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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(17) 第4章 4.6 文献調査-江戸時代後期~昭和③


### 4.6.6. 小野晃嗣(小野均)『近世城下町の研究』(1928年)

■ 城下町研究の第一歩

出典: 近世城下町の研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281153
※以下、この項で引用するテキストの引用元は註釈がなければ上記

蒲生氏郷町割ヘタ疑惑検証のときに、この本の近江日野についての言及を少し取り上げました。これまた名著です。城下町研究の第一歩となった一冊です。昭和三年刊。ついに昭和まで到達しました。


■ 日本に放射状街路の城下町は存在するのか、しないのか

小野氏はまず、都市の形態は世界的に見ても、碁盤目型か放射型、その両者の複合型の三種しか基本的には存在しないと断定します。

その断定の妥当性はさておきともかくはてさて、小野氏は、放射型はヨーロッパにおいても稀(まれ)にしか見ることができない……と続けました。

その上で、日本の城下町についてこう述べています。

> 我が近世に於いて城下町の採用した都市計画も、亦、依然碁盤型街路によるもので、放射線的都市計画は殆ど之を見ない。唯僅に宇和島城下に於いて、放射都市計画の採用の例を発見し得るに過ぎない。

このくだり、よっぽど多くの人々の琴線に触れたのか、以後やたらと引用されています。

「なるほど! 宇和島城は五角形だもんね! 放射状になるよね! わかる!」
てなウケかたをしたのではないでしょうか。

豊田武氏は『日本の封建都市』で、江戸と金沢は同心円状に城郭が町屋に包囲されているが、歴史的・地勢的にそうなったものであり、厳密な意味での放射線的都市計画ではないと述べます。

そして
"この種の蜘蛛網形としては、僅かに越後の村上(本荘)と宇和島にこれを見る程度である。"
と、村上城を足すというお茶目をしています(豊田武『近世城下町の研究』)。

小和田哲男氏は引用したのち
"城が五辺形であり、縦横の道を難しかったため結果的にできあがった形態であった"
と、宇和島城下は望んで放射型になったのではなく、結果的にそうなったのだとしました(『城と城下町』)。

厳密な意味での放射線状都市計画ではないという指摘ですね。

小野氏は取り上げませんでしたが、江戸と金沢が放射線状であるという指摘が江戸時代から存在します。

有沢武貞(1682-1739)は『金城起原及城下得失考』の中で
"城ヲ中ニシテ八方ヘ町割ヲナス者、東都ノ外にハ金府バカリ也"
と述べています。その理由を要約すれば、江戸の町割が八方向である理由に都市計画的なものはなく、人口増加に合わせてなりゆきに街区が拡張したからだとし、金沢もだいたい同じようなものである、なのだそうです。

豊田武氏が江戸と金沢を同心円的と表現したのは、この文献を踏まえてかと思われます。

したがって幕末以前の日本に計画的な放射状街路の城下町は、ほぼ存在しなかったと言えるでしょう。

ところで、そのわずかな例外だと小野氏が主張する、宇和島城下の街路はどんな感じなんでしょう?

4610_宇和島1

図 4.6.10: 宇和島御城下地図

出典: 宇和島御城下地図 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/299759/1/1
※矢印は筆者による加筆

4611_宇和島2

図 4.6.11: 宇和島御城下地図(街路トレース)


