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とても恥ずかしいポンコツ全開のクソみたいな文章です。

私は恐ろしいくらいに考えすぎる。もうこれは病気だ、疾患だ、特技だ、いや、もういっそのこと才能にしてしまおう。じゃないとやってけない。

誰か私に毎朝強いお酒を飲ませて頭をぐらぐら揺らして、それから1日をスタートさせてくれないだろうか。

思考力を地の果てに投げつけて、ぐちゃぐちゃに踏み潰してほしい。

思考力と言いながらも、そのジャンルは普段の生活に活かせるようなものではなく、頭の回転が早い訳でも、勘が鋭くて頭が切れるという訳でもない。

ただ、ぼんやりとした哲学チックなことを考えるだけの生産性のないポンコツ人間なのだからこれだけ喚いて困っているアピールをしてしまう愚行も目をつぶってほしい。出来れば頭をよしよしと撫でてほしいし、あわよくば一生暮らせるだけのお金もほしい。えぇ、あわよくばです、多くは望んでいない。

私のこの考えすぎる面倒臭さは、昔っからだ。母曰く4歳くらいの頃から友達に遊びに誘われても喜ばない冷静さがあったらしい。もう既に怖い。

4歳児の私は「またぁ?(怠そうに)なんで毎日遊ばなあかんの?飽きひんのかな?」と言ってらしい。怖い。それでも外面は良いので機嫌良くは遊んでいたらしい。(ホッ)

そして何故か小さい頃の記憶が結構鮮明にある。友達のお母さんに何してるのかと聞かれ「日向ぼっこ」と答えた。4歳児が日向ぼっこをしていることが面白かったのかクスッと笑われた事を覚えている。

当時から人によく笑われていた記憶がある。その理由が分からず、敏感になっていたから余計に覚えている。

今思えば4歳児がぼーっと物思いにふける姿は面白いだろうと理解出来るけど、当時は笑われる意味が分からなかった。

幼稚園の卒業時に「思い出のアルバム」という曲の歌詞を歌って、ひとり暗い部屋でその意味を噛み締めて泣いた記憶もある。

「いつのことだか思い出してごらん〜♪」このフレーズに胸を締め付けられていた。幼稚園児が昔を懐かしみ、戻らない過去を憂いていた。しかも暗い部屋でひとり、誰にも気付かれないようにシクシク泣いていたのだから恐ろしい。

こんな風に過去の記憶が鮮明で、その時何を感じてどういう気持ちになったのかも覚えてる。当時からエモさには敏感だった気がする。

小学5年生で習った「赤とんぼ」の歌詞の切なさが忘れられず、未だにずっと心に残っている。

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて 見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか
十五でねえやは 嫁に行き
お里の 便りも 絶え果てた
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

「負われて見たのはいつの日か」
お姉さんにおんぶされて見た昔を懐かしむところとか

「お里の便りも絶え果てた」
これはこのままの意味だけど、まだそこそこ若い少年がひとり里に残り孤独を生きている情景を想像したら心がぶっ壊れそうにならない?

授業で習ったあの日から忘れられない歌詞で、里に残る弟の気持ちを想像し、切なさに打ちひしがれていた記憶がある。

こうして考えてみると昔から兆候はあった。だからこれは生まれ持った才能ということにしようと思う。

例えば、恋愛においての考え方も私の特性、もとい才能はもっと精度を上げて役立っている(?)

まず、別れたら分析しまくる。

何が原因でこうなったか、自分自身にはどんな否があったのか、未然に防ぐことは出来なかったのか?そもそも惹かれる部分に問題があったのではないか?こういう傾向にある人は魅力的だけど合わないから次からは注意しよう。

感情だけで受け止めるには苦し過ぎるので、とことん分析をして、感情と切り離した場所で対処することで整理が出来る様になった。

こんなことは誰でもすることなのかもしれないけれど、私の中では実体験に基づく裏打ちがレポートのように綺麗にまとめられていて、どんな人とであれば上手くやっていけるのか?という考察は結構な精度を帯びてきている。

ある意味、感情豊か?なので人との別れは私にとって精神的死に近いくらい強烈に心が削がれる。(まぁ誰でもなんだろうけど)

もう二度と別れる経験をしたくないからこそ、これだけ徹底して分析してしまう。とても不器用で可愛い人だと思ってくれる人いないかな?

そして、もう二度と別れる経験をしたくない私は、人と簡単には付き合えなくなってしまった。これまた不器用で愛おしくない?(誰か慰めて)

頭で分析し過ぎる、この厄介な才能は死ぬまで無くなることはない。

考え過ぎと言われたって、考えることは辞められない。それによる弊害を理解していても尚考えてしまう。

それには理由があって、私の目指すところは精神面での成長で、お金持ちになるとか、時間持ちになるとか、自由に生きるとか、そういう所をゴールにしていないということに最近気づいてしまった。

どんな感情も逃さずキャッチしたくて、それがどんなにマイナスの感情であれ、内側から溢れる感情は全て平等に噛み締めたい。もうこれは、病的だよねぇ。

どんな感情も認めて受け入れ、人として精神的に立派になりたいという哲人のようなものを目指してしまっている。

最早これにはゴールが無くて、だから一生考え続けるし、一生ゴールには辿り着けないのだと思う。

もっと分かりやすいゴールを設定したい人生だった。

だけど生まれ持った才能はこれなので、それを少しでも活かすことの出来る生き方を探すのみかな。

多分最終は”足るを知る境地”や”大衆の中の一部であることに幸せを感じられる境地”に行き着けたら良いなと思いながら、今はまだ貪欲に、自分が活きる生き方を模索している。

今はまだ水中の中にいるみたいにモヤモヤしている。自分の生産性の無さを嘆きながら、そんな自分が嫌いじゃないのだから、案外図太い。

誰か私が出来る仕事をください。

このままだとニートになっちゃう。

ニートは一度経験したので懲り懲りなのに。


乱文すぎる殴り書きを夜中にごめんなさい。
最後まで読んでくださった稀有な人に、幸せが訪れますように。