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エピラ(9)ヤブ医者の忠告

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。行商の途中、立ち寄った酒場でエピラと口論になり、左足を負傷したニカの父・シマテは娘のニカに手をあげ、動揺したまま家を出る。その晩に食事をしているとシマテを担いだ男が現れ、エピラの医者だと名乗り、シマテの命の危険を告げる。

登場人物

ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。

 ふたたび、夜風が吹き込む。

 舞い上がるのれんが、マントのように男の背後でたなびく。

 ニカには、救世主にも悪魔にも見えた。

 「医者?」

 モアレは男の台詞を繰り返した。

 「この集落に、医者はいないはずだがね」

 しわしわの手を顎に当て、モアレは訝しげに男の爪先から頭の先まで、スキャンをするように凝視した。

 ニカも、聞いたことがあった。第23集落には医者がいない。それは病気や怪我をする人が少ないからだと思っていたし、特に疑う余地もない。けれど、目の前のこの男は自分が第23集落──つまり、ニカたちと同じ集落に住んでいる医者だと言った。その上──。

 「ましてや、エピラの医者なんて」

 モアレは男から目を離さない。男も、握った拳をゆるめる気配はない。麻の一枚布で作られた服の裾が、夜風を受けてパタパタ小さな音を立て、男のこんがりやけた肌を叩いている。

 「医者もエピラも、23集落にいるなんて話、聞いたことがないよ。もし住んでいたらあっという間に広まっているし、私の耳に入らないはずはないね」

 がたいはいいが、男の顔には細かい皺が刻まれているのをニカは見つけた。シマテと同じくらいの年齢、もしくはそれより少し上かもしれない。

 「ましてや、エピラは住めるところをほとんど制限されているようなもんじゃないか」

 モアレのほうが、男の何十分の一くらいの体の小ささにもかかわらず、シマテより広い肩幅と、大木のような腕と脚を持つ男に全く動じない。

 エピラは、北の国との唯一の出入り口になっている第1集落と、その隣の第2集落、またニカの家族のように行商人さえ立ち入らない第30集落に多く暮らしていた。

 その3つの集落に住まなければならないルールはない。他の集落にも住もうと思えば住むことはできる。けれど、エピラと分かると追い出されることも珍しくない。だからエピラだということを隠して生活している人もいる。

 それなのに、自らエピラと名乗るのは、確かにおかしい。

 ニカの心臓は、口から出そうだった。口の中も乾いている。

 父さんの命が危ないって?

 どうして?

 その上、この集落にいるはずのないお医者さんがいるなんて……。

 男は、モアレの言葉に反抗するつもりはなさそうだが、何かを言いたげなまま動かない。

 「イカサマの医者にふんだくられるほど、うちは裕福じゃないんでね。さしづめ、あんたがシマテを川に突き落として、多額の治療費を請求しようっていう手口だろうが、甘いよ。うちは一度、エピラの商人にカモにされそうになったこともあるんだ。目をつけられやすいのかね、あまりにもうまい豆を作るから」

 モアレの皮肉は一度こぼれると、火がついた導火線のように止まらない。

 「だいたいシマテが豆を放り出して酒場なんかに寄るから余計な事故を起こしたんだ。それで足を不自由にしちまって、あんたみたいなヤブ医者を家に呼び寄せる。明日も明後日も、その次の日も、きっとあんたみたいな魂胆を隠し持った傲慢な奴らがウヨウヨ集まってくるのさ」

 額をおさえ、首を横に振りながら「そうはいかない」と口の中で何度も繰り返す。

 黙っている男に、モアレは「帰んな」と吐き捨てた。

 ニカは、男の深いグリーンの瞳を盗み見た。

 ヤブ医者ではないなら、言い返せばいいのに。

 でも奥歯を噛み締めているのは自分の身の上を弁明するためではない気が、ニカにはした。何か重要なことを聞いてもらう隙を、じっと耐えて待っているような。

 自分がエピラだと名乗ってまで、伝えたいことがあるということなの──?

 「旦那はお返ししたので、帰ります」

 「ああ早く帰んな。そして二度とうちには近づかないでおくれ」

 モアレはそう言うと、片手で追い払う仕草をした。

 「一つだけ、お願いがあります」

 男はそう言うと「紙とインクはありますか」とモアレに尋ねた。モアレは顔を背けたまま無視したため、男は横にいたニカに視線を移し「紙とインクはありますか」ともう一度尋ねた。

 ニカは、その瞬間、男のエメラルドの目のなかに一直線に吸い込まれそうになった。まるで海の中に突然現れるという渦のようだ。本物は知らないけれど、夢で見たことはある。もしくは台風か、竜巻か──。

 「どうしても伝えておきたいことがある」と言う男の、少し大きな声がして、ニカはハッとし、自分の部屋に駆け込んで、繊維質の荒い紙と、鉛筆を持って男に差し出した。モアレはその一部始終のニカの行動の間「何やってんだい、構うんじゃないよ」と大声で叫んでいたが、ニカは聞こえていないふりをした。ふりをした、というよりは「言う通りにしなければ」「男の伝えたいことが何か知りたい」と思ったのだ。

 男はニカから紙と鉛筆を受け取り、慣れた手つきで何かを書き記し、4つに畳んでニカに渡した。開いて見ると、黒いシミのようなものが浮き出た人間の足と、説明文のような文章が5行ほど書かれていた。

 「もし、今後あの旦那の足に、ここに描かれたような現象が起きたら、すぐに医者に診せに行ってください。手遅れにならないうちに」

 男は、ほとんどニカに言い聞かせていた。モアレは、狂ったように「早く帰れ」「ヤブ医者が」と喚き散らし、もはや自分でも何を叫んでいるのか分かっていないように見えた。

 ニカは黙って男の目を見つめ返した。やっぱり、まだ何かを言いたげだったが、少しだけ満足したように目を細め、きびすを返し、のれんをくぐって夜の闇に消えた。

 ニカは折り畳んだ紙の絵をもう一度見直した。

 南の国では、識字率は徐々に上がりつつあるが、モアレのような高齢者は読み書きが苦手だった。ニカは文字を書くのも読むのも好きだったから、男の書置きの意味をすぐに理解することができた。

 絵は、シマテの事故にあった左足を表している。そして黒いシミは、傷口から徐々に骨や神経を侵食する感染症の影響で、壊死した肉を表していると分かった。腐った肉は、一度現れると感染した傷口から遠く離れた腹や腕、顔などにも脈絡なく現れ、肉が剥がれおち、身体が泥人形のように崩れていくと書かれていた。

 「手遅れにならないうちに」と、あの男は言った。

 結局、男が本当にエピラの医者だったのか、23集落に住んでいるのか、シマテを助けたのは仕組まれた罠なのかどうかは、分からなかった。

 ただ、父親の足がただの事故の怪我ではなさそうだということだけ、ニカははっきりと理解した。

(つづく)

余談

 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。以下の有料エリアでは、物語を作る際に、ぼんやり考えたことや裏話などを書いています。ほとんど雑談です。マガジン「アトリエ ウラリンナンカ」をご購読いただくと、すべての余談が閲覧可能です。
 今回は、仲のいい父と娘とそうでない父と娘は何が違うのか、という話の続きです。

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