 ……碁盤目ですやん。こんなん、まずまず碁盤目ですやん(図 4.6.10 、図 4.6.11)。

 東南東の方向だけ五角形の一辺に合わせて向きを変えただけで、七割がた、図 4.6.10中の矢印の方向で方格設計になっているじゃないですか。

 あと、村上城もこれが蜘蛛巣状と言われても、

4612_村上

図 4.6.12: 正保城絵図 越後村上城


それはちょっといかがなものか感が(図 4.6.12)。

このレベルで放射状を名乗っていいなら、もっと増えると思うんですよ(図 4.6.13)。

4613_放射状

図 4.6.13: 放射状都市に入れたい城下町3つ


おや? 五の字のはずの盛岡城が(笑)。

あと、松坂城に、徳島城に、臼杵城も放射的な部分はあります。

宇和島城を放射型に入れていいなら、これらのいずれも入って然るべきでしょう。

しかし、小野氏はそうしませんでした。なぜでしょうか。その疑問の解はいったん保留して、次に進みます。

■ 一つは地理的要因によって

>  理想的都市計画たる碁盤割も、一つは地理的条件により、一つは軍事的要求によって、歪を生ずるのである。福岡の如き大領主の城下町として殆ど一往還路を中心とするに過ぎない小城下の観を呈して居る事は、一面博多に接続せる為であるが、又海岸に接近して碁盤割を実施する余地なき地理的条件も考慮に入れねばならない。地理的条件が如何に都市計画の上に影響を及ぼすかは伊賀上野の都市計画と伊勢津のそれとを比較する時に於て明瞭となる。上野、津ともに藤堂高虎の計画になるものであって、然も上野城下は市区整然たる計画であるに対して、津のそれは甚だ整備を欠いてゐる。同一計画者如斯き差を生じたのは津の地理的欠点に左右せられたものと云ふべきである。故にこそ、正司考棋は経済問答秘録に於て、(九巻)
> 「市町は阡陌ニ長短無キヲ最上トスレドモ、城下地形に由テ自由ナラズ、筑前ノ福岡・勢州ノ阿濃津等是ナリ」
> と述べてゐる。

強い説得力! 強い説得力!
「伊賀上野・伊勢津はどちらも藤堂高虎の設計。なのに、上野は整然としてて津は整備が欠けてる。津は地理的に方格設計の難しい土地だったと言うべきだよね」

うおおおおおおん。説得力のある隙のない論理じゃないですか。 なぜ、平成の城郭研究はこの指摘を無視して、街路屈曲の理由を遠見遮断一辺倒に帰せてしまったのでしょう。

ところでみなさん、福岡と伊賀上野と津の古地図を実際に確かめてみましたか?

筆者は当初、あまりの説得力に納得してしまい疑いもせず、一次ソースを確認するという基本を忘れてしまいました。

では、反省もすんだことだし、ちょっと見てみましょう。

(1) 福岡城

4614_正保福博惣図

図 4.6.14: 正保福博惣図

出典: 福岡市教育委員会『史跡 福岡城跡 ―東の丸発掘調査― 福岡市埋蔵文化財調査報告書第546集』


oh...コレハ、方格設計ガ、アリマース...(図 4.6.14)

なるほど、城のすぐ北のあたりはたしかに
「殆ど一往還路を中心とするに過ぎない」
と言えるかもしれませんが、この都市全体をもって小城下と呼ぶのはいかがなものでしょうか。

現代でも、福岡市中央区と博多区はまるで別の町と呼ばれますが、それは本来、侍町と商人町なのだから当然です。

しかし、都(ミヤコ=行政の府)と市(イチ=商業地区)を合わせて「都市」なのです。福岡藩が意識した「城下町」には博多が含まれると考えなければなりません。これは幕府に命じられて作成し提出した『正保城絵図(正保福博惣図)』に博多が描かれている点からも明らかです。

小野氏が博多を城下町から切り離し、福岡城周辺だけをもって碁盤目のない小城下と評価したのは恣意的と言わねばなりません。

(2) 伊賀上野

4615_伊賀上野

図 4.6.15: 上野城下町絵図(推定 正徳五年(1715))

出典: ファイル:IgaUenojyo26.jpg - Wikipedia
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:IgaUenojyo26.jpg


なるほど、「市区整然たる」という言葉がまさしく! な城下です(図 4.6.15)。 では次。

(3) 津城(安濃津城)

4616_享保津絵圖

図 4.6.16: 「津絵圖」(享保期(1716~1736))

出典: 津市
 https://www.info.city.tsu.mie.jp


あっ……。ぇえぇ~。うーん…………。

どうなんでしょう、これ (図 4.6.16)。

たしかに伊賀上野にくらべたら多少、道がウネッてますけど、「甚だ整備を欠いてゐる」は言い過ぎではないでしょうか。

むしろ津城城下は一般的な城下より整備が行き届いている方です。

「同一計画者なのに、かくのごとき差が生じたのは、津の地理的欠点に左右させられたからである」
というよりは、
「津の地理的欠点に左右させられたであろうに、よくぞここまで市区整然を実現した。さすがに同一設計者による町割なだけはある」
とするほうが適切に思えます。

小野氏の論理には破綻がないのに、なぜ、こんなことになってしまったのでしょう?

