スタイルと創造性――酒井麻依子『メルロ=ポンティ 現れる他者/消える他者』

さて今回扱うのは、酒井麻依子『メルロ=ポンティ 現れる他者/消える他者:「子どもの心理学・教育学」講義から』晃洋書房…!!

1.周辺情報

なお、目次は以下の通りで、出版社ウェブサイトに多少詳しいものがあります。

序 論
第Ⅰ部 われわれはいかにして他者を知覚しうるのか
 第1章 現象学の他者論
 第2章 児童心理と他者論
 第3章 スティル
 第4章 言語活動と表現
 第5章 意味と他者経験
第Ⅱ部 われわれは他者をどのようなものとして知覚するか
 第1章 類型:身体、民族、階級、人種
 第2章 類型:コンプレックス
 第3章 類型:セクシュアリティ
 第4章 類型の伝承:個人と社会
 第5章 自由
第Ⅲ部 われわれは他者とどのように交流しうるか
 第1章 嫉妬と愛
 第2章 他者との交流
結論

この本は、著者が立命館大学に提出した学位論文を元にしたもので、かなり密度が濃い。

タイトルにある通り、メルロ=ポンティの思索を中心に本書は展開する。

モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty: 1908-61)は、フランスの思想家で、フッサールが立ち上げた「現象学」と呼ばれる思想的潮流・方法論を、フッサールとは少し違う仕方で発展させた人物だと理解してよいと思う。(ちなみに、メルロ=ポンティは、こんなおじさん)

画像1

本論は、メルロ=ポンティの中期思想を扱っている。その中でも、「子どもの心理学・教育学」講義と副題にある通り、「ソルボンヌ講義」と言われる一連のレクチャーが主たる検討対象になっている。

参照文献は色々あるが、頻繁に出てきたのは、「ソルボンヌ講義」、『知覚の現象学』、『世界の散文』だった印象。

これが「ソルボンヌ講義」の部分訳。

アメリカの文化人類学の伝統、フッサールの現象学、ラカンやワロン、ゲクスなどの心理学・精神分析学、そして、ボーヴォワール、マルロー、セザンヌといった一流の書き手、芸術学者や芸術家が登場する。

2.スティル(スタイル)という鍵概念

それに合わせて主題も多岐に渡っているが、恐らく、「スティル(スタイル)」概念――「類型」とでも訳せる――をおさえておけば、博士論文といえど話についていけるとは思う。

メルロ=ポンティはこんな風に語っている。

図と地が、ある規範とずれが、上と下が存在するやいなや、つまり、世界の中の特定の諸要素が、今後われわれがそれに沿って残りの全てを測るような次元、そして残りの全てをそれとの関わりによって指し示すような次元という価値を手に入れるやいなや、スティルが(そしてそこには意味作用が)存在する。(本書p.75)

色々な表現がなされていてわかりにくいかもしれないが、ポイントとして、スティルなるものは、何かの差異やズレが生じる「条件」「前提」になっているということを読み取ってほしい。

読み取れなかった人は、国語の練習だと思って上の引用に立ち返ろう。さん、はい!

その上で、酒井さんの文章を見れば、スティルのニュアンスはよくわかるはずだ。

通り過ぎる女性を知覚する場面を例にメルロ=ポンティは考察する。通り過ぎる女性を知覚している私にとって、それは単なる輪郭でも、色のついたマネキンでも、空間を占める一光景ではない。それは、特定の表現――女性――として、つまり、女性という特定の存在の仕方を伴って、私に現れている。

ここで男性として想定されている「私」が目にするスティルは、男性的存在である「私」のスティルと人間的存在という一般性において共通であり、女性的存在であることにおいて「私」のスティルから偏差を持ち、さらにはほかの女性的存在からの偏差において個別的であることになる。歩行においてヒールの音を響かせるのは大半が女性であるため、足音は、男性的存在からの偏差である女性的存在のスティルを伴って現れるであろう。そしてヒールの音が軽やかであるか激しく打ち付けるようであるかあるいはゆったりしているかきびきびしているかなどにも、その女性個人のスティルが全面的に表れる。(p.75)

