見出し画像

趙根在 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病― 原爆の図 丸木美術館

東京多磨全生園に同胞を訪ねて感じたことは、太陽こそ頭上に輝いているけれど、人々は有形無形の壁に囲まれ、地底同様の闇にいるのだということでした。それは、人間として堪えがたい苦しみに思われました。出遇った方々が、よく働く善意の人々ばかりでしたから、この閉じ込め同然の囲いはいっそう不自然にも、不当にも思われました。私には、出口を開き、自由の光をあてることは全く不可能としても、願望のいくらかを伝えられるかもしれない、と思ってしまったのです。
伝達のいかなる方法も技術も知らず、自分の姓名すら確かに書けない、元石炭堀りが途方もない思いつきをしてしまったものです。

ハンセン病の同胞たち——『解放教育』196号1985年8月 ※引用は図録 p185から

「ぼくは字も知らなければ、ものを書くこともわからん。でも何かやっぱりいいたい。だからいちばん簡明卒直な表現の手段として写真があったですね」

「収談 私のらい参加 炭坑・朝鮮人・ハンセン氏病」『らい』18号) ※引用は図録p133から



写真——真を写す営み

 写真の力は、いまも有効なのだろうか? 写真という言葉を分解し、真を写す=物事のありのままを現前させるメディアだとする物言いは、写真表現に関心を持つ人間なら誰でも聞いたことがあるだろう。そうした、ある区切られた光学的な世界の記録に価値を付与する態度は、同時に目撃者、立会人、記録者としての写真家に特別な地位を与えることを意味してもいた。
 翻って、小型のデジタルカメラと遜色ない機能を備えたスマートフォンが市民生活の隅々まで普及し、さらには写真へのデジタル加工がごく一般的な技術となった現今の社会状況においては、上記の意味での撮影者の特権性は相対的に低くなり、写真が持つ力の意味も大きく変化しつつある。
そのような状況下でもなお、一人の撮影者(写真家)による記録という継続的な営み=「写真」が社会にとって重要な意味を持ち、わたしたちに強く訴えかける表現として成立し得ているのだろうか?
 東松山市の「原爆の図 丸木美術館」で2月4日より開かれている『趙根在  地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―』は、そうした疑念や問いに一つの肯定的な解を示す稀有な内容の展覧会だといえるだろう。

 

 

2万点の写真——20年の軌跡



会場入り口。右手に展示されているのは患者運動を取材した写真群。


 『趙根在  地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―』は、1960年代から80年代初頭にかけて、沖縄と鹿児島の奄美和光園を除く全国の国立ハンセン病療養所を訪問し、在日朝鮮人の入所者を中心に2万点、さらに炭坑などの写真を合わせると2万5千点にも及ぶ写真を撮り続けた趙根在(チョウ・グンジェ、日本名:村井金一/1933~1997年)の遺した仕事とその人生を、大判のインクジェットとして再プリントした210枚の写真(※1)と、図録に載せられた趙自身の書いたテキスト『ハンセン病の同胞(きょうだい)たち』を中心に、遺品のカメラ、現存する手焼きのプリント、多数の書き込みがなされた蔵書なども公開し、その仕事の全容に新たな意義づけを行おうとする大規模な企画展示だ。
 近年、国による賠償が確定している非人道的隔離政策(らい予防法)のもと、長期にわたって収容されてきた入所者を間近に捉えた記録という、極めてセンシティブな性格を持つ趙の写真はこれまでも写真集や展覧会の形で何度か紹介されてはいるが(※2)、今回ほど写真展として大規模で、かつその人生や人物像、彼がしてきた撮影が持つ意味に対して詳細な論評を伴うテキストが発表される複合的な試みは初めてだ。
 「レビューとレポート」は2月14日に丸木美術館で企画を担当した岡村幸宣氏にご解説頂きながら展覧会の取材を行い、翌日には資料提供で協力をしている国立ハンセン病資料館で、学芸員の吉國元氏にもお話を伺った。

