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なぜみとん今治は「今治愛に欠ける」と指摘されるのか12

インターネットやSNS、また、一過性のイベントで荒木君に出逢った人は彼に対してどういう感情を抱いているのだろうか、と思うことがよくある。

そして、前回、綴ったように

「彼と地元との関わり合いの中を外野から見ていて、違和感はないのだろうか?」

という疑問がある。
地元に帰省したということは、彼の小~高校までの同級生が本来、彼の周辺にはいるはずである。
また、それ以外に彼が今治に帰省してからの3,4年間で人的ネットワークが多少なりともできているはずである。

特に、地方を盛り上げるために帰省したとなれば、本来、みんなが彼や彼のサイトを応援するような雰囲気やコメントがSNS上にあっても良いとは思わないだろうか。
SNS上に、というのは彼に対する「リプライ」でなくても、「みとん今治」というワードでもよい。
しかし、検索したらわかるのだが本当にヒットしないのである。

「地方ではSNSを通してのコミュニケーションはそんなに盛んじゃないでしょ?」

という声が聞こえてきそうだし、実際のところその通りでもある。
それにしても、「まるで意図的に避けるかの如く」みとん今治には触れないのである。
リツイートやいいね!などは一定数あるものの、引用tweetや「みとん今治」というワードを使っての表現は本当に数少ない。

そして何より、現実の今治というフィールドでも、「みとん今治」の話題は気安く口に出せるものではない雰囲気を少なくとも私は感じる。アクティブユーザーが5万人もいる!にも関わらず、である。

それは「情報サイト」として、情報の根拠として「みとん今治」を利用している、つまり彼の言うところのアクティブユーザーであるものの、それを大ぴろっげにリアルな生活上で他人に言うのが何か恥ずかしいような、いわば「2ちゃんねる(現5ちゃんねる)ユーザー」のような感覚に近いのではないだろうか。(5ちゃんねるも情報収集の源としては有益な部分がある)

また、今治の企業や行政や各種団体を支えている人には、彼の出身中学や出身高校の人間も当然多い。
しかし、彼らはみとん今治に決して深入りしようとしない。
荒木君が「あえて」、昔のよしみを全く頼ろうとしていないという謎のこだわりを突き通しているのならともかく、恐らく彼らも今の荒木君に対して何か深入りはできないな、と感じる何かががあるのだろう。

私の周りの荒木君の友人の感想が勿論すべてではないだろうが、
たまの集まりでは友人から「おーがんばっとるやん、何か手伝えることあったら言ってよー」
と声をかけられるが、実際にその後に「こうして欲しいんやけど」と彼に言われると最低限のリアクション(1番低い支援)や、「明日ゆっくりみてみよわい」などとお茶を濁されていることが多いように感じる。

実際に、みとん今治が同級生を取材したバリ人の記事もある。
その記事中に「同級生」としての記述がほとんどないのは、恐らく彼の方向性だと思うし、それはそれで良いと思う。(しがらみなく人を紹介したいという意図だろう)

しかし、取材後にさらに深い関係に、とまでなかなか至っていないのが非常にもったいなとつくづく感じるのである。
やはり同級生という立場の人が接したとしても、何か感じるものがあるのだろう。

この記事で強く言いたいことはもう1つある。
私は「コミュ障」という言葉を簡単に口に出す人はハッキリ言って信用していない。
その言葉を「免罪符」のように身にまとっているような感覚がするからだ。

またしても、長くなりそうなので、ここまでを前編とします。

肝心の表題の所まで行かなかったことが毎度のことで申し訳ないです。
>>インターネットやSNS、また、一過性のイベントで荒木君に出逢った人は彼に対してどういう感情を抱いているのだろうか、と思うことがよくある。

次回、この部分について私なりに考察したい。

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