神保町、夏の気配、止まらない鼻水としゃばしゃばのカレー

五月初旬。とんと人気の少ない日本橋から大手町、皇居の周りをぐるり神保町まで歩けば、風はそこそこ勢いがあるものの空は快晴で、肌の上に照りつける太陽の陽射しは夏の気配を滲ませてじりじりと鋭い。2時間近くうろうろと屋外を歩き回って、そろそろ何か口にしたい腹具合だ。
いかにも神保町らしい町並みの、書店、古本屋、飲食店が立ち並ぶ通りを抜けて、左手にいいお肉の贅沢なハンバーグ、右手に新潟名物タレカツ丼、角を曲がればちょっとオシャレなサラダ食べ放題のイタリアン。ぽつぽつ目には入ってきても、どうにもいまいちピンとこない。
「暑くなってきたなぁ。なんかエスニックとか食いたいなー、あ、カレーとか!」
天を仰いだ夫の一声が、まさに「それそれ!言われてみればそれ食べたかったのよ!」ど真ん中だったので、カレー激戦区神保町、いいじゃないいいじゃない期待できるんじゃない?随分前に行った神田カレーグランプリも美味しかったし楽しかったし、と今度はカレーを求めて明大通りを北上し、というか北上するというほどでもなく、出会い頭、目の中に飛び込んできたのが「カリー&ワヰン ビストロべっぴん舎」である。
ワヰンのヰの字にこれを当ててくるのがもうオーナー面倒くさそう。というか、凝り性っぽいな、というか。偏見なんですけど。
めでたく店舗は営業中、雑誌か何かで取り上げられたのだろうか、掲示されている切り抜きの内容を確認しようと目を細めていると、もう既に二階の店舗へと続く薄暗い階段を登り始めた夫が振り返って「ここで大丈夫?」と確認してくる。はーい、大丈夫でーす。慌てて狭い階段をのぼる。何がオススメのカレー店なのかは、結局確認しそびれている。
雑居ビルの階段には既にスパイスのわくわくするような匂いが漏れ出ていて、急に胃がぐるぐると動き出したような気がした。我ながらチョロい体の作りである。
「お席ご用意しますので少々お待ち下さい」を受けて入り口前に突っ立っていると「食べログ100選」「神田カレーグランプリ グランプリマイスター賞受賞」の盾が目に入る。ひゅー、超人気店なんじゃん!楽しみ〜!……からの時間が思ったより長い。店員さん、常連さんだろうか、お客さんと話し込んでる気配がするし。ぐぅぅ。
ホントに我々にお席はあるのか?と、しびれを切らして思わず店内を覗き込んだ頃、ようやく「奥のテーブル席へどうぞ!」の声が掛かった。良かった。我々にもお席はご用意されていた。
こじんまりした店内に足を踏み入れると、きびきびした動作の三角巾を着けた店員さん(もしくは店長さんか?)が一人でお店を切り盛りしている。なるほど、これじゃあカレー作るのも一人、配膳も一人、テーブル片付けるにも一人で大変だよなぁ。失礼致しました。
窓際のテーブル席は4つ、我々と反対側の端にご夫妻だろうか、男女一組、カウンターにめちゃめちゃ店員さんと話し込むおじちゃんが一人。お昼時の中では遅い方、しかも休日のオフィス街・学生街なので、これは結構繁盛している。というか絶対に繁盛店だ。待たずに入れたのもこのご時世だからでしょう……間違いない。
甲殻類の旨みに目のない私はパクチー香る「濃厚エビカリー」、夫が暫し迷ってカルダモン、ジンジャーにたっぷり玉ねぎの「赤のべっぴん薬膳カリー」をチョイス。これで夫もべっぴんさんか。ちなみに先程からお客さんと「コロナ下に於ける飲食店経営」について丁々発止の遣り取りをしている店員さんは、私の好きなタイプのはっきりした顔立ちのべっぴんさんである。
それからやっぱりお天気のいい日のご機嫌なランチだから、ということで、夫に「奢るからさぁ」という謎のゴリ押しを仕掛けつつ、ハートランドの中瓶をオーダー。飲み口はスッキリ、でも柔らかく甘い。ハートランドはなんとなく、お天気のいい昼間の贅沢によく似合う。
メニューを矯めつ眇めつした夫が、「ここのカレー前カレーグランプリで食べたよね」と主張してくるものの、正直全く覚えがない。ホントに?こんな独特な名前のカレー屋さんのカレー食べたっけ?薬膳???今まで食べた薬膳カレーっていうと谷中の薬膳カレーなんだけどなぁ……でもあのときは一人だったハズだし……などなど。最近記憶に自信が無いのが辛い。だからnote始めようと思ったんだけど。