以下、会場の写真と共に企画の概要をレポートする。残りの会期はひと月ほどだが、是非、足を運んでほしい。

(※1)もともと趙の写真は展示などでの発表を前提としたものではなく、美術館での回顧展をするにあたってインクジェット・プリントによる引き伸ばしが行われている。ハンセン病資料館がデジタル化している趙の写真データから岡村氏と写真家の小原佐和子氏が候補をセレクトし、プリントのクオリティ管理と展示構成は丸木美術館の空間を熟知する小原氏に依頼したとの説明が岡村氏からあった。

(※2)趙の写真はこれまでに、1972年の栗生盲人会編『高嶺の人びと』や詩人の谺雄二と共作した1981年出版の『詩と写真 ライは長い旅だから』、死後の2002年に出版された写真集『趙根在写真集 ハンセン病を撮り続けて』などにまとめられ、また各地の療養所では入所者による文藝運動が盛んだったため、いくつかの機関誌や評論集に趙の写真が使われている。展覧会の形としては、1998年に国立ハンセン病資料館の前身となる高松宮記念ハンセン病資料館における「趙根在(遺作)写真展」、2014年~2015年に国立ハンセン病資料館で企画展『この人たちに光を ―写真家趙根在が伝えた入所者の姿―』が行われ、本展の企画を担当した丸木美術館学芸員、岡村氏は後者で初めて、趙の写真をまとまった形で見たという。



展覧会を案内してくれた学芸員の岡村幸宣氏(写真右)。14日は埼玉新聞の小出菜津子記者(写真左)も取材に訪れていた。

 

入口左方向
奥側からホール入り口を見る



多磨全生園、松丘保養園
多磨全生園
松丘保養園、菊池恵楓園
菊池恵楓園、栗生楽泉園
栗生楽泉園
栗生楽泉園、長島愛生園、邑久光明園
長島愛生園、邑久光明園
左側:長島愛生園、邑久光明園。右側:東北新生園、駿河療養所、大島青松園、星塚敬愛園
東北新生園、駿河療養所、大島青松園、星塚敬愛園


 

趙根在——炭鉱から療養所へ

 趙は大日本帝国の統治下にあった朝鮮半島北部、黄海北道から仕事を求めて日本へ渡ってきた父母の息子として愛知県大府町(現大府市)に生まれ、家計を支えるため中学3年(※)で父と同様に炭鉱夫として働き始めるなど、同じ集落に住む多くの朝鮮人同様に貧しさの中で育った。1958年に上京すると、在日本朝鮮人中央芸術団の照明部員の職につき、当時活発化していた全国公演にも帯同する。
 本人の回顧によれば、その旅の途上、熊本県合志市の療養所「菊池恵楓園」で目撃した入所者の夫婦の姿に強い印象を受けたことをきっかけとして、ハンセン病と、不当な収容隔離下で生きる同胞に特別な意識を持つようになったという。しかし、そのときにはまだ撮影をしようなどという気はなかった。
 実際に撮影を始めたのは、芸術団を辞め、借金を理由に舞い戻った二年ほどの炭鉱労働を経た1961年の夏、東京都東村山市の、現在は国立ハンセン病資料館が隣接する「国立療養所多磨全生園」を3度目に訪れたときのことだった。再度の上京後は映画の仕事に就いていたため、「カメラやフィルムが身近にあるせいか、ふと写真が思い浮かんだ」程度にしかすぎなかった。だが、全生園でのはじめての撮影(下掲写真)以降、趙は撮影が途絶える1981年までの20年間、前項で記述したように沖縄と鹿児島の奄美和光園を除いた全国の国立療養所を訪問し、当初は在日同胞のみを、後には親しくなった在日以外の入所者をも含めた生を膨大な数の記録として残すことになる。
 ときには泊まり込み、寝食を共にしながら撮影した趙の写真は、隔離政策とハンセン病への偏見が未だ根強かった時期を考慮すれば極めて稀なものだが、戦後の日本における写真史の中では未だ充分な研究や評価がなされているとは言い難く、その点からも本展の意義は大きい。

(※)趙の生年に関してはこれまでに三つの年が公表されており、現在の公式となっている生年では趙自身が語る炭鉱夫として就業した時期の年など、エピソードによって辻褄があわない箇所が出てきてしまうのだが、岡村氏は、戦時下でもあり、併合下の朝鮮から日本へ渡ってきた人々の記録の管理は様々なレベルで曖昧だったのだろう、と結論付けていた。

