
遠出してみる
外に出て行って、
何らかの、例えばヨガのワークショップなり講座を受けることがある。
「外に出て行って」という感覚。
地域的つながりの強い農耕地域で農業していたらその感覚が強い。
オンラインでも、
その中の人たちとコミュニケーションが生じる時はそう思う。
「外にきた」という感覚。
それが楽しくもあり、きつくもあり、
大なり小なり自分についての発見がある。
東京に住んで、非日常の何かに参加した時、「外にいる」と思ったかなぁ。
会社帰り、あんまり行かない飲み屋やクラブや、
土日に新しい趣味の集まりみたいのに出てみた時。
その感覚はそれほど強くなかったように思う。
帰り道に寄った、くらいな感じだった。
知り合いと一緒なこともあったからか。物理的な距離か。
話が深まってきて「仕事は農家なんですけど」と、言うタイミングや
そもそもそれを伝えるかどうかなど、今でもよく分からない。
(生業を言ったほうがよさそうかな、とか思ったり
身元を表したほうが良い時、
もしくは話の流れでそう言わないと通じない時に迷う。)
あからさまに意外そうな反応をする人もいる。
つまり意地悪なことを言えば
「なんでそういうひとがここにいるの?」というような反応だ。
そういうひとに、オンラインのワークショップの終わり頃になって
「本当に農業している人?部屋の感じもおしゃれだし…」
(おしゃれではない、隠しまくっている)
みたいなことを言われると
「あなたの何かが露呈してますけど大丈夫?」と逆に心配になってしまう。
そういうのが、もっと不快な感じで現れることもある。
農業は、いい仕事だと思う。
少なくとも「これって何の、誰のための仕事だっけ?」とはなりにくい。
「人はものを食べないと死ぬ」それだけで済む。
(でもだからこそ世の中の問題が直にここに現れたりする)
もっとつっこむと、「いや、うちはそういう農家じゃないです」
という感覚もある。
つまり、「有機農業とかでもないし、何かポリシーがあるわけでもない。
例えるとわりと工場に近い感じで…でも食えてます」
というところだ。
(相変わらず実質世襲だし、対義理の家族問題は不変。
これに世の中すべての問題が詰まっている気もする)
”でも食えてます”はとても大事な要素だ。
わたし史上、子供時代、学生時代、会社員時代、
そのいつよりも”食えている”。
(もちろんお金持ちとかではない)
金銭面で困ってない。
(畑さえ通常に運用できていれば。貧乏性だからそう思うだけ?)
だから飛行機に乗ってワークショップとかに行けてるわけです。(たまに)
5年くらい前に、
東京のヨガの解剖学か何かの講座に参加したことがある。
シンガポールの自宅でヨガ教室をしているという人が参加していて
私は道東です、というと
「旦那が紋別出身で」「紋別に魚介関連の工場を持っていて」と言う。
なるほど…、と思った。
先日参加した西方面の泊りがけのワークショップでは
そこのスタジオの人たちが郊外で菜園を共同でやり始めていて
それでかえって最初は向こうからの警戒を感じたりもしたけれど
(プロだからって不要なアドバイスとかしてくるのでは?という感じかな)
やはりその畑に参加している先生が話の流れで、
「日焼けとかどうしてる?○○さん焼けてないよね」
と訊かれ、それはとてもよく分かった。
(でっかいサイドも覆う畑用の帽子をかぶって、
日焼け止めも塗りますし、と答えた。わりとサボってる、とも言った)
実際畑をやってみたら、それが週に1日でも何となくわかる。
シミ出ちゃうな、とか腰痛いな、とか、そういうこと。
私は逆に、
「日焼けした肌って自然でいいよね!化粧って必要?」
…みたいなことをキラキラ言われてしまう方が妙な圧を感じる。
(そう感じさせない人もいる。面白い。)
(化粧品の成分が、とか…ジェンダーとか…いろいろ分かるけど!)
”正しさ”がジャッジを生み、入れ子状の差別を生み…格差を生み…
きっととても便利な時代だけれど、
人の意識というのは気づこうが気づいていなかろうが悩ましい。
宇宙レベルで考えたら、何もかも小さいし、
なるようになっているんだろうが
”この70年後には絶対もういない私”をどう愛しんでいこうかと。
それはこの自分の身の回りに対してどういう愛を持って接していくか、
みたいなことでもある。
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!