自由を重んじる教育手法を「主体性重視」俳句教育と呼び、夏井氏が実践されてきた型を重んじる教育手法を「客体性重視」俳句教育と呼びたい。俳句はそもそも定型詩なので、「客体性重視」が基本である。しかし、詩の一ジャンルであるのだから、最初は「主体性重視」であるべきだ。この両者の分量を、その人が学ぶ年齢やその個性によって変化させていくべきではないだろうか。もちろんそれには、個別的対応が必要なため、時間と労力に限りがある小中高校の教育では、野ざらし氏のような俳人教師でなければ(そうであったとしても)難しい部分もあると思う。しかし、季語は重要ではあるが必ずしも必要ではないというような根本的な議論から逃げていては、「真実を貫く」俳句教育からは遠ざかるだろう。

唐突だがここで、日本国の教育の指針である教育基本法より第二条(教育の目標)を引いてみる。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

この条文の解釈として児島邦宏(東京学芸大学教授)は次のように解説する。「個人の人格形成を重視するか国家・社会の形成者の育成を重視するかといったように、二と三を対立的あるいは二者択一に捉えるのではなくて、両者を併せ持った「社会的」に自立した人間の育成こそ目指されている(略)別の言葉でいえば、「社会的自己」の実現を(略)求められている」(『教育基本法の改正で教育はどう変わるか』髙階玲治編著)。

俳句は子どもたちの「社会的自己」を育ててゆける文芸ではないかと、私はその可能性に期待している。その為に、自分の俳句を作る(詠む)だけでなく、他の生徒の句や故人の名句を創造的に読むということも重要ではないだろうか。俳句を読むことは、世界や他者の声を聴くことの大切さを教えてくれる。

二〇一七年に「俳句をユネスコ世界無形文化遺産に」という標語を掲げ、四俳句協会(俳人協会、国際俳句交流協会、日本伝統俳句協会、現代俳句協会)は共同記者会見をした。そのような連帯しての発信が出来るのであれば、俳句団体が教育行政にも積極的に提言を出していくことが、俳句の未来にとって真に有益なことなのではないだろうか。

その際に障壁となることが確実なのが、季語の扱いである。野ざらし氏の言う「有季も無季も認める複眼の姿勢」が協会間で共有できるか。もしそれが可能ならば、俳句が、思想信条の異なる他者を認め合い共存する平和思想を、日本社会や国際社会に示せる格好の機会となるのではないだろうか。
最後に、高校生の俳句をいくつか紹介したい。

榕樹たち根をはり平和にしがみつく  山内えりか
夕焼けが燃やす赤々と未来地図  長浜 弘美
苦しみのつばが固まる勝利の道  仲宗根 智
以上『俳句の弦を鳴らす』より
緑蔭や絵の具付きたる友の頬  尾上 純玲
寝る父と半分残る冷奴  外舘 翔海
傷口を洗ひ蚯蚓に継ぎ目かな  清水 瞳美
以上『俳句甲子園公式作品集第9号』より

「コールサック106号」より転載

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