注文時に夫が2辛、私が3辛を指定したところ、店員さんに「3辛は結構しっかりした辛さになります」と言われて、ちょっとビビる。ビビるけど「じゃあ2で」と言い出せないまま、「はぁ……」みたいな謎の返事をしてしまって落ち込む。こういうときの瞬発力弱いんだよな私。あと「黒のべっぴん薬膳カリー」が4辛から6辛指定でとっても辛いって書いてあったから、3なら真ん中ぐらいって感じかと思ってた……辛いの好きだからいいんだけど……。
「鼻水止まんなくなったらどうしよ……」
ぽつりとつぶやくと、夫が「あ〜ティッシュ持ってない?」「ない」
困った困った。へへへ。
先に出していただいたハートランドを、泡だらけにならないように慎重にグラスに注ぎ込む。綺麗な黄金色。その上にふわふわの白。
「結構いい比率じゃん!?」と主張する前に、夫がグラスに手を伸ばしたので「はい今日もありがとう」と乾杯してしまった。喉、渇いてますよね、わかるよ。そしてハートランドは相変わらずおいしい。
有線なのかCDなのか、延々と続くちょっと古くてちょっとダサくて、なのに何故かちょっとカッコいいジャパニーズロック。壁にかけられた微妙にキュビズム臭い絵画、その横にはチープなプラスチック製のトナカイの首が脈絡なく生えていて(あの剥製でよく見るタイプのヤツだ)、かと思ったらその横には、ワインセラーの上、太陽光でゆらゆら動く謎のお人形がぽつねんと鎮座ましましている。「カリー&ワヰン」のお店らしく、ワインセラーには古色蒼然のワインボトルがこれでもかと詰め込まれ、統一性が無いようなあるようなで、結局なんとなく纏まっている、非常にキッチュで不思議なお店だ。誤解を招かないように言うと、この雑然とした感じは大好きです。そもそもここのテーブル席だって、全部違う椅子が入れられてるし。
店内をぐるぐる見回したり、「カレー専用ビール」の広告に目を奪われたりと忙しくしていると、とうとう銀色の器に注がれたカレールーがやってきた。ちょっと具が少ないような気がするものの、ひといきに強くなるスパイスの香りに否が応でも期待が高まり、……夫の「赤のべっぴん薬膳カリー」、本当に赤い。上澄みの部分がなんというか……ラー油のような、透き通って、容赦の無い赤だ。本当は「黒のべっぴん薬膳カリー」を選びたかったものの、痔で断念した夫である。大丈夫なのか。辛いものは痔の人間の肛門を、痛めつける。間違いない。この「赤のべっぴん薬膳カリー」が彼の肛門に優しいことを祈る。
対して私の「濃厚エビカリー」はもう少し落ち着いた赤茶色で、パクチーの緑が目にやさしい。焼きの入ったソフトシェルシュリンプの香ばしい香りが、スパイスとパクチーの中から微かに立ち上ってくる。
ひょー、いただきまーす!
ルーを掬ってクミンライスにばしゃり。そう、こちらのカレー、しゃばしゃばである。ご家庭で作るカレーにありがちな「とろり」という感じが全くない。以前ニューデリーの寺院で食べさせて貰ったカレーがこんなしゃばしゃば具合だった、ということを何となく思い出す。何百人がひしめく冷たい石造りの床。あのときは払っても払っても寄ってくるハエを最終的には受け入れて食べた豆カレーだった。
思い出に浸りつつ、カレーをたっぷり吸ったライスを慎重に掬って口に入れ、
辛っっっっ。
見た目当社比こちらよりヤバい赤のべっぴん薬膳カリーが実際どの程度辛いのか知らないが、このエビカリー、落ち着いた見た目のくせにまったくもって辛い。わっしょーい!こう、舌というよりも耳の奥が一気にぎゅーんと痺れるような感覚である。しかしこの辛さがとんでもなく美味しいのがまた憎いところで、ただただ刺激という意味で辛いわけではない。スパイスが重層的で、おっ、おぉっ、こんな香りが!の連続である。そんなスパイスの合間から、更に夏に近づけば近づくほどほど無性に食べたくなるパクチー独特の爽やかな青臭さに甲殻類の出汁のうまみが加わって、スプーンが止まらない。結局ライスを一旦止めて、スープだけ掬って飲む暴挙に出る。じわ〜〜〜っとうま辛い。辛くて美味しい。辛い。でも舌を刺すような辛さじゃないんだ耳の奥が痺れる〜〜美味しい〜〜〜なんだかんだ爽やかな気分〜〜!
