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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ小76 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ小76 

2光秀の年齢 4光秀、最大の敵 6/6 

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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ小76 そ第76話

 【参照】 ←テ第76話 ←◎第76話 ←第76話

 光秀の最大の敵は、時間だった。
 光秀は、着実に、老人に近づいていた。
 光秀は、頑強な体力の持ち主ではなかった。

 嫡男光慶は、若すぎた。
 後継者としては、力量不足。
 光秀は、きわめて難しい問題に直面していた。

 信長は、当然、このことを知っている。
 秀吉は、後継問題に、すでに、先手を打っていた。
 それに対して、光秀は、・・・・・。
 ただ、結果として、「本能寺の変」が起きている。
 このことから、手を打っていなかった、のではないか。

 また、家康の嫡男、松平信康 (信長の娘婿) の一件もある。
 警戒していたのだろうか、・・・・・。

 光秀は、信長を信用していない。
 信長は、猜疑心が強い。
 光秀もまた、猜疑心が強い。
 「同じ穴の狢」

 二年前の衝撃。
 
佐久間信盛を見よ。
 「走狗、烹(煮)らる」
 用が済めば、棄てられる。

 没落の怖れ。
 光秀は、明智の将来が不安だった。

 明智は、存続の危機に瀕していた。
 守るべき者。

 明智の命運は、中国出陣によって定まる。
 「右」か、「左」か。
 ここが、運命の分かれ道。

 光秀は、心を決めた。
 生き残る道は、ただ一つ。
 秘して、語らず。
 それを知るのは、己のみ。

 そして、本能寺へ!!



 ⇒ 次へつづく



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