しかし、そもそも城下が地形によって自由にならなかった例として、福岡と津を挙げたのは正司考棋です。

追及はまず彼からいきましょう。くどくなりますが、再引用します。

> 市町ハ阡陌ニ長短無キヲ最上トスレドモ、城下地形に由テ自由ナラズ、筑前ノ福岡・勢州ノ阿濃津等是ナリ、又官道ハ一方稲田ナレバ阡(セン)長シ、然レドモ宅(ヤシキ)裏ハ田地を填メテモ、竪横短長無キ様ニ立ルニ如ズ

はい。ふむふむ。

つまり正司考祺は阡陌に長短が無い――市区の長径と短径に極端な長短の差がないのを理想とする。でも、地形によって市域が影響を受けるわけだから、そうそう理想通りにはいかないよね、と言っているわけです。

ですから、正司考祺は城下の市区か整然としているか、整備を欠いているかは、ここでは問題としていないのです。ここで問題としているのは、あくまで都市全体の長短の差のみです。

後半部分で「官道ハ……」と始めているので、前半は広域視点で論を進めたと読むことができます。『祐清私記』の盛岡御町割之事における「袋のごとく」がミクロな袋小路ではなく、マクロな広域地形を意味していたのと同じです。

確かめてみましょう。

福岡の場合、海岸に沿って東西に長い福岡城周辺の侍町と、商業地区の博多を加えると、東西が南北より極端に長い城下町だったことになります(図 4.6.14)。

このように考えれば、阡陌に長短があって、かつ有名な大都市である福岡城下は、正司考祺とって例としてピッタリだったのでしょう。

よし。さあ、次に行きましょう! 津はどうでしょうか。

津城に関する古地図(図 4.6.16)を見ると、残念ながら(?)、東西と南北に長短がない城下に見えます。

あれあれ? 筆者の推理は大ハズレですか?

しかし、伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ……の津です。松坂では伊勢参りの流行以後、街路に隅違いが生じるという変化が起きました。

こうした変化は、津でも当然に起きたと考えるべきでしょう。

皆さんは津城に実際に行ったことはありますか?

行ったことがある人は、JR津駅から津城址までけっこうな距離があることに気づいたのではないでしょうか? ナニ? クルマで行ったからわからない? ンモー、想像して!(怒)

初期の津城は北を流れる安濃川と南の岩田川に挟まれたエリアを城下としました。城下へは伊勢参宮街道を引き込んで繁昌の勝地の支えとしています。

ですから、お伊勢参りのブームによって、藩の意図を越えて市域が街道に沿って延伸し、「長き町」へと変貌(へんぼう)したことは、想像にかたくありません。

安濃川にかかる塔世橋以北は橋北、岩田橋以南は橋南、ふたつの橋の間が橋内と呼ばれていたそうですから、狭義の城下はともかく、橋北の繁華街の北端から橋南の繁華街の南端までが正司考祺の時代の「津城下町」として認識されていた範囲だったのでしょう。

では、明治22年に市制が始まったときの津市の範囲を見てみましょう。

4617_明治22年津市

図 4.6.17: 明治22年 津市

出典: 津市史 第四巻


図 4.6.17の黒ベタの部分が、1889年(明治22年)に発足した当初の津市の範囲です。1841の正司考祺が考えていた「津」の範囲から、そこまで大きくは変化していないでしょう。

北端は現在のJR津駅の駅前に伸びる栄町。

南端は藤枝郵便局のある藤枝町まで。

海岸沿いの建部村と塔世村は明治22年の時点では「津市」に含まれてませんから、ここは城下町とは意識されなかったと考えられます。

この範囲で、昭和7年の陸軍測量部地図を使って、「もともとの城下町+伊勢参道沿いに延伸した繁華街」を強調すると、こうなります。

4618_江戸後期推定津範囲

図 4.6.18: 幕末の津城下範囲(推定)


どうでしょうか? この図 4.6.18が幕末時点で「津の城下町」として一般に認識されていた部分の想定です。

こういう行政上の範囲と一般に認識される範囲のズレは、ままあることです。行政上の狭義の江戸は四つの大木戸より内側でも、幕末では北は王子から南は品川まで江戸の内と考えられたように。

現代においても、浦安は東京だとして扱われているじゃないですか(扱われてない、扱われてない)。

というわけで、図 4.6.18が正司考祺の考えた津城下町の範囲だとすると、南北が東西より非常に長く、阡陌に長短があって、かつ有名な大都市である津城下町は、例としてピッタリだったのでしょう。

すなわち正司考祺氏の例に矛盾はありません。正司考祺氏は単に、阡陌に長短ある例として、東西に長い福岡と南北に長い津を挙げただけだったのです。

長短に差のある例に挙げられた都市を使って、碁盤目が無いまたは整備が欠けていると説明したのは、あきらかに小野氏の勇み足でした。

小野氏の論理展開には隙はなく、非常に説得力がありました。筆者もコロッと信じ込んで、あやうく地図確認を怠るところだったことは、すでに述べた通りです。

もっとも、この小野氏の間違いによる影響は、それほど大きくなかったのかもしれません。

せっかく地理的条件により道路がが悪くなるという事実に辿りついていながらも、小野氏は結局のところ、城下のひつみを以て遠見を遮断するという従来の説に疑いを抱かなかったのですから。

そして、後続の研究者たちの目も、世間の注目も、地理的要因の方へはそれほど向かわず、ひつみによる遠見遮断にばかり集中していくのです。

■ いま一つは軍事的要求によって?

