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自分を好きになる。

「ここではないどこかへ」と、常々思ってきた。

今あるもの、今いるところ、全部が当たり前になってしまうのが怖くて常に刷新され続けなければいけない気がしていた。物理的に変化がないとやきもきして、停滞しているように感じてしまっていた。

まだ、「ここ」でできることがあるかもしれないのに。隣にチラ見えした青々とした芝生に飛び込んでは、中途半端に食い荒らして、次の芝生へ乗り換える、臆病で落ち着きのないうさぎみたいだった。

とにかく、いつも焦っていた。

わたしは、基本的にネガティヴ発言が好きじゃない。どこか松岡修造的な「やればできる!」と熱い言葉を言い聞かせることで自分を奮い立たせることがある。

それなのに、自分に向かって投げかける(というか半ば投げつける)言葉は、どこかへ行く時も、何をするにも、「追いつかれては“いけない”。追い越さなければ“ならない”。このままじゃ“いけない”」。

すべて、強迫観念のような否定的な言葉。それを以て詰め寄ってばかり。青い芝をもぐもぐ食べている最中も、いつも心ここに在らずだった。

わたしは一体いつからこんなに落ち着きがなくなってしまったのだろう。最近? それとも昔から? 昔って、いつ? 何が原因かなんて、探っても今更分かるものなのだろうか。

「よくやった」と褒めてもらいたい。
「上出来だ」と認めてもらいたい。

自分に。

誰かから褒め言葉や賞賛をもらうと、舞い上がるほど嬉しい。でも、自分だけはブスッと腕組みして決して許してはくれない。「舞い上がるんじゃねえよ雑魚が」と言われてしまう。

だから周りに「もっと褒めて」とねだってしまうし、期待してしまう。自分が自分を許せないから、周りに許してもらうことでその穴を埋めようとする。

青い芝生で、お腹を見せて寝転がることはできなかった。そうしているつもりになることは、いくらでもできて、そうやっていつのまにかガチガチに本音を隠した“自然体”を演じる癖まで身につけてしまった。

自分が自分を認められないから、いつまで経っても辛いのに、それに目をそらして、結果かりそめの自然体を周りに愛してもらうことで、かろうじて自尊心を保っていた。

でももうその化けの皮も剥がれはじめた。「雑魚が」と蔑まれたわたしがズタボロになって「そろそろ死にそうです」と白旗を振っている。

もう、堪忍してやろうよ。ここで罵詈雑言をやめても、わたしが変化しないつまんないオトナになると決まったわけじゃない。

そんな緊急事態に気づいたのは、25歳になる少し手前。「あなたは何が欲しいの?」と問いかけられて気づいた。古傷の上から何度も傷つけた、そしてその行為を見て見ぬ振りしてめっためたにし続けた、弱い、わたし。

だから、これから数年、否もっとかかるかもしれないけれど、どうにか心のリハビリをして、自分を好きになれたらいいな。好きになりたいな。

キメの粗いわたしを、すぐには認めてやれないし、「もっとできるだろ!」とわたしの中の松岡修造が発破をかけてくるけれど、でもなんとかかんとかやっても、派手にコケる時はある。コケてばっかもいらんないけど、走れないほど自分を傷つけるのはやめにしよう。コケた時は、蔑まず、ただ痛んで悔やむだけにしよう。何においても一生懸命やればいい。もちろんそれで全てが解決するわけじゃないし、むしろ何も解決しないかもしれないけど、必死になってダメならそれはもう、わたしの手には負えない何かが不足していたからで、その不足していたものは身の丈に合ってなくて今すぐ手に入るものじゃないから悔やんでもしょうがないってことなのよ。そう思うことにしなさいよ。グズグズグズグズ、同じところでぼっ立ってんじゃないよ。

うーん。自分を好きになるって、難しいなあ。とほほ。

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