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穴の誘惑  ーイメージ/私的記号/物が行交う<穴>ー 本山ゆかり個展「その出入り口(穴や崖)」  藤井雅実

ギャラリーに入ると、そこは奇妙に揺らぐ気配が漂っていた。

壁には、白っぽい下地にラフな線で何かが描かれた、絵のような<何か>が、細い板の台座のようなものの上に載って並んでいる。

何が描かれているのか?よく分からない…が、<何か>が描かれている。
しかし、絵画やドローイングと言ってしまっては、そこをはみ出る感がある。

「何だろなぁ、コレは?」……少しニンマリしてしまう。

むろん、レビューのお誘いを受けたあと、作者の発言[1]なども読みなおしているし、その作品も写真やネット画像で見てもいるので、絵の仕掛けなどもある程度わかってはいる。にも関わらず、いざ実作が並ぶ画廊空間という「穴」に入り込んだ時、そこにある作品たちと周囲の空間は、そうした知識やイメージの記憶に触れながらも、「何だろなぁ、コレは?」という気分を喚び覚ますのだった。

今回の個展は、「その出入り口(穴や崖)」と題されていた。

穴や崖?なるほど、穴っぽい形は見える。崖だか岩や石のような形も見て取れる。穴と石…というと、現代の先端思想あたりの連想も誘うが…だがしかし…。

一つ一つの作品に近づくと、線は、透明なアクリル板の裏に描かれていることが分かる。そしてその線の向こうに、白っぽい不定形な<何か>が塗りこまれている。つまり、アクリル板に何かがラフにドローイングされた後、その線画を覆い隠すように白っぽい絵具が塗り込められる。白っぽい“下地” は、実は下地でなく上塗りだ。

そのように描かれたアクリル板が裏返されることで、上塗りが下地となって、アクリル板を通して見えるように展示されている。説明されずとも、この絵の生成過程が直感的に見て取れる仕掛けがある。

そして、その“絵のような作品”が、下辺だけの額縁でもあるような台座っぽい板に、立体小品のように乗って、上辺は壁に寄りかかっていることで、オブジェっぽい気配も出している。そのような効果を生むことで、台座は、作品(エルゴン)の一分をなすようでもあり、作品をそれとして枠取る縁(パレルゴン)でもあるようであり…。

様々な意味で揺らぐ仕掛けを持つ“絵のようなモノ”。

表が裏で裏が表、何かが描かれたようで何と定まらず、何かを暗示する記号のようだが何かをはっきり表すわけではなく、平面作品のようで立体作品のようでもあり…、そうした複数の特性の間を“出たり入ったり”…。

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画用紙(三つの岩) , 2019 ©本山ゆかり
Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery

個々の作品には、どれも「画用紙」という言葉の後にカッコが付き、「画用紙(三つの岩)」などと題されて、カッコの中が描かれた対象を表示している。すると、線の後ろの白い塗り込み、後から塗られた偽の下地が、画用紙なのか?

画用紙のような白い地塗り。後から描かれた虚構の下地。それが展示された作品を貫いて、その“あたかも下地のような塗り込み(画用紙?)”とアクリル板という、二つの平らな物の間(これも穴?)に、線描が封じ込められている。

そしてその画用紙と言うにはラフに塗られた白い地は、スライムやラメラ(細胞間薄膜)[2]のような、形あるものを包み込み、結んでいく「不定形な生命体」めいた妖しさも漂わせ、その下部がたらーっと垂れている。

滴る画用紙!?

そのラメラめいた妖しい下地の、塗り残されたままの周囲には、画廊壁面も透けて見え、アクリル板の四角い縁の中に入り込んでくる。

思い起こせば、展覧会のタイトルは「その出入り口(穴や崖)」と記されていた。

穴?