>  次に軍事的要求に依る歪に関して考察する。
> 「長き町にはひつみを附て、見透を」
> 防ぐとは盛岡城下に際して論ぜられた事である。(盛岡砂子) 宿駅に於て見るが如き単線的街路よりなる根城、(五万分一地図八戸参照) 八上、(二万分一地図八上参照) 世田谷新宿、(二万五千分一地図東京西南部) 佐柿(史学雑誌二八編十一号、福井県下古城址踏査談附図)等に於て既に┗ ┓の如く人為的に屈折せられてゐる。彦根、(彦根山由来附図) 松坂、(松坂権輿雑集) 等碁盤目街の基礎の上に立つ都市計画に於ては多くの箇所に歪の設けを見るのである。

『盛岡砂子』における盛岡町割会議の項は噂を収録したものと思われ、事実として扱えるものではないことは4.4.で、すでに解説しました。

では、小野氏の挙げた
"┗ ┓の如く人為的に屈折せられてゐる"
城下を順にみていきましょう。
 
(1) 根城

4619_南部根城

図 4.6.19: 南部根城

こんなもん、屈曲の理由は、そこに本丸があるからですわ(図 4.6.19)。

なんで本丸を屈曲で迂回してるかというと、そこが高台になってるからですわ。

ほかに理由があるかい、みたいな。

屈曲してるのは、当時の副郭エリアです。ぜんっぜん城下の屈曲じゃありません。


(2) 八上(やがみ)

八上って何県? て思う程度に不勉強な私でした。

ああ! 八上城の八上ですか! 篠山城と指呼の関係にある城と言われる、あの八上城!

聞いたことはある!(行ってないんかーい!)

なるほど、八上藩という藩があったんですね、兵庫県。

参考: 八上藩 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%8A%E8%97%A9

4620_八上

図 4.6.20: 八上城下空撮(出典:地理院地図)

出典: 地理院地図 - 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp
※加筆は筆者による


小野氏の言うカギ型が明瞭になるよう、写真を加工しました。

なるほど、わかりません!(屈曲の理由が)。

これは遠見遮断のためにひつみを設けたんでしょうか?

八上城はこの屈曲の南東の山上です(図 4.6.21: 八上城)

4621_八上2

図 4.6.21: 八上城の位置

出典: 地理院地図 - 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp


つまり、この屈曲は北西から来る敵にしか意味を持ちません。

そのうえ、仮に北西から来たとして、いくらでも田畑を通って迂回できます。迂回したくなかったら、城下の主街道を強引に横切るだけです。

タワーディフェンス・ゲームじゃあるまいし、決められた通路に沿って素直に進み、屈曲を避けないなんて阿呆な敵はいないでしょう。

これは「長き町にひつみをつける」という防衛策に言える根本的な欠陥です。よほどの峡谷の集落でない限り、迂回するか横断するかして終わりじゃないですか。

防衛が理由でないとしたら、八上の屈曲はなぜ存在するのでしょうか?

これもやっぱり地形由来だったのです。1mピッチで標高を見れば一目瞭然でした。

4622_八上3

図 4.6.22: 八上下の扇状堆積地

出典: 地理院地図 - 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp
※加筆は筆者による

奥谷川が山地を抜けたところで吐き出した土砂が堆積し、高さ1~3mの扇状微高地を作り出していたのです。屈曲は、この微高地を避けた結果にちがいありません(図 4.6.22)。

もう少しくわしくやりましょう。

山間部の八上内では、平地をなるだけ田んぼに使いたいのです。このため住宅はなるだけ山裾ギリギリに建てられ、ここに道ができます。

一方、盆地に入り、やや広い土地のある糯ヶ坪(もちがつぼ)では、そこまで山裾に沿う必要がありません。土砂災害リスクのある山裾を避け、水害リスクのある篠山川の河岸ギリギリも避け、中間地点に集落ができ、道が伸びます。