ひぃひぃ言いながら滝のように流れてくる鼻水を紙ナプキンで抑える。駄目だやっぱり鼻水出てきた。ティッシュ持ってくればよかった。そう思いながらも食べる手が止まらない。よく見ると少しルーの減った容器の内側、並々入っていたところに、ぐるりとスパイスの細かな粒子が円になって軌跡を残している。こりゃあたっぷりでござんす。
そして不思議なことに、食べれば食べるほど、何だか頭が冴えてくるような気さえしてくる。遠出もできず近所をうろつくしかない、ぼんやりしがちというか、元々の鬱陶しい気質に拍車がかかる昨今の頭の霧を、さーっと晴らしてくれるようなこのスパイス!!!ビバ!!カレー!!!
暑い地域でカレーを食べるのは、暑い中でぼんやりしがちな頭をしゃっきりさせるためでは無いのかと勝手に十年来の予測を立てているが、今のこの状態、まさにそれである。
そうこうしている間にいつの間にか新しいお客さんが入店し、私と同じくエビカリーを注文している。「2辛が普通の辛いカレーといった感じで」と店員さんが説明していて、「おぉ、それを事前に聞いておけば良かった……」と胸中一人ごちる。漏れ聞こえたオーダーは、「じゃあ1辛でお願いします」。うぅんお姉さんの食べるエビカリー、一体どんな味なのだろうか……私が食べてる3辛のこれとは、ちょっと風味が違いそうだ。もうちょっと落ち着いて海老の旨みが楽しめるとか……。
考えてみてもしょうがないので、今度は豪快に丸ごと入ったソフトシェルシュリンプを掬い上げる。スープと一緒に口に放り込んで噛みしめると、ぎゅっと詰まった味噌の甘みが口中に広がり、更に殻の香ばしさがまたこのスパイスに合う!たまらん!!
ここらで今度は夫の「赤のべっぴん薬膳カリー」と交代。一度ビールで口の中を洗い流してそっとルーを掬ってみる。こちらもさらさら、というかしゃばしゃば。ビビりながら口にすると、今度は見た目に比して辛くない。それでも勿論辛いんだけれど。
トマトだろうか、エビカリーには無かった酸味が口の中に広がり、玉ねぎの甘みを微かに感じる。煮込まれたチキンもほろほろと柔らかい。語弊を恐れずにいえば、スパイスの強さを含んだ全体的には甘酸っぱいカレーである。いや〜全然違うなこれ、そんで全然違ってどっちも美味しいんだよな!みんな違ってみんないい、である。みつお。
ちらりと向かいの夫を見ると、一口目のエビカリーで噎せていた。分かるよ。辛いよな。でもその後ほらやっぱりスプーンが止まらない〜!
最終的には自分のオーダーしたカレーに戻り、ときにハートランドに、ときにクミンライスに添えられたらっきょうの爽やかな甘味に助けられつつ、取り憑かれたようにスプーンを動かす。じっくり煮込まれたトマトも美味しい。カレーに蓮根入ってるの、やっぱり外食のカレーだよなぁ、等々。
「これはお店じゃなきゃ食べられないね」と途中で夫が口にしていたが、まさにその通りである。合掌。
「もう一口頂戴」と果敢にエビカリーに挑む夫、美味しいのは分かるが肛門を大事にしてくれ。
結局私は鼻の頭に、夫は額に汗をかき、お互いずるずると流れ出す鼻水を紙ナプキンで抑えながらようよう完食した。最初に「ちょっと具が少ないかな?」なんて思った自分の浅はかさを嘆くほど「ふぃ〜〜食べたぜ」という感慨がひとしおの食べ終わりだった。まだ耳の奥がぎゅんぎゅんしている。胃も温かい。鼻水はなかなか引かず、しかも食べ終わった瞬間に一瞬唇が爆発的にひりつき(その後すぐに治まった)、「い、いたい……」と呻いて水をがぶ飲みするなぞ全然格好がつかなかったけれど、最初から最後まで、スープをしつこく掬ってしまうレベルで、とても美味しかった。
また来たいなぁ、と、狭くて薄暗い階段を降りる。外はもう夏のように明るい。
また来たい。私が鼻水を垂れ流しても許してくれる、仲の良い友だちか、痔の治った夫と。今度はティッシュを用意してくるから!

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