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「有害さ」を考える - 日常を蝕む3つの条件

はじめに

こんにちは、上手に文を描ける様になりたい人、みそいちです。

前回、シリアルキラーの紹介動画を見た感想として、不快でもある行動をしてしまう理由について思いを馳せました。
不快でもある行動とは、「(客観的には)有害だけど、(主観的には)楽しい行為」です。

そう考えた時、「有害さってなんだろう?」と疑問が湧きました。

例えば、ホストに入れ込むことは何となく悪そうですが、経済を合法的に回してくれるし、瞬間的な幸福度は素晴らしく高いです。

有害さを定義できないと、せっかく考えた私の"危険な好奇心メソッド"は片手落ちです。(それ以前の問題がたくさんあるけど…)

今回は「有害さ」について考えを深めてみたいと思います。それは、3つの「有害さ」の掛け合わせとして定義できます。


(今日の一曲)

「有害さ」の難しさ

「有害さ」を含め、価値の議論は難しいです。
なぜなら、価値は誰がどの様な場面で語るかで、全く変わるからです。

他者への暴力は、戦時下であったり正当防衛であれば肯定可能です。それを無理に、「暴力は常にダメ🙅」と禁じてしまうのは不合理です。
世界を適切に理解するためには、「単純化への欲望」に抗う必要があります。


さて、単純化せずに頑張るぞと、気持ちを新たにしたところで、そのままで考えるのは難しすぎるので、単純化してみます。単純過ぎず、複雑過ぎずで頑張ります。

フレームの設定

適切な単純化をなす為に、いくつかの制約を考えてみます。

①量ではなく質の問題として考える
過ぎたるは及ばざるが如しとある様に、何事も過剰であれば有害です。
サウナは気持ちをリフレッシュしてくれますが、24時間そこで生活してたら死にます。多くの事は、依存してしまうと生活を害します。
そのため、有害さを量的な問題にするのではなく、質的に定義する事を目指してみます。

②否定性として定義しない
健康的でないこと、生産的でないことなどは、見方によっては有害と言えるかもしれません。が、今回の議論では、それは認めない様にしましょう。
思うに、有益なものの反対は無益なもので、有害なものの反対は無害なものです。
「有害さ」を考えたい私のモチベーションは、ピンポイントに避けるべきものを設定し、最低限の労力でそれを避けていくようにすることです。
Aではない」の様な、否定神学的定義をであると、避けるべき対象が依然ぼやけます。
今回の議論では、「有害さとはAである」と、肯定的な定義を考えてみたいと思います。


前回投稿の記事でも触れましたが、有害さにはいくつか種類があると思われます。例えば、暴飲暴食は、誰かに迷惑をかけるわけではないものの「自分の身体にとって有害」です。ヒモとして他者に依存して生活することは、その人にとっては全く無害かもしれませんが、周囲にとっては大迷惑です。

「有害さ」とは、害を受ける対象あっての言葉です。
つまり、「何においての有害さか」を設定する必要があります。「分かりやすい文章を書く上での有害さ」と「農作物を育む上での有害さ」を同列に語れません。

そこで、
③今回は、生活習慣における「有害さ」を考えてみる
と限定してみます。
前回までの議論で、人の自由時間の在り方について話していたので、同じ文脈で議論を続けたいと考えているからです。

「有害さ」の3つの形

さて、この様に定義すると、「有害さ」を具体的に考えられそうです。
私たちの生活におけるステークホルダーは、

  • 他ならぬ自分自身

  • 関係する他人=社会という関係の網

に大別出来ます。つまり、自分自身への有害さと、社会的な有害さです。

自分自身への有害さは、もう少し細かく分解できそうです。

  • 自分の身体や精神面への有害さ(生物的な具体的次元)

  • 自分の目的や目標到達への有害さ(倫理的な抽象的次元)

生物的有害さは、肉体だけでなく、精神(脳機能)への有害さを含めることとします。
両者は分けて語られることも多いですが、ここでは両方とも。「その人の本来の機能が、外的要因で損なわれた状態」とまとめます。

倫理的有害さは、人間の高次の欲求への到達を阻害する有害さです。
自己実現欲求、あるいは対自存在。人は、世界との関わりのなかで自らの可能性を投げ拓いていくとハイデガーは述べました。彼のいう「自らの可能性を拓いていく」という生の本来性を損なう有害さが、倫理的有害さです。もっとラフに言うと「やらなきゃいけないこと/あらねばならない態度を妨げてしまう有害さ」です。