そこで悩ましいのが八上下です。山間部の入り口にあたり、平地が少ないため、原理原則としては、八上内と同様に山裾に沿いたいはずです。

しかし、そこに奥谷川の作り出した1~3mの微高地があります。たったその程度の坂でも、避けられるなら避けたいのが人情というものです。

基本的に中世の生活道は、たとえ遠回りになっても坂を避ける傾向があります。

なんだいそれくらいの坂! オレはもっときつい坂を毎日通勤してるぜ!という人多いでしょう。

そういう人は毎日12リットルの水を持って通勤してみてください。ゆるい坂さえ、どれほどうんざりするか、体で納得できると思います。中世には現代的な水道が存在せず、水くみが欠かせない日課だったのですから(ついでに言うと12リットルというのは江戸時代の4人家族がギリギリ生きていけるだけの飲用水・調理用水だけの量で、洗濯などに使う分は考慮していません)。

そして、坂がイヤだというだけでなく、生命に関わる問題があります。そこに微高地が出来ているということは、過去に土石流が押し寄せた場所であるということです。

八上下の人々が、山裾に寄りつつも微高地を避けたのは、そういう理由によると考えられます。

こうして、八上内と八上下の道は食い違い、強引な屈曲で接続することになったのです。

(3) 世田谷新宿

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図 4.6.23: 世田谷城下町

出典: 大東京史蹟案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190953/160
※加筆は筆者による。


いわゆる豪徳寺(世田谷城)の南の、現代では世田谷ボロ市で有名な世田谷代官屋敷のあるあたりが世田谷新宿上町と下町です(図 4.6.23)。

東京都新宿区は関係なし。

世田谷区役所のあたりが古い方の城下町、世田谷元宿になります。

人口が増えて手狭になったのでしょう。北条氏政の命で新しい宿を作り、楽市を始めたと伝わります。それが南にある世田谷新宿です。先に上町が形成され、さらに手狭になり下町が出来たと伝わります。

なるほど、新宿上町と新宿下町でクランクに屈曲しています。きわめて意図的にやっていそうに見えます。元宿と新宿下町の接続も丁字路です。

しかし、北条氏政が世田谷新宿に楽市を開いたのは1578年です。世田谷、江戸はおろか下総まで後北条氏が勢力範囲を伸ばしていた頃です。

この時期、いったい誰が世田谷城を南から攻めることができるというのでしょう?

敵が来ない城の南の街路を複雑化させて、なんのメリットがあるのでしょう?

安房の里見氏が海を渡って攻めてくる可能性はゼロではなかったかもしれません。

しかし上総で一進一退が精いっぱいの里見氏が、東京湾を越えて打って出るとしたら、もはや大バクチです。わざわざ繋ぎの城でしかない世田谷城を攻撃目標にするでしょうか?

海を渡ったらまっすぐ小机城(横浜市)を目指し、手始めに作延城(川崎市)や茅ケ崎城(横浜市)あたりを攻めるのが普通な気がします。

仮に東から攻め込んだとすれば、烏山川の左岸をさかのぼれば、城下を一切通過せずに世田谷城に到着します。

百歩譲って、南から敵軍が迫ったとしましょう。その場合、長き町を横断するだけです。一瞬です。

馬鹿正直に上町から「ひつみ」を通って下町に進み丁字路で元町へと左折し、元町を抜けてやっと世田谷城を攻める……そんな間抜けな敵はいません。タワーディフェンス・ゲームじゃあるまいし、決められた通路に沿って素直に進み、屈曲を避けないなんて(以下略)

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図 4.6.24: 烏山川の河川敷を避けている世田谷新宿

出典: 地理院地図 - 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp
※加筆は筆者による


世田谷新宿の街路が屈曲した主たる理由は、やっぱり地形由来でした(図 4.6.24)。

そればっかりで、すみませんねええええ。

地形を見れば、烏山川の作り出した谷に降りたくなかったんだな、というのがよくわかります。

いや、ちょっと待てやい筆者さんよォ。

おめェ、水くみがしんどいから、上り下りを避けるのだと言ったばかりじゃねェか。

だったら、高台を降りて河川敷に住むのが貴様の主張の正解になるはずじゃねェの?

……て言われてもこれ、筆者の脳内一人芝居ですからね(ぶっちゃけた!)