そう思って見返すと、多くの作品に“穴のようなモノ”が描かれているようでもある。とはいえ、穴のようでもあり山あるいは岩、炎のようでもあり…。

しかしそのラフな線描は、物としてのモデリングなどは加えられず、「穴」というタイトルに誘われて、穴にも見える。

穴が石となり、石が穴となり…。

そして、描かれた偽の下地モドキも、単なる下地であるよりも妖しげな生命体めいて蠢くイメージとしても自らを表し、重力で滴る“物”としても現われて、“イメージ”となり、イメージの支えである“地”ともなり、ラメラのように変容しながら漂っている。

本山ゆかりの作品たちはこうして、「あたかも…かのように…」という、何かであろうとしながら、何かであることを逃れ、何でもない穴に消えるかのようで、何かのようなものであり、イメージのようで物としても自らを晒し…という、イメージと記号と物とが入れ子状に明滅する場に、観る者を誘惑する。

そもそも<穴>とは、岩や壁が欠落してできるモノ(非-物)だった。そして、タイトルで穴と並んでいた<崖>もまた、そこで大地が不在となる境界面として在るモノ(半-物)だった。

本山は平間貴大によるインタビューでも語っていた。人々に共有された山や川などの記号的に定型化したイメージを簡略化し、しかしその過程で、「他人とは共有できない私の中での簡略化のルールみたいなもの」が生まれだし、「自分だけが分かる記号」にすり替えていくような楽しさがある、と[3]。

その手続として、まずデジタル画面でラフを描き、しかしそのラフは次に描かれるモティーフとなってアクリル板に手描きで直される。

その上に偽の下地が塗り込められ、それが裏返されて…と進む手続き、それが、様々なモティーフで反復されて…。

その不思議な手続きを介し、慣習的に共有された記号的なイメージを、子供が絵を描きだした時のような、イメージが生成する原初的な穴に、そこで何かが蠢きだす崖に、落とし戻していくテクネー。

そのプロセスはしかし、その作業の反復の中で、本山という描く主体にとっての「自分だけが分かる記号」に育つ。その、特異な「私的言語・私的記号」が、画廊空間という、他者たちがそれに応じる公共的な場にもたらされて、「あなたには何が見える?」と問うイメージの記号作用を発揮し始める。

イメージの記号作用、描画のテクネー、描く際の線や絵具や下地などのメディア、展示の作法…などなど、描くこと、絵を見せることに関わる様々な層や次元の、そこここに潜む<穴>に触れ、そこから、本山ゆかりという<この私>だけが触れた私的言語が立ち上がる様を探る。

そして観る者は、彼女の意図やアートワールドの脈絡など知らずとも、一見捉えどころのないイメージと記号と物が、出たり入ったり蠢く場に誘われてしまっているのだった。

一つのささやかな<異界>との出入り口……黄泉の穴、好色な神アルペイオスに迫られたアレトゥーサが、泉に復活する前に逃げた穴……であるかのように…。


本山ゆかり個展「その出入り口(穴や崖)」
東京・六本木 Yutaka Kikutake Gallery 2019年9月14日~10月19日

[1]編著:高田マル『絵画検討会2016-記録と考察、はじめの発言』(アートダイバー、2017)

[2]ラメラは細胞間薄膜。ここでは精神分析学者ジャック・ラカンが欲動の蠢きのイメージとして用いた寓意的用法による。スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め』(鈴木晶訳、紀伊國屋書店、2008年)、108~115頁、他で、スライムやエイリアンのイメージと重ねられて様々に活用される。


[3]本山ゆかりインタビュー(1/2) https://note.com/qqwertyupoiu/n/n257b16a17cd6

「その出入り口(穴や崖)」会場風景(トップ画像) Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery


藤井雅実
芸術哲学研究。芸術・文化評論。元「画廊パレルゴン」主宰。
近著:『〈外〉への共振−哲学と芸術の限界とその〈外〉』(「Search&Destroy」第1号・東京造形大学電子マガジン ※ダウンロード無料)。
編著・共著:『現代美術の最前線』(画廊パレルゴン刊 ※ダウンロード可のPDF版あり)『人はなぜゲームするのか−電脳空間のフィロソフィア』など。CD-ROM監修・翻訳:RMNデジタル・アートセレクション『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『ドラクロワ』『セザンヌ』(フジテレビ・NECインターナショナル)。
翻訳(共訳):R・ニード『ヌードの反美学』、R・カミング『深読みアート美術館』など。

レビューとレポート第7号(2019年12月)