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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(19) 第5章 方格設計都市の誕生①


# 第5章

~都市はなぜ碁盤目街路に向かうのか~

## 5.1. 世界の都市と比較する意味

そもそも、街路を屈曲させることは、防衛上の利点になりうるのでしょうか?

前章まででさんざんディスっておいて、何をいまさら、しらじらしい。……と我ながら思います。

思いますが、疑問よ、そなたは美しい。

皆さんは不思議に思いませんか? 街路を屈曲させるのが防衛において有利なら、なぜ、世界にはそうなっていない、むしろ碁盤の目の城郭都市が数多く存在するのか。

中国の都城制やルネサンス~ゴシック期の星型城郭都市は、なぜ、街路を屈曲させなかったのか。

街路を屈曲させるのに特別な材料や技術は必要ありません。

世界中、やろうとおもえばどこの国でも、「文明」に達していれば理論上は実現可能な都市計画です。

考えてみてください。日本が中国の都城制を知り、真似しだしたのは7世紀です。

あとでくわしくやりますが、伝承によれば中国の都城制は殷(商)の時代(紀元前17世紀~紀元前11世紀)には方格設計が存在していたと伝わります。

少なくとも千七百年あまり実戦で鍛えられまくって、それから日本に伝わったのが都城制です。

街路屈曲が本当に防衛において役立つ仕組みであれば、「都市」の誕生から二千年ちかく、中国のだれも発見しなかったというのは、きわめて不可解です。

中国で長年、改良を重ねたあげくに伝わり、作られたのが奈良の平城京であり、山城の平安京の形式だったのです。

5101_平城京復元模型

図 5.1.1: 平城京復元模型

出典: 世界遺産 古都奈良の文化財 第1回 古都奈良の文化財の価値 - 奈良市動画チャンネル
https://youtu.be/2tsY0SwPeqw


ここに、防衛のための街路屈曲はありません。

いや、古代都城の時代には銃火器が無かった。火器の伝来によって戦国大名は戦術の変更を迫られ、それが街路屈曲だったのだ……という反論は、明快に否定できます。

なぜなら、理想的放射型街路や理想的方格設計街路をもった近世ヨーロッパの低い星形要塞は、大砲によって高い城壁が役立たなくなったために生まれた形式だからです。

5102_パルマノーヴァ_17世紀

図 5.1.2: 放射状街路を採用したパルマノーヴァ(イタリア/17世紀末)


5103_ヌフ-プリザック

図 5.1.3: 方格設計を採用したヌフ=ブリザック(フランス/17世紀末)

「日本における都城制の採用は、結局のところ羅城(らじょう)を設けなかった。のちの日本の城が世界と異なる防衛手段に向かうのは当然である」
……という反論も、このヨーロッパの星型要塞への変化をもって、再反論できます。

ヨーロッパでは大砲の出現で、石やレンガで出来た高い市壁が役立たなくなりました。そこで外郭を低い稜堡(すなわち土塁)に替え、十字放射(すなわち横矢)ができるように外郭線に屈曲を設けたのです。

結果的には星型であるか不定形または方形であるかの違いはあっても、日本の近世城郭とヨーロッパの稜堡要塞が結果的には似通るという、収斂(しゅうれん)進化をしたことがわかります。いずれにせよヨーロッパの稜堡も中国の羅城も日本の惣構も(工法に差異はあるものの)本質的には土塁であり、都市の外郭ラインとして共通しているのです。

そのうえでヨーロッパの近世城郭を考えてみましょう。小銃による近接銃撃戦を想定した西洋の星型城郭は、直線街路都市を採用しているのです。したがって街路で射線を防ぐことに防衛的メリットはなかったのだと推測することができます。

当然でしょう。防衛設備とは防衛側だけが一方的に有利にならなければ、防衛設備とは言えません。単に建物で射線がさえぎられるだけなら、攻撃側と防衛側の双方が等しく影響を受けます。屈曲街路の見透の阻止と射線妨害は防衛側にもふりかかります。

海外の城郭設計理論をもって近世日本の城郭設計を検討するのは、十分に有効なのです。

本章では方格設計がいつ、なぜ生まれ、どのように発展したのか――世界の都市の歴史、方格設計都市の建設目的と長所・短所を検討していきます。

ただし、最初の方格設計都市はどこかという問題は、そのまま
「どの時点から都市と見なすか」
「どの時点から方格設計と見なすか」
という定義問題です。

この点については学者によって見解の異なる部分です。

次項では方格設計がなぜ生まれたかを推論するため、少しでも都市の可能性のあるものは拾っていく方針です。これは厳密性に欠ける特殊な判断基準であり、筆者の拾い上げ方はこの分野における標準的なアプローチではありません。