 

病棟を見舞う 多磨全生園 1961年
画像提供:国立ハンセン病資料館


 会場で展示されている趙の写真は、前掲のように各地の療養所で撮影されたものが、メインの大ホール全面をぐるりと囲むように貼られ、美術館入り口からの動線上にある手前ふたつの部屋と空間には、療養所以外で撮られた写真——在日朝鮮人のコミュニティや家族の様子、趙も長く従事した炭鉱の労働者たち、生業としての撮影業務で関わった人形アニメ『シスコン王子』(原作は藤子不二雄Ⓐ)の製作現場——、そして遺品のカメラや前述した詩集、写真集などが並べられていた。

 

患者運動


『街頭デモ』1966
画像提供:国立ハンセン病資料館



左から、家族、炭鉱、朝鮮


家族


『母』1965頃
画像提供:国立ハンセン病資料館



炭鉱


朝鮮
左から朝鮮、映像
朝鮮
朝鮮


映像
遺品のカメラ。1975年にオリンパスが発売した一眼レフOM-2。レンズは35mmで、趙がもっとも多用した画角だという。 
遺品のカメラと手焼きのオリジナル・プリント
遺品のカメラと手焼きのオリジナル・プリント。カメラはいずれもオリンパスの一眼レフ、OM-2。レンズは手前から24mm、28mm、35mm。主に後期の撮影で使用された。
趙の写真集と書き込みの入った蔵書、監修として関わった写真集『写真万葉録・筑豊』
趙の写真集。谺雄二との共著『詩と写真 ライは長い旅だから』は生前の代表的な刊行物だ。 

 

 ハンセン病患者(回復者)の生活及び、隔離施設のあり様を紹介する展覧会なら、また或いはそうした面に限定した記録者としての趙にフォーカスするのであれば、ハンセン病療養所以外で撮られた写真群にスペースを割く必要はないのかもしれない。
 現に、国立ハンセン病資料館では「ハンセン病患者(回復者)に対して行われた隔離政策の過ちを後世に伝え、ハンセン病への理解と当事者の尊厳の回復を目指す社会啓発に重点が置かれる」(学芸員、吉國氏談)ため、療養所を撮影した趙の人生や思想、撮影をはじめた動機——二重に差別的な待遇に置かれた在日朝鮮人入所者に、炭鉱夫だった自分が求めた自由への渇望を重ねた共感——などについては、前述の企画展でも少なからず触れていたものの、写真以外にも存在する趙の仕事の意義や生涯に関しては、充分に紹介する機会がなかったという。
 しかし、本展の特色は、これまで紹介されてきた写真に加え、炭鉱、在日朝鮮人のコミュニティ、及び家族の写真、遺品のカメラ、手焼きのプリント、直筆原稿、蔵書なども含んだ展示を実現することにより、ハンセン病との関わりに留まらない、趙の仕事の全体像を示している点である。

 


再録——「ハンセン病の同胞たち」

 その点において、丸木美術館は展覧会の図録になんと70ページ弱(!)ものスペースを割いて復刻掲載した趙のテキスト『ハンセン病の同胞たち』を企画の重要な一部と位置付けており、これは美術館という場だからこそ実現できた成果だといえるだろう。後日の補足的なメール取材の返信で、岡村氏も以下のように述べていた。
 「展覧会という形式上、写真の展示が中核を成しているのですが、今回の企画展の趣旨は、ハンセン病の写真だけではない趙根在の仕事の全体像を再考することであり、趙根在の残したほとんど唯一といっても良い文章を掘り起こして図録に収録し再読を可能にしたことも、重要な意味があると位置づけています。「ハンセン病の同胞たち」は趙根在というひとりの人間の仕事を再考する上で、見逃せない要素なんです」

 

 

『趙根在  地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―』図録
図録に再録された趙のテキスト『ハンセン病の同胞たち』
図録に再録された趙のテキスト『ハンセン病の同胞たち』。初出は『解放教育』で1985~86年に行った連載。

 

