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ベトナムとその料理で解き明かす、オーストラリア移民の歴史 -前編

 仲の良いある同僚の言葉、””食べ物を知ることで、初めてその民族を理解する”。何気ない雑談で、「オーストラリアで初めて寿司屋ができて、食べたのって何年前?」「生魚とか海苔とか、味にびっくりしなかった?」など、食べ物の話をしていました。その一連の会話で、半分冗談で同僚が言ったのが冒頭の言葉。ただ、多民族多文化社会オーストラリアの移民の歴史を知るのに、実に的を得ているなあと変に納得しました。 

 リトルトーキョー、リトルコリア等、リトル〇〇〇と呼ばれる、同じ民族の人がひとつの場所に集って住む地域。以前は彼ら民族の生活の場であった街が、今では多くの人が週末にエスニック料理を食べに出かけたり、旅行客がガイドブックを見ながら集まる街に変貌しています。その中でも、私が大好きなベトナムとその料理。これをテーマに、オーストラリア移民の歴史を考えてみました。

ベトナム戦争から全てが始まる

 どうしてオーストラリア始め世界中でベトナム人移住者が多いのか?それは、この戦争抜きには語れません。1960年から始まり15年にも及んだベトナム戦争。

 物凄く簡単にタイムラインを振り返ってみました。

 第二次世界大戦後、北ベトナム(ソ連、中国支援)と南ベトナム(アメリカ支援、当初フランス)に分かれて、争いが始まる。

1960年12月
南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)が、南ベトナムと交戦開始
*ベトコンは、南ベトナム政府に抵抗する組織で北ベトナムが支援した

1965年2月
アメリカ合衆国、北ベトナムに攻撃開始
アメリカ参戦で、枯葉剤やナパーム弾の使用、ゲリラ戦、民間人虐待など戦闘が激化(TVや映画でもよく題材になる)

開戦から13年が経った、1973年
アメリカ軍撤退(事実上のアメリカ敗戦)

1975年4月30日
南ベトナム首都サイゴン(現ホーチミン)陥落
北ベトナムがベトナム全土を制圧することで戦争終結。

 今回、「Last Days in Vietnam」というアメリカのドキュメンタリー番組を見てみました。南ベトナム首都サイゴンには、その最後まで、民間人含むたくさんのアメリカ関係者がまだ住んでいました。迫りくる北ベトナム軍に対し、市民に動揺を与えぬよう冷静に努めていました。

 そしていよいよ最後の24時間、民間人、政府関係者やベトナム人協力者とその家族等(約7000人)をヘリコプターによるピストン輸送で、沖合に停泊中のアメリカ空母まで避難させた、Frequent Window作戦。事前に通知してあった通り、ラジオから流れる暗号とそれに続くクリスマスソングを合図に、作戦が決行されました。

 サイゴン市民の中には異変に気付き船で脱出しようとする人、フェンスをよじ登ってアメリカ大使館に侵入し、救助を求めようとする人も多かったのです。

 日本語版が見つからなかったのは残念ですが、内容はとてもお勧めです。国が消滅した時に何が起こるのか。この後の話に繋がるのですが、社会的、政治的に行き場を無くした人々が大移動する。それは時間かけて、ゆっくりと進む。いつの戦争でも常に起こる終戦後の新たな悲劇、考えさせられるものがありました。

国外へ脱出

 サイゴン陥落でベトナム戦争は終結したものの、ここから”ベトナム移民”の歴史が始まります。統一されたベトナムが社会主義国であることや、その後に起こった中越戦争(中国vsベトナム)による民族対立もあり、主に中国系ベトナム人(華僑)や南ベトナム政府関係者の多くが、国外に亡命しました。

 オーストラリアでは、1976年4月(ベトナム戦争終結からちょうど一年)に初めて、漁船に乗ったボート難民が北部港町ダーウィンに着きました。これを皮切りに、1981年までに計56隻の船で2100人が上陸しています。

