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自己肯定感の低いメンヘラオタクは実は自分が大好きという話

こんばんは。みとひです。
2日目も書けませんでしたね。私はカスです。

さて、本題に入る前に、前提として下記noteをご覧いただきたく思う。

まぁ、お時間のない方もいるかと思いますので、今回のお話で重要な箇所のみ引用させていただきます。

早寝早起き、1日3食、散歩や筋トレ、長めの入浴。これだけで人の精神は基本的に回復する。それができない人は、尖った感性を社会性で無理やり埋め込まれる。変人として好きに生きるか、社会に馴染んで個性を失ってまで大人のふりをするか、僕にはその二択を迫られているように感じる。もちろん、本当はそんな極端なものではないのだけれど。なにぶん、感性豊かな変人枠ですからね。大袈裟に受け取ってしまうのですね。

エッセイ:先生と僕と僕の自我
にゃるら

一文で対比的に表すならば、「群れれば個を失い。個を守れば迫害される」ということである。
私は、酷くこの考えに賛同した。
そもそも、社会に迎合するということは多くの人間と付き合っていくために自分を失うということである。
相手と自分がぶつからない様に常に妥協点を探して生きる。
角は自然に丸くなっていく。そして均一化されていく。
多くの人が自分だけの個性が欲しい。何かを創りたいと思ったとしても、人間社会で生きていくためには、自分を捨てなくてはならない。
そして、何も生み出せずに消えていく。かくいう私もその一人ではあるが…
逆に個性を持ち続ければ頑固な人、空気の読めない人として後ろ指を刺される。出る杭は打たれるなんて言葉が世にはびこるくらいである。

まぁ、要は社会に迎合する=個性を失うという話に大いに賛同し感心した。
ただ、これだけでは、にゃるらさんの記事に感動した!で終わってしまうので、自分なりに先を考えてみたわけである。

ここで本題に戻るが、自分が長年抱いてきた「メンヘラは自分が大嫌いで、本人が言うには自己肯定感が低いのに、周りから見ると自分のことが大好きに見える現象」に関して上記記事から分析することが出来たということだ。
もうすでにそんなのは分かっているという人は多々いるだろうが、私にとっては大きな発見だったので許してほしい。
(もちろん私も自分が嫌いなメンヘラの一人である。)

まず、メンヘラがなぜ自己肯定感が低く、「メンヘラ」であるかを考察する。
直球的に考えて周りの人に承認されないから、承認されたとしても自分自身がそれを素直に受け入れることが出来ないからであると考える。
逆に言えば、周りから承認され、それを受け入れることが出来るならばその人はメンヘラではないということになる。

では、周りから承認されること。それぞれに関してどうすれば満たされるかを考える。

最初に、周りから承認されること。に関して。
こちらは単純だ。社会に迎合すればよい。
感情も個性も捨て去り、周りの求める人間になってしまえば、居る場所はできる。求められた成果を上げれば褒められることさえあるだろう。少なくとも出る杭は打たれる・誰かとぶつかることはないのだから、迫害されることはないはずだ。

次に、自分自身が周りの評価を受け入れること。に関して。
こちらは自己という概念を捨て去るということで解決できる。
要は自分の中にある「自分はこういう存在だ」という認識を完全に捨て去り、「周りの人間が話す自分こそが自分である」という認識に完全に置き換われば、評価を受け入れるも受け入れないもなくなる。周りの評判こそが自分の全てなのだから。

まとめるならば、感情と個性を捨て、自己概念を放棄し、他人に同調して、他人の話す自分を自己像として生きていく。これが社会に迎合するということである。
参考になりましたか?
なあんだ。とっても簡単なことじゃないか!!
明日からはこれを実践してメンヘラをやめようと思います!!!!!



と長々と書いたが、再びメンヘラがどういう存在なのか記載すると以下のようになる。
感情と個性を捨てられず、自己概念を放棄できず、他人に同調しない人間。
ここまで、解体すれば表題の答えも見えてくる。
個性(自己概念含む)を捨てられない=社会に迎合出来ない。ため評価されず、評価を受け入れられず、居場所がないように感じ。
周りから見れば個性を捨てていない(空気を読まない。我が強いなどど言い換えても良い)ために、何を言っても反応が悪いと自己肯定感が高いように見える。
要は、自分から見た社会は自分を拒絶しているように感じるが、社会から見た自分は迎合しようともしない個に見える。(強い言い方をするならば敵に見える。)
こうしてメンヘラの中では社会の認識と自分の認識に相違が生まれ、より悪化していくこととなる。

私はメンヘラ側の人間なのでこう書くが、まとめるならば、メンヘラは個性を捨てられない自分が大好きな人間たちである。自分が社会に受け入れられないと嘆く一方。社会なんかに迎合したくない。という人間たちである。
個性を誰よりも強く持ち、何よりもなくなるのを恐れる。
そういった「自己肯定感の低いメンヘラオタク」は別の視点から見れば「自分の個性が捨てられない=大好き」ということである。
もし本気で個性を捨てて社会に迎合しようと出来るならば、きっと社会は生きやすくなることであろう。
















ここまで書いておいて何だが、多くの人間は個性と感情を保持したまま良い塩梅を見つけて社会になじんで暮らしているんだろう。
ただそこには多少、他の人やルールなどの色と自分の個性の色が重なり合いにじんでぼやけている箇所があるだろう。
これは少なくとも自分を捨て、相手と合わさっていることを指す。
世の中では、この色の重なる場所が少なければ少ないほど煙たがられ、孤立していき、異常者として扱われる。
ただ、こうした異常者にしか出来ないこともある。
その大きな箇所がクリエイティブであると私は思う。
画一化された色の人間が生み出すものは周りの人と同じ色でしかないと考えるからだ。
だから、社会が生きづらいと感じている人。社会に迎合したくないと思っている人。そういった個性の強い人間である貴方はどうかその個性を大切にしてほしい。個性を愛してほしい。メンヘラであっても構わない。私はそんな貴方を愛おしく思う。
これは同族を増やそうとする私の本能かもしれないが、個性を強く持ち、社会不満を抱いて生きている人間のほうが、何よりもずっと人間らしく思うのだ。


社会に迎合しないでくれ!仲間でいてくれ!
嘘。生きやすいように生きてくれ。























いやあ、やっぱみんな画一化してくれたほうが尖っている人間が自分だけになって良いかもな…


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