 月刊誌『解放教育』という専門誌に一時期連載されたのみの、さらに発表から数十年経つ『ハンセン病の同胞たち』をこれまでに読んだことがある人はごく限られていただろう。筆者も当然その1人だが、一読して驚いたのは、炭鉱夫だった趙が療養所を撮影してまわるに至った背景や動機の詳細な述懐もさることながら、その内容の文学的な豊かさだ。とりわけ戦時下の「ヤマ」(炭鉱、炭鉱の町)で暮らした子供時代を回想する部分は、『千年の愉楽』を書いた時期の中上健次を思わせるような言葉の濃密さと映像的な描写の鮮やかさが際立っている。
 冒頭に引用したテキストで、趙は入所者の現状を伝える手段として写真を選んだ理由を、「ぼくは字も知らなければ、ものを書くこともわからん。でも何かやっぱりいいたい。だからいちばん簡明卒直な表現の手段として写真があったですね」と自己卑下しながら語っているが、図録の解説で詩人の阿部日奈子が「2万5000点の写真を残した趙根在は粘り強い記録者だが、記録者であるまえに記憶の人であった」と書くように、世界を映像的に記憶する目の確かな力は、趙と写真というメディアの親和性を物語っているようでもある。

 

 

介入する写真——正面から見つめる視線

国立ハンセン病資料館の学芸員、吉國元氏と、ロビーで。
館の蔵書をご紹介頂きながらお話を伺った。

 

 前項で、社会啓発に重点を置く国立ハンセン病資料館では、企画展の開催はあったものの、作家としての趙を分析し、写真論的な文脈で紹介する機会は少なかったようだと書いた。
 これを踏まえ、国立ハンセン病資料館の常設展示で趙の写真を見ると、それらは療養所や入所者のあり様を伝える歴史資料として扱われ、場合によっては展示空間や展示の意図に合わせて、写真のトリミングも行われているのが判る。
 丸木美術館を訪れた翌日、追加の取材で訪問したハンセン病資料館で応対して頂いた学芸員の吉國氏は、「趙の写真が果たした役割は大きい」と言い、かつて各地の療養所が発行した記念誌や、『離された園』(岩波写真文庫、1956年)に掲載された写真などを比較しながら、趙の仕事の意義を語ってくれた。

 

炊事場風景 撮影年不明 国立ハンセン病資料館蔵
画像提供:国立ハンセン病資料館


『創立50周年記念誌』(1959年、国立療養所多磨全生園)に掲載された園内の患者作業の様子。趙の写真とは対照的に、人物が撮影のためにポーズを構えて写っているのが判る。


園内作業 洗濯部 1955年 国立ハンセン病資料館蔵
画像提供:国立ハンセン病資料館

『離された園』にある洗濯の写真。『離された園』に掲載された入所者の多くは後ろを向き、構図も引いたものが多い。


 記念誌に掲載された入所者の姿は、園が紹介する「日常」の中でその多くが遠くから引いた構図が切られ、皆が後ろ向きで顔も表情も伏せた無味乾燥なポーズをとった、状況を説明する「資料」として写されているものが多数を占める。また、『離された園』は入所者が撮影したものであるが、撮影者と被写体の双方が差別を恐れたためか、よそよそしい写真が目立つ。
 比べて、正面から撮影者を鋭く見つめる若い男性の写真が代表するように、ときに大胆に、ときに見守るように柔軟な変化に富む趙の写真では、それぞれの入所者が日々のさまざまな場面で、一個の人間として輝いている。  「『離された園』や職員が撮影した写真群も貴重な記録ではありますが、入所者が受動的に写されているそれらに比べて、趙の写真は、写されている人々が主体的にカメラの前に立ち、未来にいる私たちを見返しているような力強さがある。いわば趙の個人的な使命感によって捉えられた療養所の姿は今も生々しく、隔離下に生きた人々の尊厳を伝えている。」
 吉國氏がそう力を込めるように、両者の比較からは、写真の持つ力やその意味について、改めて考えさせられるものがある。

 

1965年、菊池恵楓園で。正面から撮影者を見つめる入所者、鷹志順。
画像提供:国立ハンセン病資料館


「趙根在 地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―」の展示を寄りで撮影


 

