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大企業からの離脱(第一波・上編)

その日はやってきた。事務所で各課長が課員を集めこう言った。「XX事業部の従業員は全員、本社に明日集合するように。重要な発表がある」

あーついに来たか、と私は思った。

私は日本の名のある大企業に入社し、ある事業部に配属されたのだが、その部は本業とは少し毛色の違う事業をしていた。入社したとき、マイナーな部署に配属されて他の同期の目が少し気になっていた。マイナー部署コンプレックスとでも言うのだろうか。他部署の同期が花形部署に配属され新人研修で夢を語っている時、キラキラして見えて眩しかった。

一方、私は学生気分が抜けずに、社会人になってしまったことに少し憂鬱な気分だった。新人研修も楽しくない。「仕事なんて金稼ぎの手段だろ、一生懸命働いても仕方ないだろ」と他のやる気のない同期と意気投合していた。適当に働いて適当に給料を貰って、プライベートを大いに楽しんでやろうと思っていた。そして、私が所属するマイナー部署の雰囲気もおおよそ似たようなものだった。「どうせ一生懸命やっても報われないだろ、おれたちはどうせお荷物事業部なんだから。」そんな空気に職場は支配されていた。

その後しばらくして、仕事の成果が徐々に見え始めてくるようになった。自分が開発した新技術で商品力が向上するのを真に当たりにすると、エンジニアとしてもっと大きいことにチャレンジしてやろうと、前向きに仕事をするようになった。他の同期みたいに私ももっと活躍してやろうと一丁前に改心しはじめたのだ。ロスジェネ世代の世話役の先輩が前向きで熱心だったことに大きく影響されたようだ。

だが、前向きになると今度はこの事業部にいるのがたまらなく嫌になった。何か新しいことを提案しようとすると押さえつけられ、リスクをとることを極端に嫌がる上司がいる閉鎖的な環境にいては、自分も気づかないうちに同類になる。もうここにいてはダメだと思った。外に出たい!自由になりたい!と強く思うようになった。

転職するつもりは全くなかった。せっかく誰もが憧れる大企業に入ったのだから、コア事業の違う部門に異動してやろうと思った。その企業には、自ら異動願いを出せる自己申告システムがあったからだ。私は根回しをするべく希望する部署の責任者に会いに行き、課を見学させてもらったり、面談をしてもらったりと、手を尽くした。そして、万事整った後に申請ボタンをクリックした。

「あなたは申請できません」

「どういうことだ?」

いろいろと聞きまわった結果、他にも異動願いを却下された後輩がいて、どうもこの事業部はついに売られるらしく、XX事業部の従業員は異動申告制度が使えないらしいと言っていた。誰かがその計画の一部をプリントアウトしたものを見てしまったらしい。前から薄々とは感じていた。本体から切り離される日は近い。だが、信じたくなかった。

そんな時に冒頭のアナウンスがあったから、あーついに来たか、と私は思ったのだ。

新事業会社設立と出向命令

翌日、本社の大ホールで説明会が開始されるのをそわそわと待っていると、社内ニュースでよく見る顔が出てきた。COOとかいうやつだ。彼が言うにはこうだ。

「この事業部の決裁は本体に依存しており、小規模事業部なのに小回りが利かない。今後の事業環境変化に迅速に対応するため、経営意思決定のスピードを重視し、事業部を切り離し、100%新子会社を設立する。また、競合他社とのM&Aも視野に入れて活動していく。今日集まってもらった皆さんには新子会社に出向してもらい、引き続き業務を継続して頂きたい。」

なんだ、売却発表ではないのか。一瞬拍子抜けしたが、すぐに思い直した。待てよ、つまりこれは売却のための準備か。事業部では売り出せないから、会社として独立させてから売る作戦だ。説明会の後、もちろん同僚と飲みに行った。珍しく自虐ネタでの笑いは封印され、お通夜のように静まり返った宴会だった。この発表はこれから来る荒波の序章に過ぎないと、結論は全員で一致した。

帰宅後、いや、帰りの最終電車の中で早速転職サイトに登録した。誰がそんな泥船に乗るか。今ならまだ第二新卒枠で他の企業にも行ける。全く酔えない冴えた頭で、夜が明ける前にレジュメを書き上げ、面談希望を出した。

転職サイトの事務所に行くと、「あなたも◯◯の人ですか?同じ事業部の人が何人か来ましたよ」と言われた。当然だよなと腑に落ちながら、素直に境遇を話し悩みを打ち明けてみた。だが、「あなたみたいなエンジニアは転職するよりも今の会社で頑張ってみた方がいいかもしれないよ、日本のモノづくり企業は中途採用よりも生え抜きの方が強いから」と追い返された。

他の転職サイトにも面談を申し込んだ。いくつかの企業の説明会にも参加した。しかし、どこの会社も似たようなものであまり魅力に感じなかった。ある外資系企業の説明会では、下手くそな会社紹介プレゼンテーションを見せられ、アジェンダになかった突然の面談が始まった。突然志望動機を聞かれて、別に志望してませんとつい苛立ちを出してしまった時、あぁ、私は何をしているんだろうと我に返った。

その後、転職活動はやめた。

子会社になったからといって特段変わったことはなかった。説明会の後、一応形だけの面談があり、出向命令にも従った。「子会社設立と出向について何か意見はありますか?」と聞かれ「正しい経営判断だと思います」と答えた。不満を言っても何ら良いことはないと思ったし、やらされ感がにじみ出ている定年間近の上司とも話したくなかった。COOが言っていた小回りの利く経営が出来ている実感もなかった。むしろリーマンショックで景気はどん底。予算申請はますます通りづらくなり、業務はコストダウンのみ。結局は大企業体質のまま、そのまま所帯が小さくなっただけだ。

毎日が退屈だった。

そんな中、海外拠点から帰任した一人のおじさんに出会った。机に向かいながら独り言で「コンチクショー」などとブツブツ言う癖があった。父親とほぼ同年齢のその人は後に私が海外駐在する時の上司となるのだが、この時はそんな深い付き合いになるとは思っていなかった。彼はまごつく中間管理職をテキパキと動かし、頭の固い経営者を説得し、停滞していたプロジェクトを動かし始めた。

私もプロジェクトメンバーだったが、上司の上司にあたるそのおじさんが、中間管理職をすっ飛ばし私に目をかけてくれて、経営やプロジェクトのいろはを教えてくれた。私にはそのおじさんがとても輝いて見えて、まさに救世主だった。そのおじさんは何かに追われるように半年後にすぐに海外拠点へと飛び立っていったが、まるで意思を引き継げと言わんばかりに、私の中に大事なものを残していった。

そのおじさんを見て私は吹っ切れた。周りがどうだろうと自分がやりたいようにやろう。仕事から充実感を得るためには、自分から主体的に課題に取り組むことしかないと、ようやく気付いた。自分の気持ちを変えられるのは自分だけだ。他人や環境は関係ない。自分から動き出し、周りを巻き込んでやりたいことを実現していけばいいんだ。

そして同時に、この腐った会社を自分が楽しい会社に変えてやると誓った。

入社5年目だった。

(第一波・中編へと続く)

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