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「話が早い」ことの喜びと落とし穴

自分と同じものが好きな人だとか話をするリズムが合う人と知り合えると、うれしい。

頭がスパークして、心が高鳴る。
「見つけた!」と思う。

自分以外でも同じ世界を見ている人がいるという認識は、ひとり、黙々と掘ってきた穴が、突然となりの穴とつながって、同じような作業をしている人が現れたような、心強さがある。

阿吽の呼吸で分かり合える、その心地よさは、くせになる。

言葉を尽くさなくても、単語を数個並べただけで意図を汲み取ってもらえるのは居心地が良すぎてその世界に安住してしまう。

でもだから、ときおり、まったくもって「話が通じない」環境に身を置きたくなる。

「話が早い」世界は、勢いと情熱さえ携えればおおかた詰めが甘くても許される。

その寛容性は、甘い蜜。吸い過ぎれば毒になる。と、わたしは感じてしまう。

考えなくても、周りの誰かが見つけてくれる。
言わなくても、周りの誰かが考えてくれる。

誰にも言わずに一人抱えていたことを分かち合えることに喜びを見出していた関係性が、いつのまにか考えることを放棄して、右にならえを重ねてしまう依存関係になる──それがこわい。

時には、言葉を尽くしても分かってもらえないという絶望に打ちのめされないと、なにもかもがやさしい世界で完結してしまう気がして。

なにもかもがやさしい世界の、なにが悪いの?

なにもかもがやさしい世界は、どうしても、うそ、なんだ。

昔から内輪だけの盛り上がりのようなものが苦手なのは、きっとこの「うそだ」という気持ちが、拭えないからだと思う。

なにがどう、うそ、なのかは、まだうまく説明できないのだけれど。

ただ一つ、忘れてはならないなと思うのは「話が早い」人たちがいるからこそ、いくら絶望しても、瀬戸際で信頼を捨てずに生きていけるので結局は助けられているのだという事実。

無い物ねだりの典型でしょうか。

疑り深い天の邪鬼のたわごとでしょうか。

もしくはただシンプルに、ドMだというだけなのでしょうか。南無。

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