中断の意味——遺されたメモ

趙の旧蔵書(国立ハンセン病資料館図書室蔵)。Sontag, Susan 1978 Illness as Metaphor,Farrar, Straus and Giroux スーザン・ソンタグの代表的著作『隠喩としての病い』の原著。
趙による訳『病気とその隠喩』などの書き込みが表紙にある。
国立ハンセン病資料館 ロビーにて。


 1961年から20年に渡って各地の療養所を撮り続けてきた趙だが、1981年を最後に撮影は中断される。
 その後は97年に癌で亡くなるまで、記録文学作家として知られる上野英信からの強い要請で監修として関わった写真集『写真万葉録・筑豊』以外、写真と関わる仕事はほとんど無く、『ハンセン病の同胞たち』のようなテキストを発表したり、家に籠りながら、没後にハンセン病資料館に寄贈された大量の蔵書を読みこむ日々を過ごしていたようだ。
 晩年の趙に注目する岡村氏は、趙が言葉や思想によって自分がしてきた仕事を位置づけようとしつつも、答えをまとめきれないうちに亡くなってしまったのではないか、と語っていた。フーコー、ソンタグ、折口信夫……、それら遺された蔵書には膨大な量の書き込みがあり、いずれも断片的ではあるものの、今後、作家としての趙についての研究を進めるなら、これらを読み解き、彼の晩年の思考を探ることが重要になるだろう。

 

趙の旧蔵書(国立ハンセン病資料館図書室蔵)。舟越保武『巨岩と花びら』(1982年、筑摩書房)。ハンセン病の治療に生涯を捧げたベルギー人、ダミアン神父に触れた箇所に多数の傍線が引いてある。  

 


余録——人がおとさにゃおちてこん

丸木美術館の入り口から少し歩いたところに丸木位里の母、スマの言葉を刻んだ石碑が建っている。
丸木美術館正面入り口
丸木美術館正面入り口横の看板

 

 『趙根在  地底の闇、地上の光―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―』が開かれた「原爆の図 丸木美術館」は、丸木位里・俊夫妻の手による『原爆の図』をはじめとする代表作が常設展示される私設美術館であり、これまでにもマイノリティの表現や人権、迫害に関わる展示企画をたびたび行ってきた。
 美術館の敷地には、位里の母であるスマが原爆投下の加害性を評した有名な言葉「ピカは人がおとさにゃおちてこん」が彫られた石碑が建てられている。
 ハンセン病患者への暴力的な隔離政策や差別、迫害も感染そのものではなく人の手によって引き起こされた害であることを想起するとき、スマのこの言葉は改めて普遍的な警句として、わたしたちに迫ってくる。

(了)



見出し画像




趙根在展 地底の闇、地上の光 ― 炭鉱、朝鮮人、ハンセン病 ―
開催日:2023年2月4日(土)~5月7日(日) ※会期延長しました
会場:原爆の図 丸木美術館
助成:公益財団法人 全国税理士共栄会文化財団
協力:国立ハンセン病資料館

関連書籍
展覧会カタログ「趙根在 地底の闇、地上の光 ―炭鉱、朝鮮人、ハンセン病―」
A5判モノクロ224頁 頒価1650円(税込) 出品作品210点収録
寄稿:阿部日奈子(詩人)、岡村幸宣(原爆の図丸木美術館)
趙根在「ハンセン病の同胞たち」(1985-86年『解放教育』10回連載)再録

https://marukigallery.jp/6098/




取材・撮影・執筆:東間 嶺 
美術家、非正規労働者、施設管理者。
1982年東京生まれ。多摩美術大学大学院在学中に小説を書き始めたが、2011年の震災を機に、イメージと言葉の融合的表現を思考/志向しはじめ、以降シャシン(Photo)とヒヒョー(Critic)とショーセツ(Novel)のmelting pot的な表現を探求/制作している。2012年4月、WEB批評空間『エン-ソフ/En-Soph』を立ち上げ、以後、編集管理人。2021年3月、町田の外れにアーティスト・ラン・スペース『ナミイタ-Nami Ita』をオープンし、ディレクター/管理人。2021年9月、「引込線│Hikikomisen Platform」立ち上げメンバー。




ハンセン病とそれに対する誤った隔離政策の歴史については国立ハンセン病資料館でより深く知ることができます。




レビューとレポート第45号