ひとつ、水くみでラクしたいだけなら高台の下に住むのがベストです。が、考えるまでもなく、洪水リスクにさらされることになります。

ふたつ、高台の上に田畑を作ると灌漑(かんがい)で地獄を見ます。機械のポンプのない時代なのです。河川敷を水田にし、高台を居住地にするのは当然です。

みっつ、楽市が開かれたということは、多くの住居が店舗と倉庫を兼用していたということです。

じめじめした低地は普通に暮らしてても住居として避けられがちな場所ですが、商店街ともなれば「なおさら」です。商品がぬれたりカビたりしては大損害ですから。

街路は、こういった様々な要因の複雑な「かねあい」のもとに形成され、屈曲が生じるのです。

なんでもかんでも防衛のためのひずみだとするのは、とても乱暴な決めつけです。

(4) 佐柿

福井県美浜町の山間部の谷地にある町です。

若狭国の東端にある険しい山に囲まれた盆地で、古来より交通の要衝でした。特に東の越前から若狭に入る時は、ここの椿峠を通過せねばなりません。

このため椿峠の南の御岳山(通称 城山)の山頂に国吉城が築かれました。

というわけですから、佐柿は国吉城の城下町になります。

この国吉城、毎年のように攻めてくる越前勢を12年にわたって撃退した堅城として有名です。

地図を見ても、屈曲は南西から城に近づく敵から登城口を守る形になってるのがわかります。

4625_佐柿

図 4.6.25: 佐柿と国吉城

出典: 地理院地図 - 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp
※加筆は筆者による


……ってアホかああああああっ!!!!
越前勢は北東から来るんじゃボケがああっ!
佐柿に屈曲があったところで、なんの役に立つかああああああっ!!!

……ハァハァハァ、思わず荒れてしまいました。この、今まで当然のように主張されてきた
「城下の屈曲で敵の進軍を阻む」
という説、これほどまでに敵が攻めてくる方向との妥当性が検証されてこなかったのは、なぜなんでしょう?

ともかく、佐柿の道が屈曲した理由は軍防目的ではなさそうです。

ところが。じゃあ、なぜ、屈曲したのか? これが難しい。

山間部なので、こんなもん地形由来だろー、となめてかかったら、なかなか手ごわかったのでした。


4626_佐柿2

図 4.6.26: 佐柿の山に沿わないクランク

© OpenStreetMap contributors


つまり、山際に沿って道が伸びるのなら、当然にB-D-Cと進むはずで、B-A-Cというクランクになるべき理由が一見して見当たらないのです。

Dだけが微高地ならば話は解決です。が、BとDの高さはほぼ同じです。ちなみにAとCも同じくらいの高さです。つまりABCDの標高はA≒C<B≒Dという関係にあります。

距離的にB-D-Cと道路を作る手間とB-A-Cと道路を作る手間は、ほとんど変わりません。

微高地回避にはならず、道を作る手間も変わらない。ほよよよよ?

これは防衛のための屈曲でしょうか?

え、このフレーズ、もう聞き飽きた? さっさとEの説明しろって?

つれないなあ。

ポイントはAとBが存在する道に沿う吉城川です。B-D-CルートだとEの住人にとって吉城川にアクセスできるのはBになります。毎日毎日、水くみのためにC-Dの坂を上り下りしなければなりません。

B-A-Cルートなら、取水ポイントはAです。Eの住人はA-Cの平坦な道だけを使って、そのうえ短い距離で毎日の水くみが終えられるのです。ならば、A-Cばかりが使われ、通る人の少ないB-D-Cの道は自然消滅するのが当然ですね。

はい解決。

以上、小野氏が挙げた、ほそき長き、一の字のような単幹線の城下町にあるカギ型屈曲を検証しましたが、ひとつたりとて防衛目的のためではないことがわかりました。

こうしたことが簡単に調べられるのは、インターネットのおかげです。 その点で1928年の小野氏を責めることはできません。

しかし、
「長い城下町には防衛のためのひつみがある」 という前提を疑わず、結論ありきで屈曲のある単街路の城下町をつぶさに探すようなことをしなければ、避けえた間違いでした。

なぜなら、氏は
"城下地形に由テ自由ナラズ"
という、街路が屈曲するもっとも大きな理由をつかんでいたのですから。

松坂の街路が防衛のためではなく、おかげまいり流行後に商業的理由で屈曲したことは、すでに触れました。では、碁盤目型ながら多くの歪があると小野氏が主張する、彦根城をやりましょう(図 4.6.27)。

(5) 彦根

4627_彦根

図 4.6.27: 彦根城下町

出典: 〔日本古城絵図〕 東山道之部(1). 115 江州彦根図 – 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286380/1
(※北が上に来るように元画像を回転させています)


