夢の中にひと死にやすく-小島なお『展開図』歌集評-

 小島なおの第三歌集が出た。繊細で鋭敏な感性が光る一冊だ。

六月の空は巨大な銀ボウルきろりきろりと胎児が浮かぶ
思うひとなければ雪はこんなにも空のとおくを見せて降るんだ

 小島の作品の魅力のひとつは、その表現力だ。一首をとっても連作で読んでも低調なところのないアベレージの高さに驚かされる。一首目、「六月の空」「銀ボウル」「胎児」という飛躍、「きろりきろり」という独特でありながら回転する胎児のビジョンまで見えてくるオノマトペ、「巨大」「銀」「きろり」と頭韻をゆるく生み出す音感、妹の妊娠というテーマで前後の歌と響き合う構成など、実に巧みだ。二首目「こんなにも」には、雪空を読者に幻視させる力がある。「とおくの空」ではなく「空のとおく」とする抽象化も作品に普遍性を与え、スケールが大きい一首だ。
 しかし、もちろん技巧だけではない。小島は、自身の心の底に常に注意を払いつつ、その心を表現するための言葉を磨き上げたのだろう。芯となる人生観には厚みがある。ゆえに、長打やホームランも多い。

眠る身に渡り廊下がひとつあり私ばかりが通るのだった
ジーンズがほそく象る妹の脚のあいだを日々が行き来す

 一首目「私ばかりが通るのだった」には孤独の実感がある。二首目、「脚のあいだを日々が行き来す」という表現によって心と景が最短距離で結びつく。心中の時間感覚が鮮度を保ったまま読者の芯に届けられる、飛距離の大きな一首だ。

開(ひら)けばそこに過去の自分がいるようでエレベーターに吸われゆくなり

 小島の人生観・時間感覚が特徴的に現れるのが、〈記憶〉を詠んだ歌である。失われ戻らない時間の〈記憶〉、なかでも青春の〈記憶〉が、小島の作品では具体的な形を取ることが多い。一首、エレベーターの扉の向こうにかつての自分の姿を見ようとする。小島にとって〈記憶〉は、現在の自分から離れ、具体的な形を取って現れるものなのだ。

肉体は空想にこそ宿るのに奥行きもちてきみが待ちおり
泣くたびに体が太る感覚のむかしの夏はやさしかったな


 これらの作品でも、観念的な時間・過去・記憶、といったテーマが強い実感を伴って表現される。身体のリアリティが抜群だ。一首目、小島にとって肉体は、逆説的だが「空想」の中で純化されたときにリアリティを持つのだろう。だからこそ、今目の前に存在する誰かの「奥行き」の新鮮さに感動が生まれる。逆接「のに」に見られるかすかなためらいが、読者の身体感覚にはたらきかける。二首目、「体が太る感覚」という表現の的確さに驚かされる。斬新でありながら、内側から湧き来る身体感覚を、理屈を超えて納得させられる。遠い記憶の中の身体感覚を呼び起こす一首だ。
 そして、このリアリティの底には〈死〉が横たわる。

息とめる遊びもいつか遠くなり山茶花はあかい落下の途中
骨となる猫を撫でつつ骨となる私悲しくなってしまって
夢の中にひと死にやすく目覚めてはさむく光れる歯を磨きおり

 はっとさせられる一首目。幼時の記憶にはどこかに死の影がある。小島はそれを「死」という語ではなく、多くの子供がやったであろう「息とめる遊び」に託すことで、生死の境に立つ実感自体を読者に感得させ、胸を衝くような感慨を生む。二首目、眼前の景に死のイメージが重なる。「なってしまって」という結句も巧みで、大きなテーマを詠む際に陥りがちな〈真理の押しつけがましさ〉を免れ、実感だけを強める。三首目、〈夢〉という内面世界は、小島にとって「死者と会える」場所ではなく「人が死ぬ」場所なのだ。〈夢〉のあり方として通念に反しつつも、人間存在の大きなテーマである〈死〉が、純化されて現れる場が〈夢〉というのは、どこか深いところで納得させられる。
 〈夢―記憶―死〉という内面のリアリティを小島は深く見つめ、そのリアリティを表現するための技巧を磨いてきたのだろう。その研鑽の上に、どのページを開いても魅力あふれる傑作が生まれた。

文・三沢左右

歌誌「COCOON」vol.17(同人歌集評)2020.9 より転載

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