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「地図が読めない」状況を記述する

 私は方向音痴である。
 それも、年々ひどくなる。
 加齢により弱いところがどんどん弱くなっているのか、地図を読むことを諦めてgoogle mapの言いなりになっているから廃用性症候群(使わない力は衰える)になっているのかは分からない。いずれにしても、地図を「読もう」とすると、「きーーー!!」となる、その強度?が明らかにアップしているのを感じる。先日もムスメとサンシャイン水族館へ行ったのだが、google mapのGPS機能がうまく作動しておらず、サンシャインシティ館内から(目的方向へと)脱出するのに30分もの時間が費やされた。「自分がどこにいるのか分からない!」と半ばパニック、館内案内のお姉さんにgoogle mapを見せて「この地図の中で、私はどこにいますか?」と聞く始末・・・それなのに、それなのに、お姉さんは冷酷にもご自身の手元の地図を私に見せて、「今ここなので・・」と説明をし始める。お姉さんはひとつも悪くないのに、お姉さんに「ふざけんな!」と悪態をつきたくなるくらいに私の人格が崩壊しかける。だって、私は今必死で手元のgoogle mapの意味をつかもうともがいているのですよ?それなのに(別の地図という)新しいシステムで理解せよと?またゼロから苦労しなくちゃいけないなんて、残酷すぎます・・・

 たかが地図でこの大騒動。地図が読める人にとっては、地図が読めないってどういうことだろう?と不可解に違いない。私も、地図を読める人がどうやって地図を読んでいるのかサッパリ分からない。そもそも方向感覚とか地図を読む能力というのは、どういう能力の組み合わせ(あるいは協調運動)なのだろう。車庫入れがヘタとか、運転がニガテとか、メンタルローテーションができないとか、反転して模倣することができないとか、寄り目ができないとか、私の弱いトコロががっつり関わっているような気がしてしまうのだが。まぁそれはさておき、まずは私の「地図を読めない」状況を記述しようと思う。

 私は今、京都市内の北区に梟文庫(★部分)を構えている。ここから、四条堀川(南:●部分)へ行きたいとしよう。そうして地図を見る。すると真っ先にやってくるのは、「違和感」なのである。それを言語化すると、「なんで堀川通りが左側にあるの?」・・・気分的にはウンウン唸って、地図をさかさまにすると「あっ。堀川通りが右にきた。わかった、分かった。」脳内一致感がようやくやってきて、ほっとする。でもネット上の地図はさかさまにできないので、プリントアウトしないといけない。面倒くさいのである。Google mapもスマホの設定を画面固定にしないと、くるっくる回って混乱してしまう。

 おそらく地図が読める人は、「右とか左とか関係ないじゃん!」と思うだろう。でもどういうわけか、その時私にとって堀川通りは私の右にあるし、川端通りは左にあるのだ。そうではない地図を見ると、違和感が強すぎて「きーーー!」となる。脳内不一致感が半端ないのだ。

 しかしこれが逆に、四条堀川から梟文庫へ帰るとしよう。この時堀川通りは左で全く問題がないし、そのことに違和感はない。自分がいる場所より北へ行くときには、脳内不一致感がおきないのだ。地図は常に北向きに表示されているので、さかさまにする必要がないからだろう。残念ながら私は京都市の北のほうに住んでいるので南下することが多く、地図を前に「きーーー!」となる状況が頻発する。

 ところが最近ついに秘策を思いついたのだ!自分がいるところよりも南へ行きたいとき、「私は今京都駅にいる」と思うことにしたのだ。京都駅は私の行動範囲の中で南の最果てなので、ここから地図を眺めている「ことにする」。するとあら不思議!地図を見たときの違和感が軽減されるのだ。でもこれ、地図を自然に読んでいるのではなくて、なんだろう?力業で脳内不一致感を解消しているだけにすぎないような。それに京都以外の場所にいる時には、どこに自分の分身を飛ばしていいのか分からない。応用がききにくい方法である。

 Google mapもあるので、現実的には地図が読めなくてもそうそう困らない。親切な人をかぎ分ける能力が高いので、道行く人に尋ねながらでも目的地にたどりつく。しかし何がツライって、目的地を地図で確認したときの、あの脳内不一致感なのだ。「堀川通は右にあるはず」という自分でも意味不明かつ強固な思い込み・イメージと、目の前にある地図とが一致しない苦しさ。どういうわけか、焦ってくるのである。なんでなんで?なんでなんで?ちがう、ちがうんだよーー!!言葉にするとこんな感じだろうか。でも実際には言葉もない、ただ焦燥感みたいなものがあるだけだ。

 自分のいる場所、自分の生活をベースに作り上げられた仮想の空間と、「常に北」を向いている客観的情報である地図との照合に失敗している、というのが私の「地図が読めない状況」のようだ。しかしその仮想空間がどのように作られているのかは、いまだにはっきりしない。今自分がいる場所のみの場合もあれば、もうちょっと広い生活圏に広がっている場合もある気がする。そう考えると、私の仮想空間はその時々によって、伸びたり縮んだりもしているのだろう。ただその仮想空間が広がろうが、「そこからしか」見ることができない・・・言い換えれば、視点が「そこ」に固着してしまって自由を欠いていることが問題になるのだ。「そこ」をすっと離れて、目の前にある地図を読むのに最適なポジションへ視点を移動させることが出来れば問題にはならない。しかしそうすることが自然にはできないから、「私は最南端にいるのだ」と思いこんで無理やり視点を移動させ、現実の地図との一致をはかっている。要するに、視点の移動に意識を介在させているのだと言える。