あーはいはい。これ城地。歪(ひつみ)、すなわち虎口はいくつかありますが、ぜんぶ主郭または塁濠に付属してます。ガチ城地。城下の屈曲ではありません。

町屋エリアにあるように見える南の屈曲も、よく見るとちゃんと空堀が存在しています。城地です。

ただ、「濱」と書かれた部分の近くで空堀が途切れているところを見ると、琵琶湖に近いがために
"城下地形に由テ自由ナラズ"
の部分はあったかもしれません。

彦根城下町の城地を除く「城下」の部分に「歪の設け」は見られません。

■ 蒲生氏郷の点と線

地理的制約から、あるいは軍事的要求によって町にひずみが生じるのだとした小野氏ですが、しかし、ひずみは近世初期には時代にそぐわなくなっていたと論を進めます。

>  然し、近世的要求は市区整然たる碁盤型都市計画にある。故に、旧来の軍事的要求を偏住せる都市計画は近世人の非難の焦点とならざるを得ない。世人は蒲生氏郷の松坂の都市計画をわらって、言ふ、(松坂権輿雑集)
> 「伊予の松坂毎(いつ)着(き)て見てもひだの取様で襠(まち)悪し」
>  近世史の開拓者、織田信長の安土城下に於ける、(中略)豊臣秀吉の長浜、博多、大阪に於ける、徳川氏の静岡に於ける、藤堂高虎の上野における、浅野長政の甲府における、宇喜多秀家の岡山に於ける、皆市区整然たる城下町を出現せしめている。近世的欲求が市区整然たる碁盤型町に向かって行く傾向は蒲生氏郷の都市計画に於て最も興味を覚えるのである。

つまり小野氏は、安土城以降は方格設計こそが城下町設計のスタンダードになっていたのに、織豊政権配下の蒲生氏郷の城下町はどうしたことだろう? と首をかしげるのです。

小野氏はこう述べます。近江日野の城下は弧状の街路をなしている。これは氏郷の町割という証拠はないけれど、『蒲生旧趾考』の天文三年の町割図は信頼性が低いし、氏郷の代に楽市令を出しているのだから、そのときに町割を変更した可能性が高い。松坂の二丁先が見えない街路は周知の通り、しかるに会津若松に於いて、いきなり碁盤目状の町割になるのは、「興味を覚える」ことである……と。

"日野を見、松坂を見て、若松に至る時に於ては吾人はその間連絡の糸を発見し得ない感がある。"

「その間連絡の糸を発見し得ない」

!!!

もし、発見し得ないという疑問をもっと追及していれば、小野氏なら、
「街路が軍事的欲求によって歪む」
という前提が間違っていることに気づいたかもしれません。

しかし残念ながら、氏の疑問は
「興味を覚える」
にとどまったのでした。

日野の町割を氏郷がやり直したと考える根拠は無く、そもそも街路が弧状と言えるほどには屈曲していないこと。

松坂の隅違いは商業的欲求によって起きたこと。この二点は、すでに本書で述べました。

連絡の糸を発見し得ないのは当然です。そもそも存在しないものを発見はできません。

『近江蒲生郡志. 巻3』(1922)に『近江日野三町絵図』が収録されていなかったため、実際には弧状の街路ではないことに小野氏は気づかなかったのでしょう。測量地図からひつみのある長き町を見つけ出す熱心さを持った小野氏でしたが、近江日野を測量地図で確認する慎重さは欠いてしまったのです。

■ 日本の城郭が西洋の城郭に劣っていないことを証明したかった?

大類伸氏にしても、小野晃嗣(小野均)氏にしても
「(日本の)城下は軍事的理由によって屈曲が生じた」
という江戸時代中期に現れる巷説を全面的に採用し、それを立証しようとしている感があります。

両氏のような素晴らしい研究者が、この点に関しては無理な論理を積み重ねている様は、そうでなければならないという悲壮な決意すら感じられます。

二人を駆り立てた背景はなんでしょうか。

大類伸氏が現れるまでの幕末~明治維新期は、日本の城郭研究の空白期でした。

江戸軍学はすたれ、和式の城郭は無用の長物として破壊されました。

西洋流築城術こそ学ぶべきものとして重用され、日本城郭の軍事的研究など無意味なものと白眼視され、ただ、考古学的、あるいは観光的にだけ、日本の城郭について研究が許された……そういう空気が半世紀ほど続いたのです。

しかし、日清戦争・日露戦争の勝利で時代の空気が変わりました。

国粋主義が台頭するなか、和式城郭の軍事的な面に注目が集まった――このことが、大類氏・小野氏の研究を後押ししたのは想像に難くありません。

日本人が自信を取り戻し、西洋に向けていた目を、内に向けたのです。日本人を日本人たらしめているものは何か。我々のアイデンティティは何か……と。

自信を取り戻しすぎての、その後の暴走はさておき。

さておくない>筆者。
だ、だってだって本筋から脱線しちゃうし……(震え声)

