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夏の思い出〜25mと涙〜

夜寝る前、暗い部屋でアラームをかけて頭を枕にあずけると、自然といろんなことを思い出す時間が始まります。
その中で、その年に生まれた楽しい夏の思い出を振り返ると、どうしてか寂しくなる時があります。同時に「あ、夏の終わりの合図だ」と気がつくのです。

今年も、今年あった夏の思い出を振り返ると寂しくなりました。
花火に祭りに海にプールに・・・といったものはありません。夏の風物詩的なものでいうと、強いて言えば24時間テレビを少し見たこと。
今年の夏の思い出がなくて振り返るものがないのです。「寂しく感じる」というより「寂しい」。


2020年は特別な夏。私にとってはちょっと皮肉にきこえてしょうがない。


私の夏休みの思い出ボックスには、小学生編が圧倒的に多いです。
どれもこれも思い出すたび、いい夏だったなあ〜なんてちょっとノスタルジックになっちゃったりして。この時間が好きなんですよね。私、思い出の中で生きる傾向にあるんです。
この時間と夏の思い出を振り返ることって似ています。これらのお陰で大好きな夏とさよならができて、秋の隣に駆け寄れる。


外を見ると、18時半には真っ暗。19時を過ぎてもまだ明るかったのに随分早く日が落ちるようになりました。
週間予報を見ると、どうやら名古屋は猛暑日から抜け出しているよう。

もうそろそろ、このあたりで思い出ボックスの中から一つ取り出してみよう。それで、2020年の夏とお別れしようかと思います。


思い出は、プールの時間

小学生の夏休みといったら毎日がスペシャルです。セミ捕りやゲームやアニメ鑑賞くらいしか選択肢はないながらもどれも世界は輝いていて、同じことを初めてみたいに新鮮に楽しめるのです。
ですが、夏休み中に学校で2回ほど行われるプールの授業が憂鬱で仕方がなかった。
何故かというと、私の今の遠泳記録は18m。絶望するほど泳げません。


泳げない組の屈辱たるや、小学生のうちから腹の底まで味わうんですよ、知ってました?

同い年のクラスメイトが当たり前のように25mを順番に泳いでいる中、我々はプールの縁につかまって息継ぎの練習です。「ぶくぶく〜ぱっ」と言わないといけないルール
は本当にやめて欲しかった。

平泳ぎに関しても、縁に手をやりカエルの足の練習をひたすらやります。上手にできてるねー!て褒められてから実際泳ぐと5mという1セットを、小学生〜高校生までやりました。高校生までやるのです。

それから中学生の頃に遠泳のテストがあった時のことも忘れません。足をつけて顔をあげたら15m泳げていたことに喜んでいたら、隣のレーンから「すごいじゃーん」と言いながら悠々と平泳ぎをしている友人が私を横切っていきました。自分、哀れなり。


皆が当然にやれてることができない屈辱感。
学年が上がるに連れて同士が減っていく焦燥感。
好きな子の前でカッコ悪い自分を見せてしまう羞恥心。

プールに行ったらこれらは不可避です。泳げない者にとってプールの前日というのは、「あー明日先輩にめちゃくちゃ怒られるわー」をはるかに凌駕するストレスをぶつけてくるのです。


涙の25m

小学校高学年だったと思う。ある夏休みのプールで、いつも通り隅っこでちっこい浮き輪を二の腕につけながら屈辱を味わっていました。
プールの授業の最後というと、好きなようにプールを楽しむ自由時間に充てられているのがほとんどでした。
でもその日は先生のスパルタ心が疼いたのか、小学生に気持ちのいい疲労感を与えたかったのか、私がわかる時は一生こないのですが。各レーン一人ずつ、25mプールを泳ぐという最悪の時間が出来てしまいました。

今まで訓練生だったのに突然1軍と一緒に練習する私はその知らせを聞いて絶望したのを覚えてます。
泳げない組として分けてくれる方が、出来る出来ないという線引きがされるので多少の諦めみたいなものは持てていたのに。混ざっちゃったらより劣等感を感じちゃうじゃないか。ひよこは鶏とは同じケージで飼わないでしょ!先生のわからずや!!

しかし泳げない組にいたのは私を含めても3人程度。圧倒的マイノリティは不都合な社会に従うしかないのです。
自由に列を作るのですが、私は自信のなさと消え入りたい思いに誘われて自然と最後尾に並びました。


物足りないという声が聞こえそうなほど、25mを易々と泳ぎきっていくクラスメイト。私は待っている列が短くなる一方、25mが果てしなく長く感じていく。
時よ止まれ、時よ止まれ。泳げない子が他にいるとプレッシャーも和らぐんだけど・・・うーん皆凄く上手!はあ、時よ止まれ、時よ止まれ・・・。


願い虚しく、冷たいプールに身を投げ、最後尾の皆と一斉にスタートしました。

牛歩の泳ぎを披露する私。進まないし息継ぎができない私は何度も何度も足を底につけます。もし自分の後ろに泳ぐ人がいたら、すぐに追いつかれて邪魔をしてしまうことになってしまうから最後尾で正解だったな。と思っていました。
今一度振り返っていただきたい。プールの授業の最後のコンテンツで、最後の泳ぎ手達の中にいて、自分が一番遅い。

その先に待っているのは、プールに一人だけいる泳げない私。公開処刑である。

クラスメイトの視線がほぼ溺れてる泳ぎをする私へと一斉に注がれるなんて一生の恥です。幸運にもクラスメイトはプールサイドで遊んでいる様子で、プールで泳いでいる私に注目しようという子はいなさそうだった。

このままならいける。気配を消しながら情けないクロールをして前に進む。随分と遠かった25m先のゴールも、あと半分。足をつけて周りを見る。まだ誰も私を見ていない。ふと左の目の端で先生がメガホンを取るのが見えた。ゴーグル越しでぼやけた視界から確認が出来たのは先生が口元にメガホンをあてたこと。瞬間、何かゾッとした。何かいけない、やばいことが起きる。
先生やめて!

「皆さん!ご覧なさい!小林さんが泳げないのに、頑張って泳いでいます!これは恥ずかしいことではありません!勇姿です!皆さん!しっかり小林さんを見なさい!そして応援するのです!」


・・・・余計なことを。出来ない人を応援だ?私を使って道徳の授業をするんじゃない!

絶対的存在の先生から発せられた命令を純粋な心で受け取る哀れなクラスメイト達。
プールサイド全方位から飛び交う生徒達の「がんばーれ!」コールを音頭にどんどん羞恥心が募っていく私。
あと半分だったゴールが逃げて行って、また遠くに感じる。先生、今私は泡になって消えたいくらい恥ずかしいです。


心も体も疲労困憊になりながらも何とかゴールに辿り着き、全生徒から盛大な拍手を貰った私は、プールの水ではなく涙でずぶ濡れだった。

以上、夏休みの思い出でした。
数多ある思い出の中からどうしてこれを選んでしまったのかはわかりません。
ですがあの地獄のプールも、今思い返すといい思い出となって昇華されています。
懐かしくてちょっとさみしい、なんていうノスタルジックな気持ちになる一方、悔しさで眉間にシワ3本入っていく気がしなくもないですが、とりあえずこの頃の記憶とはまた来年、会おうと思います。


さよなら、夏。
こんにちは、秋。

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