そして、一般性を持つものでもありません。特殊な観点であることは、ご留意ください。

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## 5.2. 原始方格設計都市の誕生――古代

### 5.2.1. 集落は梯子型街路まで自然に進化する

江戸時代後期に日本へやってきたツンベルグはその著『日本紀行』の中で、こう言っています。

> 日本の村落は町と同じくらいに長いのであるが、容易に両者の区別は出来る。村は一本の街路よりなく、町には数条の街路がある。町は堀や塀に囲まれ、大抵は城がある。

出典: 『ツンベルグ日本紀行 』山田珠樹 訳註 – 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693/76


当時の道中絵図を見ると、ツンベルグの観察眼が正しいことがわかります。

「村」と書かれた場所には街道がひとつしかなく、少し大きめの「宿」になったあたりから主街道に沿うようにバイパスとしての脇道が出現し、「町(たいていは城下町)」になると、道が網目のように広がっているのです。

52101_沼津宿

図 5.2.1.1: 東海道分間延絵図 沼津宿

出典: 『五海道其外延絵図 東海道分間延絵図 第三巻 沼津宿』 東京国立博物館 画像検索
https://image.tnm.jp/image/1024/C0007478.jpg


すくなくとも中世においては、当たり前の話に思えます。

1. 集落が先か・街道が先かはケースバイケースとしても、ともかく街道と集落が誕生する
2. 集落(村)のうち、拠点に適した地が宿として整備される。あるいは統治者の本拠地として整備される。これらの町では商業活動が活発になるにつれ人口が増える
3. 街道の交通量が増えたため、混雑解消のためにバイパスが整備され、主幹線とバイパス路の間で梯子状の街路が形成される

ここまでは、多くの宿や城下町で自然発生的に起こりえたと思われます。第3章の地図調査では、非城下町において中心部がそのような、梯子状の原始的方格設計になっている町が数多く見られました。

しかし、自然発生的・住民の自主的な交通網の改良によって到達できる段階は、ここまで。地図調査でも非城下町の十字路の割合は4割を越えなかったのですから。

中国から都城制を学んだ大和政権がはじめて方格設計の都市の開発に乗り出したということは、飛鳥朝以前の政権は独自に方格設計の都市を発明できなかったことを示しています。

さらに、仏教寺院の建築が早い段階で導入されたのにくらべて、方格設計都市の導入は遅いと言わざるをえません。漢字の伝来は4世紀後半です。仏教が公式に伝えられた6世紀半ばには、中国の都城の形も伝わっていたはずです。しかし、7世紀末の難波京まで、中国的都城制で作られた都市は日本に出現しませんでした。

大和政権は少なくとも1世紀半は、方格設計を「必要と思わず、導入を急がなかった」のです。これは仏教寺院を「必要なもの」としてすぐさま真似したこととは対照的です。

これらのことは、方格設計都市というものが、個人や小集落のちょっとした工夫で生みだすのは難しいということを示唆しています。

方格設計都市は行政実行の主体者が、

* 方格設計の目的と有用性を把握し、理解し、将来の自分たちの都市のために必要だと認識している
* 方格設計を計画し、実現するための土木技術と予算・人材を有している

というふたつの条件がそろって、ようやく生まれるのです。

人々は、何を必要として方格設計を発明したのか。必要としたものの中に軍防的な要因はどの程度、含まれていたのか。

そして、幹線から魚骨状に道が伸び……という発展形態は、世界中、いかなる時代でも共通するのでしょうか?

方格設計都市の歴史を見ていきながら、考えていきましょう。

### 5.2.2. メソポタミア:集合住宅化は早く方格設計化は遅い

■ 文明のゆりかごは都市のゆりかご

都市とは文明と非文明を分ける指標のひとつですから、まずは文明のゆりかごとよばれるメソポタミアの都市を追っていきましょう。

■ ムレイベット(Mureybet)

シリアにおける紀元前8000年以前の集落遺構として後述するエリコに並ぶ巨大なものであり、かつ最古級のものです。

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