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『評伝 赤城さかえ』刊行と「第二芸術論」論争

赤城さかえと闇の俳句史

俳人・ノンフィクション作家の日野百草氏により、新著『評伝 赤城さかえ―楸邨・波郷・兜太に愛された魂の俳人』が刊行された。赤城さかえは、戦中コミュニズム活動をしていたがその後転向し、結核に罹患するも、評論「草田男の犬」や主著『戦後俳句論争史』などを残した。齋藤愼爾氏は帯文に、「近現代俳句史の闇に久しく埋もれていた赤城の全的復活に与って力のあった日野氏に満腔の祝意を表したい」と推薦の辞を寄せている。副題の「楸邨・波郷・兜太」らが現在陽の光が当たる正統な俳句史の主要人物であるならば、赤城さかえが主人公の本書は、「闇」の近現代俳句史を辿る試みであるともいえるだろう。


著者の日野氏は「序に代えて」で「これまでの赤城さかえの単なる伝記の類いではない、新たな評伝として残るよう務めたく思う」と述べているが、記録や事実の列挙だけではない、著者による評価や関わりのあった俳人への踏み込んだ言及を含んだ「評伝」の手法により、闇に埋もれた俳人、また闇の俳句史に光を当てることに成功したと思われる。
それが最も象徴的に表れているのが、赤城さかえの代名詞のように言われる「草田男の犬」論争の一連の件である。
この論争、さかえとその反対者による論争という単純な構図ではなく、新俳句人連盟という組織内で局所的に現れた、当時の俳壇全体の縮図的な論争でもあることに注目したい。
さかえが昭和二十二年に発表した「草田男の犬」(中村草田男の句〈壮行や深雪に犬のみ腰をおとし〉を「短詩型文芸の最高水準」と評価)に猛烈に反発した新俳句人連盟の「急進派」らの「草田男憎し」の心情を、日野氏は次のように解説している。

「新興俳句運動の批判者として(まして大虚子の弟子、ホトトギス派として)、そして天才草田男として自他ともに認められた存在として矢面に立ったからこその「有名税」でもあろう。また新興俳句の俳人側(とくに弾圧を直接受けた側)からすれば、伝統俳句を標榜しながらそれほど我々と違うとは思えない進歩的な俳句(と勝手に新興俳句側が思っていた)を詠みながらこちらを批判し、あげく草田男だけが捕まらずにのうのうと生き延び、戦後現代俳句の中心人物のような面をしているのか、といったところか。」

このように戦中の「俳句弾圧事件」の迫害者らが中心メンバーであった新俳句人連盟には「草田男憎し」の俳人たちが少なからず存在していたが、連盟の一員であったさかえは、仲間である彼らに容赦することなく、草田男の句を激賞した。それに対する反発がこの論争の基本構造である。本書の第二章では、芝子丁種、山口草蟲子、島田洋一、古家榧夫、潮田春苑、横山林二と、一般的な俳句史ではあまり名前の出てこない、それこそ闇に埋もれている俳人たちがさかえと論戦を闘わせた、各々の記録が記されている。草田男の肩をさかえが持ったことにより、ある意味で「新興俳句vs伝統俳句」の場所と形を変えた代理闘争とも捉えることができるのではないだろうか。しかし一方で、その構図を新俳句人連盟の外から冷めた眼で眺めるならば「左翼俳人グループの内紛」とも映っていただろう。当の草田男は不干渉のようだし、またさかえは論争相手を「左翼小児病」と呼び軽蔑的に取り扱ったことからも、そんな雰囲気が伝わってくる。
さて、日野氏の俳句史の手法の特長はここからである。「草田男の犬」論争でのさかえの相手として一般的な俳句史では名前だけ登場する「芝子丁種」の生涯や人間性を深く掘り下げる。丁種への日野氏の言及の結論部のみ引用しよう。「丁種は戦後、高度成長の恩恵を受けることなく、文学的成功も得られず、「土上リアリズム残党」として不器用な人生を送った。幸いなのは妻のヤエと添い遂げたことか。」(鈴木注―俳誌「土上」は島田青峰主宰の自由主義俳句の先駆だったが新興俳句弾圧事件により壊滅、青峰は病死。)
丁種は、くも膜下出血で倒れその後精神を病んだ妻ヤエの介護の日々を俳句にしている。

