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ショパン友人帳1:ヤン・ビャウォブウォツキ

気になるショパンの友人関係

 ショパンのモンペなので、ショパンがどんな友人と付き合っていたか気になる。そこで、ショパンと親しくしていた人物を一人ずつ調べていくことにした。今回は10代のショパンに暑苦しいまでに愛されたこの人。

ヤン・ビャウォブウォツキ(Jan  Białobłocki)

1805年ソコウォーヴォ生/1828年3月31年ソコウォーヴォ没
愛称:ヤシ、ヤショ、ヤシェク

ショパンとの出会い
 ヤンは1816年から1823年にワルシャワ高校に在学していたが、実家のソコウォーヴォはワルシャワから200kmほど離れており、通学は不可能なので、ショパンの両親が経営する寄宿舎に入っていた。おそらくそこでショパン出会ったと思われる。

ヤンについてちょっと詳しく!
 ヤン・ビャウォブウォツキは、ヤン・ネポムツェン・ビャウォブウォツキとカタジナ・モニカの間に生まれた。コンスタンツィア・ビャウォブウォツカという姉もしくは妹がいる(どちらか特定されていない)。
 実の父親と1815年に死に別れており、母はその後再婚し、アントニ・ヴィブラニェツキがヤンの新しい父となる。アントニはショパン家との付き合いもあったらしく、ショパンからヤンへの手紙のほとんどで、彼によろしく言って欲しいと伝えている(どんな効き目なのかは分からないが、アントニから煎じ薬をもらったことにもお礼を言っている)。コンスタンツィアも同様にショパン家と交流があり、特にショパンの姉ルドヴィカと親しくしており、手紙もやりとりしていたようだ。
 母は1824年、父は1834年に亡くなった。
 次に、ヤンの友人を見てみよう。ワルシャワ高校在学中の友人の中でここに挙げておきたいのがユゼフ・カラサンティ・イェンジェイェーヴィチ(3回くらい文字並びを見直した)だ。彼は、後にショパンの姉、ルドヴィカの夫となる人物である。ショパンとはどうかと言うと、ショパンがワルシャワ高校に入学したのは1823年、ほとんど入れ違いで、学校での交流はなさそうだ。
 そのほか、同じ時期をショパン家の寄宿舎で共に過ごした仲間には、今後取り上げたいショパンの親友であるティトゥス・ヴォイチェホフスキがいた。
 寄宿舎にいる間、ヤンはショパンと同じくヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを習っていた。音楽の才能があったようで、礼拝やコンサートなどで美しい音楽が奏でられると評判だったルター派聖三位一体教会に属している声楽・器楽グループ(プロアマ混在)で歌っていたというのだ。ちなみに、この教会でショパンは新しく発明された鍵盤楽器、エオリメロディコンを演奏したことがある。
 なんとそれだけでなく、ヤンは絵にも興味があったらしく、ワルシャワ大学の絵画理論の授業を聴講したり、絵を習ったりしていたという。音楽と絵が好きなところはショパンと通じるものがあり、2人が仲良くなったのも、こんな共通点の存在も大きかったかもしれない。(イラスト交換とかしていたらいいのに)

ショパンとはどんな付き合いだった?
 ヤンは1823年9月10日付でワルシャワ王立大学法学・行政学部に入学した。つまり、ワルシャワでの生活が続くはずであったのだが、健康を害して卒業はかなわなかった。
 ヤンの病気ははっきりと断定出来ていないが、おそらく膝の骨結核だったと言われている。治療のためか実家のソコウォーヴォに引き揚げていたようで、1824年と1825年、ソコウォーヴォからほど近いシャファルニャに夏休みを過ごしに来ていたショパンと行き来して会っていたようだ。それ以来、ヤンが亡くなる前年まで(現在確認出来ているショパンからヤンへの最後の手紙が1827年3月)、ショパンはヤンと手紙で連絡を取り合う。ヤンへ自分の曲の他、色々な楽譜を送ったり、ワルシャワでの出来事を伝えたり、学校のことを報告したり等々。
 どの手紙も、ヤンへの愛情や、会えない寂しさが感じられる。そしてやはり、ヤンの具合を常に心配していた。折に触れて全治を願う言葉を書いている。

そして永遠の友となる
 以前noteで記事にした「ショパンの手紙催促・文句集めました」で取り上げた5通のうち4通はヤンに宛てた手紙で、手紙の返事をあらゆる言い方を使って要求しているが、ヤンの病状が思わしくないことを察し、どうしているのか分からない不安や、出来るだけ多くの言葉を交わしたいという思いもあったのだろう。それを踏まえて読み返すと切ない気持ちもないではないが、相手の病状を思いやる余裕はなかったのだろうか…という思いも胸を過る。
 ヤンは、ビスクーピェツなどに治療に赴いたり、(ショパンの手紙によると)温熱療法をしたりと手を尽くしていたようだが、快復には至らず、1828年23歳で亡くなる。18歳のショパンは、初めて親友を喪った。
 2人が出会った時、ショパンは6歳、ヤンは11歳だった。5歳という差が、当時の人々にとってどんな感覚だったのか分からないが、ショパンにとってお兄ちゃんのような存在からのスタートだったかもしれない。ヤンはショパンにあまり自分の病状を語らなかったようだ。ショパンはそれを悲しく思ったりしているが、ヤンは余計な心配をかけたくなかったのだろうか。
 12年の友情は悲しい結末を迎えることになってしまったが、ショパンにとって、ヤンと過ごした時間は青春の忘れがたい記憶だっただろう。


参考文献
ゾフィア・ヘルマン、ズビグニェフ・スコヴロン、ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス著、関口時正、重川真紀、平岩理恵、西田論子訳『ショパン全書簡 1816~1831 ポーランド時代』岩波書店、2012年

ピョートル・ミスワコフスキ著、平岩理恵訳『ショパン家のワルシャワ 原資料によって特定されたワルシャワ市内ショパン家ゆかりの地一覧』ポーランド国立フリデリク・ショパン・インスティトゥト、2014年

Narodowy Instytut Fryderyka Chopina
https://pl.chopin.nifc.pl/chopin/persons/detail/id/6748(閲覧日2020.5.20)
 

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