スティル、つまり、類型は、私たちを凡庸にしたり、他者と区別できなくする何かではない。

むしろ、私たちが様々なスティルを持っていて、それらのスティルを区別できるからこそ、それらを他者と共有しているからこそ、私たちは、ある存在者をそれとして知覚できる。

(いくつかの箇所では、「属性」「性質」と読み替えて話が通じる感じなので、最初はそういう感じで理解して、読み進めるうちに厳密な理解に置き換えてもいいかもしれない。)

例えば、ダウンタウン出身の女性に特有のヒールの音があるとして(知らんけど)、女性という存在の仕方(スティル)が、「地」となって、ダウンタウン出身女性という存在の仕方(スティル)が際立った形で知覚されている(図になっている)。

つまり、非ダウンタウン出身女性との「偏差」は、女性であるというスティルが共有されており、下地になっているからこそ、浮かび上がり、認識できる模様なのだ。(この例わかりやすくない気がしてきた)

これが芸術家にとっての創造性、個別性の創造の議論にもつながってくるのが、メルロ=ポンティの面白いところ。

少し話はずれるが、恐らく、デューイならスティルではなく「習慣」と呼んでいただろう。これを書きながら再発見できなかったけど、本書でもスティルの説明にあたって、「習慣」という言葉が用いられている箇所もあったので、この直観は当たっていると思う。

3.愛することとスティル

で、スティル概念は、一種のライトモチーフとして本書の随所で反復されている。

例えば……

……メルロ=ポンティは「人は諸性質のみを愛するのではなしに、諸性質を通してのみ愛するのだ」と主張する。つまり主体は他者の諸性質のみを愛するのではなく、あるいは諸性質と無関係に他者を愛するのでもなく、諸性質を通してのみ他者の人格を愛するのである。(p.241)

(余談だけど、これは昔からずっと思っていた話に近く、論文で使おうと思ってた話題でもあるので、むちゃくちゃ参考になりました。好意にとって属性は一種の「導入」としての役割を話すのであって、属性と無関係に人は何かや誰かを愛するのではない、という話。)

ここでいう「性質」を「スティル」に置き換え、「愛する」を「知覚する」に置き換えれば、そのまま前節の引用に通じる話になります。

ある存在者(特定の人間)を好きになるのは、他の人びとと共通するスティルを前提としながら、その人のより個別的なスティルが際立って知覚される中で、「その人の個別性」に直面し、愛着を抱くようになるのだ、という話。

このライトモチーフを頭の隅に置いておけば十分読み通せるはず。私の理解が間違っていなければ。笑

4.哲学にとっての「解釈」

本書を通して、正直のところ一番面白く読んだのは――著者はうれしくないかもしれないが――序論と第一部だった。

第一部は、まさに「スティル」概念を導入するための基本的な話が展開されるのだが、それ自体面白かったし、加えて、私が中心的に研究しているジョン・デューイという思想家にほとんど重なるような発想を感じたからだった。

(余談だけど、p.3に一瞬デューイの名前が出てくる。何かの折に酒井さんに話したのを覚えていてくれたのかもしれない、という登場の仕方だった。)

でも、それ以上に心に残ったのは序論だった。

問題の絞り方、扱う文献の位置づけ、論点を限定する理由、先行研究の評価、自分自身のスタンス、それを選ぶ理由、批判されるべき先行研究のそれでも理解されるべき側面etc... とてもバランスがいい。

