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信じることの光景、そして愛の脈拍

信じるということについて話したい。
僕は信じるということについて何度も語ってきたと思う。信頼と信用の違い。信じると期待の違い。人を疑うことは人を信じることであること。など。

僕は人より信じることについて深く思考を巡らせていたように思う。でも、僕は本質的に信じることの意味を理解していなかった。あくまで本質的に。

もちろん、構造上の理解はしている。僕は言葉によって、構造を読み解くのが好きだ。ただ、言葉を操ることによって、その言葉が持つ本来の力が実体から遊離し、一人歩きすることがある。間違った解釈とはそのようにして生まれると僕は考える。

話を戻すが、僕は今回の件で、信じることについて実感を伴った理解をした。体感として、実体験として、情操的に理解したように思う。この文章によって説明するのは些か困難であるが、僕はこれについて説明することを一つの宿命として語りたい。

宿命とは、人生を丸ごと映し出す鏡のことである。

僕は人を信じていなかった。信じることは本当に難しいことだと思う。人を信じないで僕は何をしたか。

戦いである。僕はずっと戦っていた。メタフォニカルな意味ではなく、実質的に僕は戦っていた。強さは脆い。何故なら、より強いものに破られるからだ。あくまでも原理的に。

僕は強くなろうとしていた。それは、何かに耐え、誰かを守る強さではなく、戦いとしての強さを手に入れようとしていた。これは、僕が人を信じていないことからきたものだと思う。

人を信じるとはなんだろう。それは決して何か武器をもったり防具を身につけたりすることではない。何故なら、武器や防具は人を信じられなくなった者が身に纏う装飾だからだ。

全てを捨てて、全てを出して、全てを受け入れる。それが信じることを決断した人が行う己との和解だ。

愛を語らずに信じるということを語るのは難しいように思う。僕が信じることについての思索を得たのは、愛に抱擁されたからだ。

僕は愛も信じていなかった。それは自分に愛がないからだ。

「人は自分の中にないものを信じられない」と聞いたことがある。ただ、自分の中になくとも、自分の中に育もうとする気概があれば信じられるのかもしれない。それは今僕がしようとしている試みの一つである。

何か大きな壁にぶち当たると、愛に出会う。或いは、暗闇を彷徨い続けていると出会う。或いは、本気で誰かに助けを求めると出会う。

愛は幸福なのか?幸福でなければ愛として成立し得ないのか?誰かを愛する気持ちは、そこだけで完結する幸福感をもって成立する。これだけ愛しているのだから、その分の跳ね返りがあって当然だと考える人は人を愛する資格がない。

愛は何も求めないし見えないし動かさない。しかし、だからこそ求め、発生し、力動する。非常に矛盾に満ちたものだと感じる。

愛の存在をくっきりと認識した時、人は信じることの本質を知る。

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