有害さの3要素

人が有害であるという時、突き詰めれば上述の「有害さの3要素」のいずれか or 組み合わせの定義に行き着くと思われます。
道徳は突き詰めるといくつかの要素の組み合わせとして表現できると考えられるそうですが(「シュウェーダーの3つの倫理」など)、有害性も同様に要素分解できるのではないかと思います。

「有害さ」の考察

では、このように「有害さ」を分解することで、私たちはどのように生活にいかせるのか。
ここでは文章量の都合から、最も個人的価値観で対応方法が変わりそうな「倫理的有害さ」に絞り、これをどう捉えていくか考察してみます。


「倫理的有害さ」を言い換えれば、それは「よくあろうという態度」を挫く有害さです。例えば、ダイエット中のお菓子のCM・ズル休みを誘う友達・「明日から頑張ろう!」という甘え。これらは、倫理的に有害です。

取り急ぎ最初に生まれる疑問は、「倫理的有害さをなぜ避けなければいけないのか?」という問題です。低きに流れることは、なんとなくダメそうですが、低い労力で快楽を得られるのは経済的に合理的ではないのか?

倫理的有害さを避けるべき理由としては、次のものがあるでしょう。

  1. 長期的な目標達成を困難にするから:倫理的に堕落していくと、目標達成がますます困難になります。社会の中で快適に過ごすためには、他人より抜きん出ていることが必要で、そのためには他人ができないことをできることが必要です。つまり、困難な目標の達成が必要です。倫理的に堕落した場合、目標達成の程度が低くなり続け、結果として他人からの信頼関係の構築が困難になりがちになります。

  2. ストレスを溜めやすくなるから:長期的な目標を無視して短期的な快楽に耽ると、脳のある分野でストレスが発生することが分かっているそうです。つまり、人は生物学的にも実存主義的=目標指向型なのです。目標について、時代と場所を問わずに議論されるのはこの為です。故に、目標達成へ行動すること(「倫理的有害さ」を避けること)は、生物学的に生を充実させます。

つまり、「社会性動物として作られている我々人間は、"目標に向けた行動"への回路が避け難く設定されている。どうせ避けられないなら、目標に向けた行動を取ることに適応した方が、生の充実度が高まる」ということです。


とは言っても、「倫理的有害さ」に巻き込まれないようにすることは、非常に困難です。

生物的有害さと社会的有害さは、違反の際の罰則が分かりやすく設定されています(肉体的限界・社会的制裁)。そのため、避けようというモチベーションが立てやすいです。しかし倫理的有害さに違反したとしても、それがその有害さに留まる限り、害されるのは「遠い将来の自分の可能性」だけです。

しかも、人を執着させることは現在のマーケティングで奨励されています。今、我々の余暇は「商品の消費=他人の人生の充実」に常に狙われており、それらの誘惑を跳ね除けて「自分の人生の目標達成への歩み」に向かうことはますます難しくなっています。経営的に考えれば、他人の選択肢を狭め・判断力を奪い・短期的な快楽漬けに向かわせた方が得です。そしてその入り口には、私たちの好奇心や欲望に狙いを定めた、甘い罠が仕掛けられています。

「倫理的有害さ」を誘う、内的誘因と外的誘因。これらにより、私たちは「倫理的有害さ」を常に過小評価したい欲求に誘われます。(別に目標立てる必要ないだろ・今は頑張らなくていいか・楽に生きるに越したことはない)
「倫理的に堕落する」ことは、絶対にあってはならないわけではないですが、「倫理的に堕落する」ことを過小評価していくだけでは、私たちの健やかな発展は望めないと思われます。

おわりに

今回の記事は、「有害さの具体化」という目標がありました。

「有害さ」とは「他人の財を毀損する性質がある」or/and「自身の機能を弱らせる性質がある」or/and「将来的な目標達成を挫かせる性質がある」ものとして、定義可能と考えます。
最後の「倫理的有害さ」については、違反への罰が最も見えにくく、違反への誘因が多いため過小評価されがちです。しかしこれを侮ると、人生の充実度が(他の有害な項目と同じように)下がっていくことでしょう。
前回の議論と合わせて言えば、「倫理的有害さ」へと誘う行為こそが「危険な好奇心」であり、私たちが意識してコントロールしていくべき対象なのかもしれません。

今回は、私たちの生活に潜む「有害さ」の正体に迫るだけでした。
いつか機会を改めて、「倫理的有害さ」含め、それらを適切にコントロールする方法も考えてみたいと思います。

最後までお読み頂きありがとうございますmm
ぜひ皆さんの「有害さ」についての考えも教えてください!

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