わが句業 支えしヤエよ 燃え果てしか
狂妻を詠むつたなきわが句 ヤエ知らず
医師診放す ヤエ見舞う人も遠退くや
なぶられいしか ヤエの虚言をわれ詫びる
一緒に死のうといえば肯く狂気の妻

句から痛々しく伝わるようにヤエの介護に献身するも、その後悲惨なことに丁種はこの妻を残し、すい臓がんに倒れ死んでしまう。日野氏は丁種の俳句を「俳句史」に残る名句として引用したのではない。それは「草田男の犬」論争という「正史」に関わった、一人の敗北者の人生の文学としての引用である。コミュニズムからの転向者、結核患者である赤城さかえという「敗北者」の評伝に埋め込まれたまた一人の「敗北者」。人生においてどんな困難な状況におかれても、誠実に生き、決して上手くなくとも俳句を詠みその生を刻むことも、また一つの俳句の姿である。なおこの論争も勝者の曖昧なまま終結する。
現在のコロナ禍を逞しくも懸命に生きる市井の人々へのインタビューを元にしたネット記事(NEWSポストセブン等)を書き続ける日野氏の作家性が、色濃く発揮された俳句書である。

「第二芸術」と「第二芸術論」

さて、この『評伝 赤城さかえ』には、さかえの主著『戦後俳句論争史』から、第一部第三章の「根源俳句論争」について日野氏の概説が掲載されている。本欄後半では、『戦後俳句論争史』第一部第一章の「「第二芸術論」論争」について掘り下げてみたい。ここでは、桑原武夫の「第二芸術」(俳句は芸術以下の慰戯であると批判)とそれに対する反駁がさかえによってコンパクトにまとめられている。複数者による論争を整理し残すことは、一時代の思考の軌跡を記述することであろう。論争の中道を探る後世の者にとっても、得るものが大きい。
『戦後俳句論争史』の「「第二芸術論」論争」の構成は次のとおりである。⑴序に代えて、⑵第二芸術論とその前後―局外批評と俳壇―、⑶「第二芸術」の周辺、⑷俳壇からの第二芸術論批判。⑴では、当初「馬醉木」に連載されたこの論の執筆に当り、俳句論争の「対立の姿を浮き上らせ、その対立の意味を探って見、できれば、その対立を歴史的に位置づけてゆく」という態度表明をしている。⑵では、論争の発端となった桑原の評論「第二芸術」(昭和二十一年)の概要を紹介している。⑶では、この桑原論の出た前後に発表された他の論者の短歌俳句論も含めて広義の「第二芸術論」を紹介している。例えば、臼井吉見の「短歌への決別」(昭和二十一年)について次の引用がある。

「短歌形式が今日の複雑な現実に立ちむかう時、この表現的無力は決定的であるが、それより重要なのは、つねに短歌形式を提げて、現実に立ちむかふことは、つねに自己を短歌的に形成せざるを得ないといふ事実である」。