そんなこんなで(得意技)、和式の築城術について人々の興味が高まりました。

その結果、和城の城郭研究者たちは、次の質問に対しての説明を要求されたことでしょう。

いわく、
「西洋の理想的星型城郭都市は、正確な碁盤目状街路や放射状街路をしている。我が国の城下町がそうなっていないのは、なぜであるか?」
と。

そう。半世紀近く、西洋流築城術を学んできた軍人さんたちがそこらじゅうにいる世界線が明治末~昭和戦前なのです(実際には理想的碁盤型都市は中世ヨーロッパにおいても珍しく、ローマ帝国滅亡後のヨーロッパ城郭都市の街路は「おおむね迷路的な街路なのが普通」だったのですが(第5章参照)。そのうえ昭和の時点で近世ヨーロッパの星型城郭都市だってとっくに過去の遺物になっていたんですが)。

第二次世界大戦前の城郭研究者たちは、明治期に無価値と見なされ一度は途絶えた日本の築城術の研究を、価値あるものとして世間に認めさせたいという使命感があったはずです。

世界大戦が身近に迫っていた時代です。学術的・考古学的な価値に留まらず、日本の城郭から近代の戦争にも有用な点を見い出せれば、それこそ逆転満塁ホームランだったに違いありません。

現代の我々だって、戦国武将から理想の上司論やビジネス戦略論を見つけ出そうとするではありませんか。そーゆーものです。

そんな戦前の研究者たちが
「我が国の城下に多く見られる迷路的な街路について調べてみたら、軍事上の利点は……存在しませんでしたァ!」
という結論に至ることは不可能です。時代の空気的に、不可能なのです。

洋の東西を問わず、計画都市は原則として碁盤型都市に向かうのであーる。
京都は碁盤型都市であーる。
西洋の碁盤型都市と同等であーる。
そして日本の近世城下町は京都を模したものであーる。
ただちょっと正確な碁盤目になってないのは、防衛上の工夫を追加したからであーる。
しかるに、日本の近世城下町に、西洋の都市に劣る点はまったくないのであーる。
ウォッホン。

――こうでなければならず、江戸や金沢など無計画に拡張した都市を放射型都市設計と認めることはできなかったのでしょう。

そう考えると、小野氏が我が国のほぼ唯一の放射型都市として宇和島を挙げた理由も見えてきます。恣意的な調整の結果なのです。

いくらなんでも
「幾何学的な星型城塞は日本では発明されなかった」
という事実を否定して架空歴史を捏造(ねつぞう)するわけにはいきません。

星型城塞が無い以上、都市の中心と外縁の稜堡・砲台を最短距離で結ぶ「理想的放射街路都市」が日本に存在しないのも当然です。

しかし、戦前の研究者たちが
「調べてみましたが、我が国に理想的放射型城下はありませんでしたァ! ゼロでーす! てへへっ」
という結論に至ることは不可能です。時代の空気的に、不可能なのです。

なんとかしたい。神の手を使いたい。星型城塞はあきらめきれるが、せめて放射型街路の都市くらい、なんとかならないか。

西洋にあるものは日本にもあってしかるべきィィィ!

…あ、太平洋戦争前の日本に対する筆者の偏見が過剰ですか?

ともあれ、小野氏は都市計画された放射型都市の日本代表に宇和島を選びました。

宇和島は主郭が五角形であることが有名です。五角形なら五芒星の星型城塞に近い形ですし、なんといっても縄張名人・藤堂高虎が手掛けた城下です。日本版の都市計画された理想的放射型街路と主張して、説得力があります。

その後の引用のされ方を見るに、小野氏の思惑は成功したと言えるでしょう。成功しすぎたと言ってもいいかもしれません。
「一つは地理的条件により」
碁盤目型街路が崩れるという、主張の半分がかすんでしまったのですから。
 

江戸時代中期には
「屋敷構えには陰陽の縄を用いないと教わったが、大身の屋敷には陰陽の縄があるように見える。あれは城取術の秘事口伝を屋敷構えに用いたのでは?」
と疑う生徒に
「さにあらず」
と教えさとす師匠がいました。

その後、日本は近代化された西洋の軍事技術を知りました。あきらかに見劣りする和流兵法を学ぶ人は激減し、知識の継承は断絶してしまいました。

昭和初期の小野氏に「さにあらず」と指摘できる人は、いなくなっていたのです。


※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。

https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/460613

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