 ここまで書いてきて、「私、地図に関しては答え合わせでも四苦八苦しているじゃないか!」ということに気づき、〇×判定にそれほど認知的負荷はないなどと前回言ってしまったことに対して非常に後悔をし始めている。「自分とは異なる視点」で描かれた地図と、「自分の視点」からみた地図(仮想的空間)を並べて比較できるまでにするのに、相当な負荷をかけていることが分かった。そう、まず「それら(目的地を示している地図)は同じものである」と同定するまでにも時間がかかってしまうのだ!これが、たった一つの解答だけではなく、「この視点からはこんな風景が見えるよ」「このポイント(ランドマークとか)を強調して別の地図を作ってみました」「現在工事中で、通行可能な道は変化します」なんていうものが提示されようものならパニックである。いらんねん、そんな情報いらんねん・・とうなされそうだ。正直に言って、実際のところどんな地図も私には要らない。「私のこの仮想空間はそのままにしておきたい」「この仮想空間の中で、どうやったら目的地にたどりつけるかだけ教えてくれりゃそれでいい」というのが、情けないことに本音である。「あなたのいるところから、一筋目を右にまがって直進するのだよ」と教えてもらえるのが、一番ありがたい。そうすれば、自分の意思に反するほどに強固な仮想空間をいじることもなく、かつ地図と照合する手間も省けて、目的地に着くことができる。なぜそれほど仮想空間にこだわるのだろう?いや、本人としては「こだわっている」つもりはない、というところがまた厄介でさえある。「こだわる」なんて主体的で能動的な感覚とはかけ離れていて、自分の意思ではなかなか変えることができずにそれに渋々従うしかないというような状況である。そこを無理になんとかしようと四苦八苦するくらいなら、「自分なりにベストなルート」を選択する主体性なんて手離していいとさえ思う。他人のアドバイスがちょっとくらい的外れで遠回りさせられたって、「辿りつきゃいいじゃないか」とおおらかでいられる。それくらい地図を読むことは「出来れば回避したいこと」なのだ、大げさじゃなく。(※1)

 これと同じようなことが、コミュニケーション場面で起こっている人々がいるのではないだろうかと私は考えている。「気まずい」について考えた前回のシリーズでも取り上げたこととかぶるが、自分の視点から、相手の意見や考えについて検討するために最適なポジションへと移動することがスムーズにできず、自分の意見と他者の意見を照合することに失敗したり、ものすごく苦労したりしてしまうことがあるのではないだろうか。地図と言語はまた別のシステムなので全く同一のものとして扱うことはできないが、話(対話)をしていても「折り合う」ということが目指されずに、「相手の意見に同調する」か、「自分の意見に固執するか」の二択になる場合、対話相手に(両者の意見の)照合の負荷をかけているかもしれない可能性について一考してみる価値はあるだろうと思う。自戒をこめて・・・というよりは、ほとんど自分に向かって語っているようなものだけれども。

※1
それなのにオット氏は私に、「ちょっと地図で確認して」とか簡単に言ってくれるのである。「それがどれだけ大変か」を私にギャーギャー言われることの意味のほうが、きっと分からないだろうなと気の毒に思うのだけれども、私も必死なのだ。さて些細なことなのに地図を読むのと同程度に「ぎゃー!」となる作業がいくつかある。

<その1>
折り紙や縫物などの手作業をうつした動画のうち、作業している人の視点からではなく、正面から撮影した動画は大嫌いである。どうしても理解できず、ノートパソコンの画面を自分とは反対に向けて、ノートパソコンと並んで横目でチラチラ見ながら作業している奇妙な私の姿に、オット氏は驚愕していた。苦肉の策なんですけどね。

<その2>
本当に馬鹿馬鹿しいことなのだけれども、コピーが苦手である。A4の原本を2枚つなげてA3にする、という状況がつらい。どっちを右にして、どっちを左にしてコピーしたらいいのか分からない。そして考えてやってるのに、大概間違える。これも考えたくないので、「とりあえず闇雲に、成功するまでやってみる」のが一番楽。

<その3>
最近小学校高学年のムスメの算数をみていて、自分がいかに算数というものに親しんでいないかということに気づかされた。受験をくぐりぬけていくために「やり方を暗記」していただけで、算数の中のいくつかの大事な概念がまるで理解できていない。とりわけダメなのは「単位」。自然に理解できている人に比べて、はるかに多くの(おそらく無駄かつ奇妙な我流の)ステップを経て答えを導きだしているような気がする。それから「1より小さい数で割る」ということの意味もナチュラルには分からない。何度も同じことを考えて、同じ結論に至りはするが、しばらくすると「どういうことだ?」という疑問が浮かんでまたゼロから考え直しである。身につかない。ぐるぐる思考になるので、これもできれば考えたくないことの一つ。「そのことを理解するための構造が自分にはごっそりないのではないか」とさえ思う。何かで無理やり代用して理解しているから、身につくもなにも、ねぇ・・・という感じ。

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