さかえはこのような臼井の短歌批判に対し、「短歌の文字を俳句とおき替えるだけで、直ちに俳句や俳人に鋭く迫ってくる事柄が多いことも否定できない」という。さらにいくつかの文献を紹介した後に、「第二芸術論の出現ということは、単に俳句や短歌が痛烈に攻撃されたというだけの事件ではなく、日本という風土における近代の貧困や近代思想の混乱とも深い関係を持って居る、民族的な文化課題として、はしなくも登場した問題であることがわかって来ます」と、一連の「第二芸術論」を、日本の「民族的な文化課題」の帰結として生じてきた必然性のある問題意識と位置付けている。
赤城さかえ自身も俳人であり、攻撃を受ける側の立場であった。しかし、それを甘んじて受け入れ、状況を大局的に分析し評価できる批評家的態度を持ち合わせていたが故に、この『戦後俳句論争史』を著することができたと言えるだろう。
⑷では、「第二芸術」に対する俳壇側からの反論を一書にまとめた孝橋謙二の『現代俳句の為に』を基本文献として、山口誓子、中村草田男、日野草城、西東三鬼、穎原退蔵、加藤楸邨らの「第二芸術論」への反論を紹介している。
その中でも特に注目したのが、草田男と楸邨の「第二芸術論」への反応を比較対照して論じている箇所である。
中村草田男は、三度にわたって「第二芸術論」に反駁する論を書いた。その結果、「第二芸術論がはしなくも、それ(鈴木注―草田男という俳人の人生観、自然観、俳句観)をかなり隈なく照らし出す役割をした」とさかえは指摘している。またさかえは、草田男の基本態度として「第二芸術論は短歌俳句の敵であり、謂うところの「教授病」的優越感を持した態度やその「解説的・形式的機械論」は、まず何よりも徹底的に叩き据えねばならぬ対象であった」と解説している。
草田男、石田波郷と並んで「人間探求派」と呼ばれたもう一方の加藤楸邨(さかえの師)の反応は、草田男のそれと随分異なる。「俳句には局外から没落を予言せられる弱さをたしかに持つているのである。没落の不安を感ずることなしには俳句は作りつづけることはもはや意味のないことなのである」(楸邨)。さらに、「この問題は結局、人間的要請と俳句形式の問題に整理せらるゝものである」として、「第二芸術論」による俳句批判を正面から受け止め、俳句性の本質を花鳥に限る俳句観ではない「人間性」を俳句形式で表現していかなくてはならないという、俳句界の前途への問題意識として捉え直す。
さかえは両者を比喩的に言い表している。「草田男の態度は「教授病山門に入るべからず」と仁王立ちに立って法敵を追い払って後、おもむろに山門を振り返って仲間の僧兵を叱咤する荒法師の如くであり、楸邨のそれは、同じく荒法師ではあっても、いきり立つ仲間の僧兵をなだめながら、まず法敵の腕を執って慇懃に山門内深く請じ入れ、じっくり相手の論法を聴いた上で、じわりじわりと説き返すというような態度であったと言えます」。なお、「確かに俳句世界全体の不備と欠陥と病所に、ハッキリと触れた文字が可成り多く含まれている」と草田男が述べ、桑原論を全否定していないこともさかえは掲出している。

日本人の「伝統」を問い直す

桑原武夫の「第二芸術」は、「局外」からの論評であった故に、俳句の本質的な弱点を突くことができたといえるだろう。その批判に対して、〝ある程度の年数を俳句に費やしていなければ俳句は分からない、部外者に俳句を語る資格なし〟というような主張こそ、俳句の閉鎖性、非「芸術」性を表していると思われる。楸邨は「当然俳句若しくは短歌に繋る者の内からの課題として提出され探求されなくてはならないし、さうでなかつたことは残念であつたと思ふ」(傍点さかえ)と述べている。俳句に携わる俳人が「内からの課題として提出」できなかったことに、俳句らしさと共に俳句の脆さがある。
桑原武夫は、その日本の伝統文芸である俳句を目の敵のようにして、またそれを作る俳人に向けて挑発的に攻撃したように見える。しかし、これは表面的なレトリックであり、その批判の真の矛先は日本人にとっての伝統のあり方ではないだろうか。まさしくさかえの指摘した日本の「民族的な文化課題」が本丸だったのではないか。それを知るには桑原の伝統観を掘り下げる必要がある。
桑原の評論「伝統」によれば、そもそも「伝統」という日本語はトラディッション(tradition)の訳語として、明治年間につくられた新造語であり、それ以前は「伝統」という概念は無かった。ヨーロッパはフランス革命によって民衆が勝ち取った「自由」に対立する概念としてはじめてトラディッションの観念が生まれたので、「伝統」とは「近代的」な概念である。そしてその伝統とは、「無反省的な慣習と論理的にいいあらわされた理念との中間領域にあるもの」で、意志的なものである。つまり、このような過程がない日本には伝統もまた近代もなく、日本の伝統は「無反省的伝承的なもの」であるという。

「日本での伝統という言葉は、外から押しよせるさまざまな力に対して、正面からこれに抵抗する自信と力のない、その心のやるせなさからのノスタルジアのような、悲しい響きをもっていることは認めねばならない。」

日本人の伝統観に対して批判的だった桑原の目には、俳句は「無反省的伝承的」な日本的「伝統」の象徴のように映った。日本人の民族的弱点の自覚なしに現代俳句は始まらないだろう。

「文学者とは、よきものにせよ悪しきものにせよ、常に伝統に反抗して、そこに新しいエキスペリメントをなさんとする人間である」。

桑原のこの言葉は、そのまま新興俳句陣営の俳人の言葉だと言われても疑わない。桑原の「第二芸術」は、俳句の外から、日本人の伝統とそれに従属する俳句を揺り動かした。

「コールサック108号」より転載

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