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パレスチナの台所から③〜サロンで囲む大鍋ごはんとコカコーラ

難民とは、もともと住んでいた土地を追われて別の土地で暮らす人々(とその子孫)のことをいう。だからもともとこのあたり(ヨルダン川西岸地区)に住んでいたパレスチナ人の家族は、難民ではない。難民キャンプには住めないし住む必要もない。子どもはUNRWAの無償教育を受ける権利を持たず公私立の学校にお金を払って通う。

ネイヴィンさん一家も、非難民の家族だ。両親ともに、この地域の生まれ。9歳までパレスチナで育ったネイヴィンは、両親とともにアメリカに渡り、その後ロンドンやパリで政治科学を学んだ後、3年前に30歳手前でパレスチナの地に戻ってきた。

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料理を担うのは、ネイヴィンのお母さん

帰ってきた理由をお父さんは「子どもたちにルーツを見せたかったんだ」と語る。政治的に不安定さや困難を抱えていても、やっぱりアイデンティティはここにある。将来出ていくことになろうとも、ルーツを知ることは大事だと彼は考える。アメリカほどの自由はなくとも、オリーブの木に囲まれ、自家製オリーブオイルとオリーブ漬けがある暮らしを楽しんでいる。

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地下の倉庫に並ぶ自家製オリーブと保存食

アメリカ暮らしが長かった一家は、比較的裕福な方だ。今も家族がアメリカとサウジアラビアで働き送金してくれている。少年とおにごっこしていて台所から飛び出したら、そこは途方もなく広いサロンだった。

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この近所にはこれよりさらに大きなお屋敷が立ち並んでいて、「パレスチナ=難民=貧しい」という思い込みがガラガラと音を立てて崩れていく。

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みんながそろう金曜ランチはサロンにて

金曜日のランチは、ムスリムの一家にとって大切な食事。一家が必ず集まる週一度のタイミングだから、ちょっと手のかかる大鍋料理が定番だ。

この日のランチは”マクルーバ”。揚げ野菜と鶏肉と米を層状に重ねてひっくり返す、豪快な炊き込みご飯だ。

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広々とした台所、そこかしこの棚から便利な調理器具や輸入食材が出てくる。料理をするお母さんの傍らでは、2人の孫たちがiPadとおもちゃで遊んでいる。トラックの背中に生クリームを入れて怒られたりして、無邪気でなつっこくてかわいい。

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「スパイスはよろしくね」とお母さん。味付けをするのは、次女(ネイヴィンの妹)の役目と決まっている。母いわく「彼女は料理をおいしくするプロなのよ!」。

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出来上がったマクルーバはサロンに運び、大きなテーブルを囲んだら、立ち上る湯気に飛び込むようにしてみんなで食べる。

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「長年アメリカに住んでいたのにどうしてパレスチナ料理を作れるかって?当たり前じゃない、私はパレスチナの女だもの」とお母さんは笑う。でもその脇にはしっかりコカコーラが座っているから、食ってアイデンティティなんだなとふと思う。

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家の外のきびしさ

昼食後。ラマッラの街に行こうとするが、チェックポイント(検問)を通らなければならない。イスラエル兵が常駐し、移動の自由を制限する。チェックポイントの脇の「この先パレスチナ危険」を知らせる真っ赤な警告看板が目を引く。イスラエルが立てたものだ。

「危険なんてありはしないのに。本当に忌まわしい。イスラエル人はパレスチナ人を対等な人間として認めようとしないんだ。」こんなのを毎日目にしていたら、憎しみや隔たりは、増幅されざるを得ない。

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やはりやってくる暗闇の夕飯時

帰ると電気が消えていた。「パレスチナの発電所はイスラエル側にあって、不具合が直しにいけないから最近時々停電があるんだ」とのこと。停電の理由も色々あるようだ。

ところでイスラエルに握られているのは、電気だけではない。イスラエル領に取り囲まれ空港も持たないパレスチナは、物資も燃料もイスラエルを通らないと持ち込めない。高い関税が課され、スーパーに行くと日本並みの品揃えがあるのだけれど、値段も日本並みなのには驚いた。

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暗闇の中、夕飯を食べる。パンにオリーブに生野菜。懐中電灯の明かりの中で静かに食べながら、豊かであってもそうでなくても、どんな家庭にもやっぱり停電はやってくるんだなあとぼんやり考えた。

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帰路にて思う

パレスチナ。

三者三様の暮らしがあった。ひとくくりにしていたものが想像以上に多様だということがわかったものの、だから何なのかどうしたらいいのかと言われたらまだよくわからない。ただ一つ言えるのは、「日本人だから」「パレスチナ人だから」とか決めつけず、一人ひとりのストーリーと気持ちに向き合いたいということ。


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