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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(26) 第5章 5.5.~5.6. 囲郭が役目を終える近世


## 5.5. 近世以後:都市民による都市民のための都市

### 5.5.1. 人間のための都市へ向かうルネサンス理想都市

■ 中世で疲弊したヨーロッパの復活

ふう。疲れました。そもそも5章は、1~4章で証明した
「近世大名は城下町を迷路化なんかしなかった」
という事実を補うための、まとめに向かうための比較対象を事実整理するのが目的だったのに。ただちょっと軽く海外の事例を紹介するだけのつもりで書き始めたのですが。

調べれば調べるほど、定説に矛盾が見つかって、逆に5章のために3章~4章での調査内容が役立つ結果になってしまいました。

都市戦とは放火であり、中世都市は洋の東西で、防火第一に進化したのでした。それが石造りコンパクトシティであり、幅広道のラージシティだったのです。

さて、石造りコンパクトシティの方、すなわちヨーロッパは、中世に入るとローマ帝国の分裂とともに小国が乱立し、かつての方格設計都市は失われていきました。

そして、アフター・十字軍。戦争は目論見通りの結果にはなりませんでしたが、東西の文化が混ざり合い、経済が活性化しました。

中東で進化したかつてのギリシャ・ローマ文化が逆輸入されると、中世で疲弊したヨーロッパはふたたび力を取り戻し始めたのです。

ローマ帝国の衰退とともにしょんぼりと腐っていたイタリア半島の人々も、やや元気を取り戻しました。そして、ギリシャ・ローマ文化の逆輸入によって
「あれ、ご先祖様、もしかして凄かった?」
と思い始めたのです。

日本スゴイならぬローマすごい。自信とうぬぼれは表裏一体・両刃の剣。自画自賛にも良い面がないわけでもないようです。空元気も元気のうち。

ともあれ、古典礼賛から、かの有名なルネサンスは始まりました。

……という気持ちで周囲を見回してみると、そこかしこにお手本となるローマ時代の遺物が残っているのです。

初期ルネサンスの建築はまず、ローマ建築のおさらいから始まりました。

そしてウィトルウィウスが再評価され、その建築論を現代的(ルネサンス人から見て)に解釈したアルベルティの建築論から、学問としての都市計画研究が発展していきました。

■ アルベルティの街路屈曲防衛説は妥当か?

先に宿題をかたづけましょう。

まず、アルベルティは理想的な都市の形状とは円形であるとしました。その上で、軍用道路について、こう記しています。すでに引用した部分と重複しますが、再引用しましょう。

> 市外の軍用道路は以上のように整備され、真直ぐでかつ、この上なく安全でなければならない。都市に到着する所では、もしその都市が公明で有力なら、道を真直ぐなきわめて広いものにして然るべきである。そうすれば都市の威信に役立ち、卓越を示すことになる。しかし反対に、もし植民地や城砦であれば、道の接近については、できるだけ町を安全にすることが優先しよう。それは都門へ自由に直行させるものではなく、城壁の近くを特に城壁の堡塁の下を右に左にと蛇行させるものとなろう。また一方、都市の中に入れば、道は直進せず川の流れのように緩い湾曲を描いて、ここかしこ部分的に曲るのが良い。というのは、このような道は実際より長く見え、大きいという印象を町に与えるが、この点以外に、確かに優美と使用上の便宜および折々の出来事や必要に非常に役立つからである。さらに理由をあげれば、湾曲路に沿って歩くと、一歩ごとに徐々に新しい正面が現れてくること、および家の出現なり遠望は道幅の中央に位置すること、ある所で道が広大に過ぎ不快なだけでなく、不健康であることを思うと、実に道の空きそのものが効果をもたらすこと、これらの諸点はいかにも貴重ではないか!
>
> ネローによって道が広げられたたため、ローマは以前より暑くなり、それだけ不健康になったことを、コルネーリウスは記している。反対に狭い道では陰地が増すが、ローマではそれが起らない。ここでは冬の間でも日は射し、明るいのである。
>
> (湾曲した通りでは)どこでも決して陰地はないし、またどの家も決して日照を欠くことはないであろう。また微風の通らない所もない。そこでは、どこからか風が通り、ほとんどすべての場所に、適当で軽快な空気がすり抜けて行くようになる。また強風には決してさらされない。風力は壁の対抗によってすぐに弱まるからである。
>
> さらに加えて、もし敵が侵入してきても、前から横からと劣らず、後ろからも反撃にあって窮地に陥るであろう。

出典: アルベルティ『建築論』 相川浩 訳

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