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岩塩

 7月1日6時前。湿った強い風が吹いている。わたしは久石譲のメリーゴーランドをハミングしながら、緩やかな勾配のあるシャッター街をジグザグに登っていた。喉が酒と副流煙ですっかり焼けて、時折素っ頓狂なかすれ声が混じったが、わたしの機嫌を損ねるには至らなかった。鞄に忍ばせた珊瑚色のそれを、自室の出窓に腰掛けて陽の移ろいにかざして眺めたらさぞ美しいだろうと思いついた昨夜から、ずっとこの調子だ。
 その岩塩は商店街の中ほどに佇む古びた埃臭い雑貨屋の、『どれでもひとつ100円』とメモが貼られた木箱の中で、街灯の光をチカチカと跳ね返していた。
 家の門を抜けて、雨の匂いが立ち昇る石畳をくるり、くるりと回りながら行く。ふと、つくばいの上を這う蛞蝓が目に留まった。糸を引きながらゆっくりと歩むその様子をしげしげと眺めているうちに、なんとしてもこやつの歩みを阻害したいという強い衝動に駆られた。
 落ち着いた風を装って家に入り、台所からスライサーを持ち出す。昨夜の素敵な思いつきはすっかり頭の片隅に押しやられてしまっていた。鞄から岩塩を取り出し、蛞蝓の上に構える。岩塩と蛞蝓はそれぞれ朝日を受けて透明に光っていた。
岩塩に注意深くスライサーを滑らせると粉状になったそれが、わずかばかり蛞蝓の上に降った。と見るや、そいつは熱湯を浴びたかのように慄き、粘液をそこいらにきらめかせながらのたうった。わたしはすっかり興奮した。
執拗に岩塩を削っては、その気の毒な生物の上に降らせた。つくばいの片隅は塩と粘液まみれになって行き、やがて蛞蝓はぎゅっと身体を縮めたかと思うと、ついに動かなくなった。
 頭上を飛行機の音が過ぎて行く。わたしはへたへたと力なくしゃがんで、つくばいの向こうの垣根を眺めた。長い時間そうしていたように思う。洗濯機の音がし始め、しきりにウサギを呼ぶ母の声が聞こえ出して、ようやくわたしは家に入った。
 すっかり気持ちが沈んでしまったので、昨夜の素敵な思いつきに再びうきうきしようと岩塩を見やると、
 その珊瑚色と水晶を混ぜた美しいからだは、乱暴な刃傷によってズタズタに壊されていた。

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日記。
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