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私の冴えないストーリー

はじめまして。みさきです。

平成で一番人気の女の子の名前が「美咲」らしい。

昔はこの名前が好きじゃなかった。

「美しく咲く」なんて美しくもない

自分に不釣り合いだし、恥ずかしい。

と名前すらも否定してた。

すごくネガティブで努力して

下に下に自分を追い詰めるのが得意だった。

でも今はこの名前が大好きだし、

「美しく咲く」って意味も

未来に向けて歩み続ける前向きで可能性の詰まった

素晴らしい名前だと思えるようになった。


一歩一歩小さな歩幅だけど確実に歩いて来られた

その経緯を少し綴ってみる。

私にはこれといって

大きな挫折も壮絶な体験もないけど、

地味にずっと自分と向き合い続けた27年。

お暇な人、興味を持ってくださった人、

是非お付き合いください。

*無駄に長いので要注意です。5分程度で読めるはず


可愛くない小学生


昔から達観しがちの可愛くない子供だった。

小学生くらいからか、妙に冷めていて

(小学生男女が付き合う付き合わないなど、何を言ってるのか?小学生は小学生らしく公園で駆け回っとけばいいのに。)

こんな頑固オヤジのような感覚があった。

今思えば私の方がよっぽど不自然な小学生…笑

地元の小学生のレベルが低すぎると思っていた(偉そう…笑)

中学〜高校(懲役6年の部活時代)


姉と一緒の中高大一貫の女子校に受験し入学した。

地元がバカなんだと思っていた(本当に失礼)

地元を離れたらもっと話の合う

精神レベルの高い友達に出会えると信じてた。

しかし、どこに行っても同じだった。


いじめはあるし、訳の分からないカーストまである。

この子と一緒にいたらイケてるとか、陽キャとか陰キャとか…

全てがどうでも良いことばかりで、呆れ果てていた。

地元がバカなのではなく

中学生はこんなものなのかと全てを諦め、

その環境にストレスのない程度に馴染んだ。

来るもの拒まず去る者は追わずで、
行き帰りは誘われたらその人と一緒に帰る。

1人でも平気で常に自分の心と対話していた。

そんな風に1人で群れずに生きてきた。

とはいえ面倒な敵をつくったりもせず、

ただ目の前の人の価値観をそれも一理あるね、と受け入れて生きてきた。

いじめられた子に「一緒にお弁当食べていい?」

と言われるようなことが毎年起こっていた。

どうやら私は駆け込み寺なのだと悟った。

しかも喜ばしいことに、私の駆け込み寺で療養すると、

みんな元気になりグループに戻って行った。

*この駆け込み寺ポジションは大学まで続いた。

部活はマーチングバンド部で全国大会に毎年出場するような強豪校に入部。

猫背だった私は姿勢を良くしたいという軽い思いで入部した。

しかしこれは結構地獄だった。

ここで中高6年間の全てを捧げることとなる。

この6年間の収穫は

「人間の多様性を面白がれる自分」に気づいたことだ。

顧問が厳しく半ば宗教のような雰囲気で、

辞めるにも親と顧問とで話し合いが必要で、

全員の前で謝罪しなければいけない。

やめる気力が当時の私には無かったから

ひたすらに卒業の瞬間を待ち続けた。

何せ目立ちたがり屋の女子の集まり。

つまらないカーストもしっかり存在していた。

うんざりしながら熱中できない6年間を過ごした。

とはいえ人望だけはあった。

多分嫉妬されるような華もなければ、

承認欲求も少ない私は、良くも悪くも目立たなかった。

満場一致で、毎年副学年リーダーに選ばれ続けたのは少しの自信となった。

この達観力から自然とメンバーの多様性を認める事が出来て、

とことん誰にでも平等な姿勢が評価されたのだと思う。

今思うことは、当時のカーストにも動じず

ただ目の前の人と1対1で真剣に向き合った自分を褒めてやりたい。


6年間、誰にどう見られるより、

自分の行動が好きか嫌いかだけを考え、

自分の事を好きでいられる選択をし続けた。

気がつけば周りに認められていた。

苦手な場所で自分を貫き通した自分を褒めてやりたい。

大学(特に何もしなかった4年間)


