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リベラルなふりはいけません~それは痴漢につながる道~

 前回「家事に以心伝心はありません」を書いあと、アップする前にオット氏に記事を見せて「異論反論はございませんか?」と一応尋ねた。「ないです。」とオット氏。でもこんな気になることを言った。 

「妻に対しても、同じこと思う時あるんだけどね。もうー、こうしといてくれたらいいのにー、とか。でもすぐ忘れちゃうんだよねー。」 

「あとさー、洗濯物臭くても気にならないんだよね。」 

 万年上機嫌の秘訣は、「気にしない」「すぐに忘れる・尾をひかない」にあるのかもしれない、と心から思うのだった。もう、クサイTシャツ着といてください。 

 ・・・と言えるくらいこちらも大らかだったらいいのだけれども、「そんなクサイのんタンスにしまいたくないわ!」とか「近寄らんといて」とか、またプリプリしちゃうんだなぁ。おやかんが小さくて、スミマセン。 

  さて。 

 普通にリベラルな家庭でも時として修羅場の様相を呈する家事の運営だが、これが「家事は女性がすべき」なんていう保守的な思想が絡んできたら、どんだけややこしいんだろう?と思ってしまう。今はそんな意見をふんぞり返って言えるご時世でもないが、言わないだけで深ーく内面化している人はまだまだたくさんいるんだろうなぁ・・と思う。実のところ私はそういう「リベラルなふりした、隠れ保守」のおじさんがとても苦手である。いや、別におじさんだけじゃなくておばさんでもそういう人はいるし、若い人たちにだって散見されるような気もする。でも私の経験に限定して確率をはじきだすと、「リベラルなふりした、隠れ保守」にはおじさんが多い。 

 女性蔑視がNGだなんていうことは当たり前だと思うのだが、リベラルなオット氏の目にも私の反応は過敏にうつるらしい。隠れ保守なおじさんと一緒に話をしている時に、「あぁっ!!うちの妻みたいな人にそんなこと言って・・」とヒヤヒヤしていることも多いそうだ。まぁ帰ってきてから、「あのおっさんは!!」とプリプリされるのはオット氏だし、その場で私が笑顔で逆襲するんじゃないかとハラハラもするんだろう。「それくらいは許してあげて~。悪気はないんだから。」となぜかオットにお願いされることもある。悪気がないなんて当然である。悪気があったら、それは犯罪だろう。悪気がなかろうが、言ったりやったりしてはいけないことがあるでしょ。なんだかこんなことを言うと、まるで私がすごいフェミニストであるかのような誤解を受けそうだけれども、私自身は自分をフェミニストだとは思っていない。大学の授業で「家事には値段をつけるべき」なんて主張する過激なフェミニストの先生がおられたが、「こわっ!」「平等をはき違えているんぢゃ・・?」と思って以来、あんまり近寄りたくないなと敬遠してきた。ではどういうことに私は腹をたてるのだろう?

 たとえば、地域の行事や会議など何でもいい。そういう場で女性が「まずは男の人から。」とお茶を出すことを求められるのは、なかなか許容しがたい。みんな同じ立場で集まっているのに、なぜわざわざ「男性」「女性」と切り分けなくてはならないのか、全く意味が分からないのだ。お茶くみをしたくない、などと言っているのではない。むしろみんなの労をねぎらって、お茶をいれる役割を担うことになんら異論はない。でもなぜ「男性」を優先しないといけないのか、それもその役割を「女性」がしなくてはならないのか。そうやって従来うまくまわっているんだから、目くじらたてるなよ、という意見もあるかもしれない。でもそんなものは「うまくまわって」なんかないのである。本来はフラットであるはずの関係性に序列を持ち込まないとまわらないような、機能不全の場なのだ。 

