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暴力

エッセイという名の、持論を綴っています。

持論とは、時に暴力になり得る。

受け入れてもらえないことが怖いから。
受け入れてもらえるように仕向けてしまう。

誰だって、自分が信じるものを疑われるのが怖いのだ。


伝えるってなんだろう。理解してもらうこととは、また違うような気がする。

わたしは伝える時、同時に受け取ることができているだろうか。

伝わることが当たり前だと思っていないだろうか。


世の中には、自分のフィルターを介してからでないと、他人の話を聞けないひとがいる。

耳から入り込んだ話が、脳みそをたどり、そのひとの人生観や偏見を詰め込んだ成分をギトギトに吸い込む。そして口から発せられる頃には、もう立派なじぶん理論。

それで、元々は何の話を聞いていた?

そんなひとが沢山いる。

そういうひとに限って、持論を「伝える」ことが先走ってしまい、それを受け取る側の気持ちは置いてけぼり。

そしてそれは、理解されることが前提で、理解できない者は排除されてしまう。罵られることだってある。

つまりは、暴力。

気持ちはわかる。自分が信じるものは、その他大勢が信じていればいるほど、より確実なものになるから。

「信じていいんだ」。
そう思える理由が、ひとつでも多い方がいいに決まっている。

わたしが今、書き続けているのものは、そんな暴力と表裏一体なのだと思う。


でも、そんなのは嫌だ。

文章を書く時、いつも考える。
自分の文章を暴力にしたくない。

だからわたしは、今、ここで書いているような持論を、普段の会話の中ですることはあまりない。

他人に押し付けたりもしない。

だって、わたしにとって言葉は武器じゃない。

まして、自分を大きく見せるためのものでもない。

言葉はわたしを守るものだ。わたしの、逃げる場所だ。 帰る場所だ。

誰にからかわれても、自分だけの世界だよ。

だからわたしは、誰かのために書いたりしない。


伝わらなければ意味がないと、思うひともいるでしょう。

だけどわたしの中には、伝わらなくても十分だと思える言葉や、感情があって、それは誰しもが持っているものなんだと思いたい。

だってわたしは、決して、特別な人間ではないから。




#エッセイ #暴力


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暴力じゃないやつ
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