とある誤読の話(西村曜)

――三巡目「短歌と現代」

 この交換日記も三巡目、さいごのテーマとなった。第一期の三巡目「短歌の過去・現在・未来」にて山崎聡子さんが「交換日記だと思って気楽に書き進めてきたエッセイの最終回がこんなテーマでとまどった」と書かれていたけれど、わたしも三巡目で手が止まってしまった。それでも「短歌と現代」ということで、わたしがTwitterから短歌にのめり込んでいった話などして、短歌と現代のSNSについて書くつもりだった。ところがだ。これを書いているのは二〇二〇年四月。この十六日には、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言が全国に発令された。いま「現代」を言うときに、現在進行している疫禍に触れないことにはいかない、とおもった。

 現代、今の世は、ここしばらくで大きく変わってしまった。その変化は短歌の世界にも影響をもたらしていて、Twitterでは歌人がいちように「コロナの歌しか詠めない」とつぶやいている。新聞歌壇にもそういった歌が載りはじめた。また、Web会議システムのZoomなどを用いたオンライン歌会が盛況だ。わたしも先日Zoomでオンライン読書会をした。そのとき興味深い話を聞いた。この疫禍によってはからずも盛り上がりを見せているオンライン歌会だが、やはり新型コロナウイルス流行を題材にした歌も出されているらしい。そして、そうではない歌、コロナ禍を詠んだとはおもえない歌も出されるが、そうした歌も「コロナ読み」されてしまうことがままあるというのだ。「コロナ読み」とは例をあげれば、恋人間のすれ違いを詠んだ歌が、以前ならそのまますれ違いの歌として読まれただろうものを、いまの状況下では新型コロナウイルス流行と結びつけて読まれる、というようなことだ。歌会の詠草を選ぶとき「コロナ読み」されそうな歌はやめておいた、とも聞いた。

 「コロナ読み」は、わたしにも思いあたる。わたしの愛唱する歌に

  新しい世界にいない君のためつくる六千万個の風鈴
  /吉岡太朗『ひだりききの機械』

がある。これはもともと二〇〇七年に短歌研究新人賞を受賞した連作中の歌だから、もちろん昨今のコロナ禍の歌ではない。しかしいまのわたしには「新しい世界」が、コロナ禍収束後の世界ととれてしまう。「コロナ読み」の是非はまだわからないが、わたしはいままでこの歌を「(風鈴を)つくる」側の視点でしか読まなかった。「コロナ読み」をしてはじめて「新しい世界にいない君」の側の視点をもった。わたしも「新しい世界にいない君」であるかもしれないという切迫感が現実に生じてきたためだ。

 短歌は短い。その短さゆえ、読み手はすくなからず己れの価値観等を以て、情報を補って読んでしまう。そしてまた短歌の読みには、当座の時代の情勢、時代の価値観も色濃く反映される。過去に詠まれた歌であっても、現代を生きるわたしがそれを読むかぎり、現代の情勢の影響をうけた読みがなされてしまう。その是非はやはりまだわからない。いや、コロナ禍以前の歌を「コロナ読み」するのはどうしたって誤読だろう。ただその誤読は、わたしに歌の別の様相を見せてくれた。「新しい世界にいない君」の側の。

  ”その後”の話ばかりを繰り返す腹話術師の口動いている

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