本当は職人とかクリエイティブな方面に興味があったけれど、

部活で手一杯で自分に向き合えていなかった私には

これといったやりたいこともなく、

専門学校という選択は出来なかった。

中高大一貫校という莫大な投資をしてくれた両親の気持ちも無駄に出来ないと思った。

そして夢の大学生活。

これといって何もしなかった。 

ただ、年齢を重ねるに比例して、 友達と話が合うようになってきていた。

私は大学でようやくバカになれる友達を見つけた。

ある程度自己形成がされた大人がふざけるのってこんなに楽しいのか…
と感じたことを覚えている。

就活(スーツを着ない意地だけは一丁前)


面接に行った会社は3社。

スーツが着たくなくて私服選考の会社だけを気分で受けていた。

4年生の10月になっても何もしていなかったが、 

焦りは不思議と無かった。

このまま就活しなければ、

どこか違うレールの人生に半強制的に行くことが出来るかもしれない。

妙なワクワク感を感じ、そこに行くことを望んでいた。

そんな時、「お願いだから説明会だけでも行って」と母に泣かれた。

私も泣いて抵抗したが(この時は嫌で仕方なかった笑)

やっぱり罪悪感が大きくなり、1社説明会に行ったところでトントンと進み内定が出た。


やっぱりこんな自分でも不安があったのだろう、

内定を貰えた時はちょっとした安心感もあった。

しかし、またこうしてレールに戻されてしまうんだな、というどこか諦めに近い脱力感も同時に感じた。

新社会人1社目(絶望期)


注意力散漫で奇跡的なハプニングを起こす私は、

社会人になる自信が無かった。

それでも内定が出てしまった。

ちょうど初めて出来た恋人と別れたこともあり、 

心機一転生活する場所を変えたいと思い、

地元を離れ、全国転勤の営業職に就いた。

単価の低い機械工学専門商社で、

調整業務がメインだった。

ポカミスも多く、鈍臭い私にこの営業職は合わなかった。

この辺りからADHD(大人の発達障害)を疑うようになった。

また、会社はまぁまぁ業界内では有名、

福利厚生も手厚くて規模も大きかった。

しかし、「会社の優秀さ=自分の価値」

と勘違いしている先輩社員や同期が多いように感じてしまい、すごく冷めてしまった。

小学生頃に感じた違和感に似ていた。

家と会社の往復で、苦手な価値観の人達と

苦手な調整業務をしている生活が辛くなった。

小さな違和感はやがて大きくなり

何故朝起きなきゃ行けないの?

何で生きてるの?

と存在理由を永遠に考えるほどまでに重症化していた。

大学時代から自分で発信する側に憧れながらも

特にこれといった成功体験のない私には夢のような世界で踏み出せずにいた。

当時は社用車でひたすら自己啓発系のYouTubeを流していた。

苦しくて仕方なかった私は、

大学時代に熱中した陶芸のことを思い出し、

陶芸家になるべく会社を辞めた。

会社をやめた時、自分の人生のハンドルを初めて握ったきがした。

グルっと方向転換!!

退職は案外あっさりと出来た。


ニート期(ひたすらに自分と向き合う)

陶芸家になると言って辞めたから

意気揚々と陶芸の先生に会いに行き、

弟子にしてくれと直談判した。

「弟子はとってないねん、教室に習いに来て頂戴」

決死の覚悟も呆気なく、先生の穏やかな声が私を現実の世界に引き戻した。

それもそうか。

弟子をとるなんて、今時あまり無いのは理解できた。

陶芸をするには働かなきゃいかん。

何をするにもお金が必要だ。


それからしばらくニート生活が続いた。

世の中のどこにも属していないことに開放感を覚えると思いきや、

1週間もすると不安や孤独感が押し寄せた。

”人って1人じゃ生きていけない弱い生き物なんだ”

根源的な欲求に気づいたのもこの時。

私も案外人と繋がりたかったのだ。

全国転勤の会社を辞めて、

関西に帰ってきて、3ヶ月くらい友達とルームシェアをしていた。

友達は仕事に行くので、家の中で独り。

社会ともなんの繋がりもない私が、 薄暗い部屋にたった独り。

初めて味わった物凄い孤独感だった。

この孤独感とも向き合い続け嫌という程、自己分析もした。

生きる意味とか、お金の正体とか、

そもそもなんで人は生まれるのか?