それ以上に印象に残ったのは、哲学する者にとって思想家の解釈をすることの意味を語った箇所だった。

メルロ=ポンティはソルボンヌ講義を自ら確認し、「何よりも学生のためということで」出版を許可した。なるほど彼が自分の哲学としてソルボンヌ講義講義を読解されることを個人的に望んでいたかどうかは不明である。だが筆者には、そもそも一人の哲学者・思想家の哲学・思想とは本人が自ら考えていると自覚していたことよりもずっと広いものであり、むしろ本人の描いたものや発言が意味しうることこそが、その人の哲学ではないか、と思われる。それゆえ哲学・思想の解釈とは、本人の意図していたことを正確に探り当てる作業である以上に、本人の残したテクストや発言などがなす布置からそれらの指し示している意味を読み取る作業ではないだろうか。(p.8)

私はこれに大いに同意する。意図の再現を擬態することに意義はあると思うが(その理由はまた別の機会に)、にもかかわらず、意図の再現は解釈者の仕事ではないと思う。

思想や哲学が意図に回収されてよいなら、著者が生きているうちにインタビューを済ませてしまえばいい。そして、インタビューだけ読んで、彼の原著など読まなくても構わないことになる。(反語ですよ)

小説の価値も同じラインで語れると思う。小説が小説家の「意図」に還元されるのだとすれば、小説など読まずに著者のインタビューなどに触れ、自己解説だけ摂取すればいい、ということになってしまう。

もちろんこれだけが「意図」ではなく「意味しうること」に、解釈の意義や照準があることの理由ではないけれど、ここではこれくらいにしておきたい。

序論では、社会学――というより社会科学――と哲学の対比がなされていたり、心理還元主義と社会還元主義双方の批判がなされていたり、素朴に因果的な発想を全面化することの問題が論じられていたりと、それぞれに興味深い論点がある。ぜひ一読してほしい。

5.ブックデザインとピンヒール

さらに余談の余談。これむっちゃ装丁がいいんですよね。シュッとしているし。

あと、帯みたいに青色のシートがかぶさっているのですが、それをめくると子どもと大人の手をつないだ姿が淡く溶け合ったような写真が出てきます。どこに境界線があるのかもわからないし、輪郭もあいまいです。周囲とゆるく溶け合っている。これが、結構象徴的なんです。

というのは、メルロ=ポンティの「癒合性」概念を思わせるからですね。素朴に解説するなら、赤ん坊の頃は、赤ん坊は自他の区別がない未分化な状態に生きているというのを「癒合性」と呼んだと、一旦は理解していいと思います。(大人になっても、ある種の「癒合性」が残っているだとか、色々な留保がつくので微妙な解説ですが、ひとまず置いておきます。)

それを背景にしながら、青色のシートを重ねると、子どもと手をつなぐ大人の写真が、今度はくっきりとした形で浮かび上がります。わかる人にはわかると思うけど、かなり象徴的でしょ。

たぶん、そういうつもりのブックデザインなんじゃないかなと思います。とても巧みですよね。

そしてもう一つ。この本の記述の仕方はとても優しい。

歩行においてヒールの音を響かせるのは大半が女性であるため、足音は、男性的存在からの偏差である女性的存在のスティルを伴って現れるであろう。(p.75)

確かにヒールのある靴は男性もはくし、ピンヒールをはく活動をしている人もいる。

どちらも楽しそうに履いているのが私はとても好きだし(文章に危うさを感じる箇所もあるけど)、なによりとてもきれいだと思う。

本書の記述は、「歩行においてヒールの音を響かせるのは大半が女性であるため」のような文章に満ちていて、本当に、本当に安心して読める。

それはとても得難いことだと思う。(得難いことなのは悲しいことだ)

「歩行においてヒールの音を響かせるのは大半が女性であるため」って書ける人、ほんまよくないですか?

これが当たり前になればいいのにって、本を読んでいたとき、泣きそうになりました。これが当たり前になればいいと心から思います。

……というわけで、このくらいにしておきます。(理解が間違っていないといいけれど)※酒井さんによると、ちゃんと読めているそうです。よかったー笑

酒井さん、ご恵投ありがとうございました。著書紹介をお礼に代えさせていただいきます。





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