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シンガポールの歴史 3

4  : イギリスによる植民地支配時代
1819年、イギリス人トーマス・ラッフルズがシンガポールに来ます。時代背景として、当時、インド、オーストラリアがイギリスの植民地でした。同じイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、そして中国(当時の王朝は清)などとのあいだでアヘンや茶などの東西交易が盛んでしたので、シンガポールを、三角貿易の中継地点として目をつけたんですね。 

当時、人口わずか150人程度だったそうです。1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より、ラッフルズは商館建設の許可を取り付け、都市化計画を推し進めます。 

その際に「シンガプーラ」という名前を、イギリス人が発音しやすいイギリス風の「シンガポール」という名前に変えました。これが現在のシンガポールという国名の由来となっています。 

そして、1869年、スエズ運河が開通し、ヨーロッパと東アジアとの距離が一気に縮まります。それまでアフリカ南端喜望峰経由ですから、シンガポールの重要性が増したのは容易に想像できます。 これにより、シンガポールは東アジアとヨーロッパを結ぶ貿易航路の中継港としての価値をますます高めていくこととなっていきます。

また、ラッフルズは、無関税の自由港政策を推し進めました。ほかの東南アジアの港湾が入港税を徴収しているのに対し、 この無関税の自由港という魅力的な政策により、シンガポールは東南アジアの貿易拠点としての地位を獲得していきます。ビジネスや就労のチャンスを求めて東南アジア、中国やインドなど周辺諸国の人々がシンガポールに移住を始め、人口・労働力ともに力をつけていきました。 5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破したと言われます。 1873年から1930年までの60年のあいだにシンガポールの貿易額は八倍も上昇したとのことです。凄い勢いですね。

ちなみに、当時、植民地政策は次の3つのタイプに分類できます。 

 ○植民地を従属させるタイプ : 欧米がアジアでとったタイプで、貿易ルートを独占したり、強制栽培制度を押しつけたりするタイプ

○本国に同化させ、植民地を本国の一部のように統治するタイプ :フランスが北アフリカでとったり、日本が朝鮮半島、台湾、のちのシンガポールでとったタイプ

○植民地を支配しつつ、移住した自国民に自治権を与えるタイプ : 植民地政策の中では新しいタイプで、イギリスが、カナダやオーストラリアにとったタイプ 

イギリスも、シンガポールで例に漏れず、植民地を従属させるタイプだったようです。ですので、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きました。 社会構造としては、支配者であるごく少数のヨーロッパ人(官吏・軍人・資本家など)が大多数の先住民を搾取する植民地社会だったようです。

そしてこの時期、ヨーロッパ人と先住民との中間に中国人(華僑)・インド人などの外来のアジア人からなる社会層が形成されていきます。これは東南アジア独特の特徴と思います。今も華僑が経済的に強い力を持っている所以です。 

彼らは労働者として、また商業活動の担い手として移住してきたのですが、そのなかから、やがて経済力を蓄える人も現れます。特に華僑(中国人)の活動がめざましかったんですね。私が、東南アジア(マレーシア、フィリピン、ベトナム、インドネシア、タイ)で会うビジネスパートナーはほぼ全員中華系です。

一方、先住民は、コーヒー・砂糖・茶・ゴムなどの輸出用の作物の栽培をつうじて変動の大きな世界経済と直接結びつけられ、不安定な生活に追いやられます。強制栽培制度によって、オランダやイギリスは、莫大な富を得る一方、住民は、植民地政策への不満が高まっていったと思われます。

ところで人口ですが、1819年ラッフルズ上陸時は150人程度だったと言われていますが、その後5年で1万人を突破。 1824年に最初の人口統計が実施された際にはマレー人が60.2%で最も多く、ついで中国人が31.0%、インド人が7.1%などだったようです。 

この時期、マレー半島から移って来たマレー人をはじめ、中国人は主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部から、インド人は主に南インドのタミル語圏から、 そして現在のインドネシアなどから多くの移民がシンガポールへやって来ます。 

1840年には中国人が過半数を超え、1910年にいたると中国人が72.1%に達し、マレー人が16.0%、インド人が8.0%などとなり、ほぼこのような人口構成が今日まで続きます。

ですので、19世紀以降にやって来た人々(マレー人・中国人・インド人そしてヨーロッパ系のユーラシア人)の子孫が現在のシンガポール国民を構成しているのです。 

この時期の繁栄が今日の多民族国家としてのシンガポールの基盤となったんですね。

次回、イギリスのシンガポールでの植民政策について、もう少し詳しく見て見ます。



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