 そう、「リベラルなふりした、保守のおじさん」は、フラットな関係性への耐性がないんだと思う。というより、そもそも「フラットな関係性」というものの在り方を理解できないのではないだろうか。「男女平等」ということが言われるようになって、「ポリコレ的に、アウトな振る舞い、OKな振る舞い」を学習しているので「リベラルなふり」はできる。しかし「対等な立場で相手を尊重し、意見をかわしたり協力する」なんて、異次元の出来事、なんじゃないかな。「対等だ。自由に意見を言い合おう。」と言いつつ、気に入らない意見は内心「オレさまに生意気なこと言うな。」とムっとしている、というのが実情なんだろうと思う。私も「自由に意見を言っていいよ」と言われると、「それじゃ!」と喜んでぺらぺらしゃべってしまうのだが、あとからひどい弾圧を受けたことは一度や二度ではない。そんなダブルバインド勘弁して欲しいよな、と思う。だから正直なところリベラルなふりをしているおじさんは、トランプ大統領のようにあからさまなマウンティングをしているおじさんよりも、質が悪いんじゃないかと思ったりしている。マークして警戒できないから。 

 いずれにしても要するに私は、フェミニズムの「女性の権利擁護」だけにとどまらず、男性・女性・性的マイノリティという区別を超えて、ひとが自由に表現できることであったり、ひととして等しく尊重される・することを求めたいのだと思う。「女性が男性にお茶をいれる」というのは、本当に小さな、ささいなことかもしれない。でもそれは小さいながらも、れっきとした「序列(差別)」の構造なのだ。これがもっと大きな序列(差別)の構造を生み出したり、下支えする形で加担することを、決して忘れてはならないと思う。

  最近この思いを強くしたのだが、それは斎藤章佳さんの「男が痴漢になる理由」を読んだからでもある。性犯罪の加害者の治療プログラムに長年携わってこられた精神保健福祉士・社会福祉士の斎藤さんは、痴漢の原因は性欲にあるのではなく、男性の支配欲がその基盤にある依存症だと論じている。性犯罪とは男性が「性」を使うことで女性を支配するものであり、21世紀にもなって男尊女卑の考え方が根強く残っている日本社会の産物であると。そうした実態を見誤っているうちは痴漢が減らないとして、痴漢の実像をデータに基づきながら見事に描き出している。 

 だからやっぱり、リベラルなふりなんかしちゃいけないんだ。男女平等ですよね~、女性を尊重してますよ~という空気だけ醸成して、一方で女性が男性にお茶をいれてちゃいけない。なぜならその振る舞いは、「男女平等」を建前にしてしまうことを意味するから。「結局男女平等なんて建前じゃん」は、いくつかのステップを経れば女性を支配する犯罪につながり、またそれを正当化しうる。「まぁここは女のひとが気をきかせて、男のひとにお茶をいれてあげるのが無難だわね」は、大げさなようだけれども、痴漢に道を作るのである。 

 フラットな関係でお互いを尊重しながら気持ちよく仕事をするというのは、確かに難しい。まずどうしていいか分からず、気まずいものかもしれない。でもその気まずさに耐え、お互いから「どうしたらいいのか」を学んでいくしかないと思う。そうするうちに、男女や年齢など関係なく手のあいた人から「おつかれさま!」とみんなでお茶を用意する文化が作られていくんじゃないかな、と思うがどうだろう。 

 男だろうと女だろうと、それぞれが互いに配慮しながらやっていくうえで、気苦労も多いその「他者を気遣う」というしごとを免除される特権的な立場なんか、本当はないのだ。 

 斎藤章佳, 男が痴漢になる理由, イーストプレス, 2017. 

※ ここでいう「リベラル」とは政治的思想のことではなく、伝統的な価値感や社会制度に縛られない、という程度の意味で使っている。ジェンダーの観点からいえば、家父長制度的家族観・女性蔑視的態度をとらない人あるいは態度を「リベラル」と表現した。よって「リベラルなふりした、隠れ保守」という言葉は、一見男女平等を謳っているようであっても、女性蔑視的であったり男性優位の序列を好む人、という意味で使っている。

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