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好きでもない人と一緒にいるより、一人の贅沢な時間を楽しむほうが100倍しあわせ

いつだかのクリスマスイブ、わたしはたいして好きでもない人と一緒に、横浜のみなとみらいの夜景を眺めていた。

彼はアジアの某国の人でひょうきんでジョーク好き、そしてよくしゃべる人で、小池徹平似のかわいい顔だった。会うたびに訛りの強い英語でとにかくいろんなことをしゃべり、何故かどんなに寒くてもいつも白シャツ一枚にジャケットを羽織っていて小柄で筋肉質なからだを自慢げに「ぜんぜん寒くない」と言って文字通り胸を張っていた。

彼はわたしの友人が開いた飲み会に来ていて仲良くなったのだけれど、今となっては何故彼と一緒にクリスマスイブを過ごすことになったのか、よく覚えていない。

半ば強引に、わたしが彼との約束を取り決めたような気がする。

でもわたしは、彼のことがそこまで好きじゃなかったな、と今は思う。

実際、わたしは彼のことをよく知らなかったし、たいして知ろうともしなかった。

何を話したかぜんぜん覚えていないけど、みなとみらいの綺麗な夜景を横目に寒い海風の中を長いことダラダラ歩いて彼の家へ行き、次の日何か朝早くに用事があっただかなんだかで、終電に滑り込んで帰った。

帰路、ネオンが遠のいて住宅の灯りがチカチカ通り過ぎる窓の外を見ながら、どうしようもなく虚しくなった。

なんのために、安くない電車賃を払って横浜方面まで来たんだろう。

彼は一度だって、わたしに好きだと言ってくれたことはあったっけ?

わたしは、彼を好きだと思ったこと、一緒にいたいと思ったこと、幸せにしたいと思ったこと──、一度だってあったっけ。

わたしは彼が好きだったんじゃない。一人でいるのが怖かっただけ。

手頃な人ととりあえずの軽い約束をこじつけられれば、その人が好きな人であろうと友達だろうとなんだろうとわたしにとってはもはやどーでもよかった。

相手がどう思っているかなんて、おかまいなし。

今すぐにでも、自分の寂しさをなんとかして打ち消したかった。わたしは一人じゃないという、物理的な現実と確信が、欲しかった。

ほんとうに、バカだなあ。相手にも、失礼だ。

結果、一人じゃないクリスマスイブを過ごしたことで余計にわたしは孤独感に苛まれた。

彼とはその日以来、連絡を取っていない。

「会いたい」と何度かLINEが来たけれど、適当にはぐらかしたり返事をしなかったりして、お互いに、イブの夜は“なかったこと”になった。

人がたくさんいる街だから、喧騒にまみれて何が起きても見てみぬふりができると思って、虚勢と誤魔化しにまみれた夜だった。

あの日から、好きでもない人と一緒にいても、ただ自分本位で孤独を埋め合わせしようとしても、誰も幸せにならないのだと、思い知った。

……情けないけれど、一度体験しないと、わたしは理解できない質らしい。

世の中にはたくさんの愛とか情のかたちがある。

その中でもとりわけ異性からの愛が最も尊く最も貴重で最も獲得すべきものだという、わたしのこじれた「愛情階層レベル」が、年齢を重ねるごとに建築されていた。

そして、その最上レベルを満たせないことには女として人間として無価値だ、出来損ないだという常識が出来上がってしまっていた。

今でこそ、好きでもない人と1日過ごすなんて時間の無駄遣いだと冷静に思うけれど、当時はその最上レベルをいかに満たすかが人間としての価値を問われると信じていたし、満たせないと「わたしは誰にも愛されていない」と認定されたようで本当に怖かった。

書きながら、自分ででっち上げた仮初めの常識に首を縛られた過去の自分を「かわいそう」と思う。

あのみなとみらいの夜が何年前だったか、数えるのも億劫なくらいだけれど、その頃よりは「愛されていないと不安」という孤独感は、格段に薄らいでいるのが今。

その理由は、誰かに愛されたいという願望を何倍も上回る、自己実現欲があるからではないかな、と思っている。

実際、わたしは今猛烈にやりたいことがあって、そのための本を読んだり勉強したりしていると本当に楽しくてしょうがないし時間があっという間に経つ。

一人でいることに対して不安や恐怖を感じている隙がないというか、そんな暇がない。暇があると、人間はろくなことを考えない。暇がアイディアを産むこともあるけれどね。

だから、わたしは今年のクリスマスイブは一人で過ごしたわけだけれど、強がりでも意地でもなく1ミリも寂しくなかった。
というか、ここ数週間、寂しさでボロボロにささくれた心がいつの間にかつるんと癒えてしまったかのように、一人でいようといつ何をしていようと、なんともない。

寂しさのあまり、行きずりの何某を掴まねばと目を爛々とさせていた頃のわたしのグズグズっぷりから考えると、この変貌ぶりに自分が一番びっくりしている。
びっくりし過ぎてその驚きと不安の消滅の理由をnoteに記録しなければと思った次第。

好きな人と遠隔で(彼は日本にいないので)少しおしゃべりをしたが、それはいつものことだし、クリスマスだからといって特別なことは何もない。何をしたかと言えば国会図書館に行って、資料や本を探していた。図書館には、結構人がいて、資料のコピーをする受付には長い行列ができていた。
あと、銭湯に行って熱々のお湯に肩まで浸かった。足先までほかほかのまま、湯冷めしないように早く寝た。

不安が溶けた、もう一つの理由は「やりたいこと」が明確になったことのほかに「愛情階層レベル」の上下関係がガラッと変わったことも大きい。

異性からの愛も素敵だしエネルギーになるけれど、家族や友達からの愛情も、それと同等かそれ以上のパワーをくれることがある。

実際、今年のわたしはこれらに大いに助けられた。

そして、異性からの愛がないと愛されていないと自覚できない自分が、なんかすごく安い女に思えて恥ずかしくなった。

自分がグルグルと変わってゆくことを感じながら、それでも「あなたがどうなろうと応援するよ」と言ってくれる人たちがいて、わたしは、彼らの存在に随分と救われた。

変わることは何かを捨てることでもあって、長年抱えていた固定観念はゆるやかにわたしの中で消えていった。すると同時に「あなたの考えは理解できない」と言われることも増え、離れていく人もいた。

それは決して優しいことではなくて戸惑ったけれど立ち止まらずに済んだのは、何も言わずとも黙ってにっこり見守ってくれる人がいるんだなあということを実感したからだ。

どうでもいい格付けも、社会的な体裁も、幸福感を減退させるならいっそ排除して仕舞えばいい。わたしがどうふるまおうと、世界は大して気にしていないし、自分のための幸福感を知らずに違和感を放置していると、変わりたいときに変われなくなる。自分のほんものの“好き”が分からなくなる。

一人だけど、一人じゃない。わたしは一人じゃ生きていけない。

でも、だから一人で居られるのかもしれない。

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