 そして、1990年代には漁船で難民として上陸した人の数を、正規の移住者としてオーストラリアに来る人が上回るようになり、現在では、オーストラリア国内で30万人(全人口2600万人)のベトナム系住民が暮らすまでになりました。

 受け入れ国オーストラリア側の視線に立てば、自分たちもベトナム戦争に参戦していた手前、道義的責任はありました。ただ長く白豪主義を貫いてきたこの国で、多くのベトナム系移民を受け入れるのは簡単な決断ではなく、社会に軋轢が生じるのは分かり切っていました。

 しかし、ちょうど時を同じくして70年代、オーストラリアはイギリス人を中心とした白人国家であるという国の根本的な方針を捨て去り、多民族多文化主義の国に生まれ変わろうとした矢先だったのです。

 ちなみに、以前の同僚に中国系ベトナム人のエンジニアがいて仲も良かったので、彼のお父さんの昔話を聞いてました。ある日、ボートでベトナムを脱出する誘いを受けたが、それは当日の夜すぐに決行する、ボートに乗れるのは後一人だけというものでした。色々悩んでる暇はありません。お父さんは直ぐに行く決断をし、結果的に東南アジアの難民収容所でしばらく過ごした後、オーストラリアに移って来たそうです。その数時間の決断で運命は大きく変わりました。

オーストラリア移民法の歴史

 1901年、オーストラリアは白豪主義”White Australian policy"と呼ばれる移民法を作りました。それ以前、国内にはゴールドラッシュ時代に来た中国人など、色々な国の労働者(日本人含む)が既にたくさん住んでいました。しかし、人種偏見に加え、彼ら出稼ぎ労働者が低賃金でよく働くので、現地イギリス系住民の仕事を奪うことになり社会問題化しました。

 そこで、”新しく移住して来て良いのはイギリス系だけ”、”既にいる出稼ぎ労働者たちは国外に追放できる”という法律を作りました。グローバル化の反動で、その後保護主義に走るというのは、今も昔も変わっていないのが興味深いですね。

 そしてこの時はまだ、British(イギリス系)とEuropean(その他ヨーロッパ民族)には明確な区別がありました。英語のテストを行って”British”を選り好み、”European”の人数を制限していたんです。

 しかしながら、1940年代に自国領土が太平洋戦争に巻き込まれると、大きな国土と少ない人口というその脆弱性に危機感を持ち、人口増加策に乗り出しました。ここで大きな方針転換を決め、その後、移民制度がゆっくりと緩和され続けます。前記事、”サッカーで解き明かす、オーストラリア移民の歴史”では、1940‐50年代に”European”への大幅な移民緩和があった時代の話です。

 それでも、British、European以外にはまだまだ狭き門だったのが、1973年になると白豪主義”White Australian policy"を完全に撤廃し、今度は多文化主義”Multiculturalism"を標榜することになりました。

 この頃、日本からの投資が増え経済的に関係が深まり、将来を考えればアジア諸国とは切り離せない関係に成りつつありました。また本国イギリスがEUに加盟し、オーストラリアにとって、今までとは違う枠組みが必要でした。

 建国当初は人種差別が国の基本的な方針とも言えた国が、70年後にはその方針が180度逆を向いていた。大きく見れば、イギリスの植民地として出発したオーストラリアが、その時代に合わせ移民法を柔軟に変更し、国の存続をかけ成長を目指した中で、多文化主義にたどり着いた。という見方もできます。

 そして、ベトナム移民の話に戻れば、人道的観点から難民の受け入れが始まり、ちょうどオーストラリアが多文化主義へと方向転換するタイミングとも運よく重なった。その結果、今では30万人近い人が暮らし、リトルベトナム、リトルサイゴンといった街が大都市を中心として出来上がっています

前編まとめ

 たくさんのベトナム人がオーストラリアに移住してきた歴史的経緯を振り返ってみました。後編では、メルボルンのリトルサイゴンと呼ばれる街に注目し、彼らのその後に迫ります。
 ちなみに、ベトナム人にとても多い”Nguyen”という苗字は、数年後には”Smith”を抜いてオーストラリアで最も多い苗字になるようです。

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