子供を生むって親のエゴじゃないの?とか

考えれば考えるほど暗くなった。

「無出生主義」などという言葉にも出会った。

ふと、良くも悪くも何も考えず

その時の状況の反射だけで生きている人のことを考えた

私は考えて努力してネガティブになっている

考えて何も生み出さず死にたくなったり

一体何をしているのだろう?

よっぽど何も考えず単純に生きている人のほうが幸せなんじゃないか?

こんなに消耗して思考を巡らしている自分がバカバカしく感じた。


この圧倒的ネガティブになるくらいの思考力があるのであれば、

プラスに捉えることも出来るのではないか?

単純な人には敵わないと思ったけど、

私の思考力があれば、その人より幸せになれると確信した。

自分の思考力を豊かにしていく方向に使いたい。

そう決意して、 沢山の言葉に出会った。

ここからは洗脳だった。

ひたすら自分の心地よい言葉を探し 1冊のノートに書き溜めた。

自分を褒めまくった。

気がついた時には行動していた。

転職活動も自分が1番合う会社に巡り会うまで妥協しなかった。

そして奇跡的に出会ったのが今の会社だ。


現在(初めて輝ける場所に辿り着く)


大阪支社立ち上げメンバー。

10名ほどの転職エージェントで、上司がかなり自由にさせてくれたお陰でのびのびと仕事をさせて頂いている。

沢山の人の転職に立ち会い、

成績も出てきて初めて自分の活躍出来るフィールドを見つけたと楽しくて仕方の無い2年間。

たくさんの人と面談する中で前向きになってくれる人が多かった。

「みさきさんの話を聞くために今日はここまで来てのかもしれない」

「みさきさんとあってから、人と会うのが楽しくて前向きになれたんです」

「私が起業するならみさきさんみたいな人と働きたい」

「みさきさんって太陽みたいに周りにいる人を照らすエネルギーがありますよね」

こんな有難い言葉を頂けている。(実際太陽みたいに明るくはない、どちらかというと根暗なのに…笑)


これからのこと

転職の面談でネガティブに陥っている人が多いこと。

私も経験があるので、まずは心の土台を整える必要があると実感している。

転職の面談だけでは企業求人ありきの繋がりになってしまう為、トータル的にサポートできるコーチングに興味を持った。*陶芸は趣味で継続中

夢は、みんなが好きに生きられる世界をつくること。

お金とか窮屈なしがらみなく、精神的に人類が1段階上に行くような、心で繋がる世界を実現したい。

とはいえ何の実績も無い私。

何をするにも説得力が必要なのでTwitterをはじめた。

今は自分の持っているありったけの知識や考えを発信をしている。

特に心の持ち方や捉え方を磨くことで、誰もがひとつずつステップを踏んで歩くことが出来ると信じている。

その為に、今は孤独をとりに行こうかなと思ってます。
もっと自分と向き合って、少し自分を鍛える時間をつくりたい。具体的じゃないけど。

いつかは自立したい。

自分で稼ぐことが出来ないと私はまだまだ甘っちょろいので、とにかく自分で生きる!

その為には何でもやる。

今までに頭でっかちでなかなか行動できなかった私にしては十分な成長だ。

心の土台を固めたからこそ、行動が出来るようになった。

別に27歳で遅いなんて思わないし、人にはそれぞれのタイミングがある。

「今が常にベスト」

そう思って日々ツイートしたり文章書いたりしています。

道半ばの人、私と一緒に夢を見ましょう。

少しでも多くの人を前向きにしたいと思っています。

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