高島裕インタビュー(後編)


「ここに自分がいるのがすごく自然」

――帰郷されて、個人誌の『文机(ふみづくえ)』をお出しになります。
高島 これもずっと前から、ささやかな個人誌を出そうと思っていました。自分なりの美学で首尾一貫するようなもの、あとは、パッと読みやすくて短くてコンパクトで、でも中身は極限まで濃縮されて、読みごたえのあるものを作りたいなと。

――それを出すことと「未来」をやめることは関係していますか。
 やっぱり内的に関係していますね。そういう美学のほうに行くっていうのは、現代短歌じゃないところに行きたいと思っている訳なんです。「未来」はやっぱり現代短歌だから。あとは、私はその当時編集委員とかもやらせてもらっていたんですけど、歌を作ることと歌を批評すること、それ以外はできないなと感じていました。

――これは悩ましい問題ですよね。
 何にもできなくて申し訳ないなっていう思いがあって。それと、歌以外の、人間関係とかの話が聞こえるところにいたくないというのがありました。今は違いますけどね(笑)。人間なんて強くないし、自分だって人のことを言えるようなもんじゃなかろうと思っていますから。でも、当時はちょっとでも不純なものが歌に入りこむことが許せなかったんです。この間、大島史洋さんに昔のことを言われましてね。以前、私が人に怒っているところを見たと。「歌なんかやめちまえ」とか言っていたらしい。三十代の半ばくらいはそういうことがあったんですよね。

――高島さんが「未来」をやめる前日に「首都の会」があって、一緒にくだらない話をして飲んで。そしたら次の日、田中槐さんから「大変だ、高島が未来をやめることになった」ってメールが来たんです。みんなの動揺がすごかったですよ。前日にあんなくだらない話をしてたのに、高島さんの内面はどうだったんだろうかって思ったり。
 はははは。そのときは岡井さんに手紙を書いてね。

――個人的な動揺があったから、自分がそのとき三十四歳だったこともすごく覚えています。やめることを誰も知らなかったんですよね。それも高島さんらしいです。
 「首都の会」では会計係をやっていたんですよ。その引き継ぎをするために、中沢直人君が当時私が住んでいた高円寺まで来てくれました。「高島さん、やめるんですか」って言われてね。

――それからすぐに富山に帰られたんですか? 
 一年くらいは東京にいました。自分の中の文学的な必然と、生活上の必然てなんかシンクロするんですよ。実家に年老いた母親がひとりでいて、帰らんといかんやろっていうのと、文学上の、古いところに回帰していくっていうのが。そういう文学的、内面的な流れがぴったりあった感じですね。

――そうすると、今また「未来」に入られたのもそういう流れがありますか。
 歌である以上、今を生きている命のリアリティがないとだめなわけで、今を生きている以上、様式的な美からははみ出すことが常にあるわけです。私にとっては松尾芭蕉がひとつの理想で、芭蕉がやった表現は、元禄時代の町民の文化のバックボ―ンがなかったら生まれなかったにも関わらず、遠い昔の和歌への憧れ、美的な様式の基準みたいなものがある。そういう、古いものと新しいものが、過不足なく響き合うような姿が芸術の理想なのかなと思うようになりました。もう一度リアリズムに自分なりに向き合わないとという気持ちですね。それと、この先も生きていくということです。三島由紀夫みたいに、ここで死ぬっていう選択を私はしなかった。三島は四十五歳で死にましたけど、そこを超えて生きていくっていうのは、次の時代を生きていく人を育てることに関わるんですね。そうすると、新しいリアリティをぶつけながら次の時代につなげていく姿勢が必要になる。若い頃の純粋性へのこだわりみたいなものは、人間観が変わったり、自分自身も相対化できるようになったりして、だんだん「未来」をやめた理由が薄れていったんです。もうひとつの大きな理由は、「未来」をやめていた間、岡井さんや「未来」の仲間のことがまったく自分の中で薄らがなかったということですね。二〇〇九年に嵯峨直樹君が歌集を出して、パネリストとして上京したことがありました。懐かしい人にいっぱい会って、なんだか「未来」をやめたはずなのに、やめた感じがしなかった。ここに自分がいるのがすごく自然で、逆に「未来」にいないことのほうが不思議だったんです。その感覚を強く覚えています。それから二〇一六年の八月頃ですね。感覚としては、かさぶたが剥がれるような感じで、ふと「未来に戻ろうかな」と。それで、妻に言ったら「いいんじゃない、私は前から戻ったほうがいいと思ってた」って(笑)。

――私は、高島さんが「未来」にいた時期を知らないはずなのに、不思議と「いるべき人が一人いるはず」って思ってたんです。これで自然な形になりましたね(笑)。それはやっぱり高島さんの歌を読んで、岡井さんの影響の大きさを感じていたからだと思います。『文机』を二〇一二年まで出されて、そのあと『黒日傘(くろひがさ)』を出されます。この変化というのはなんでしょうか。
 今言った、妻のグラフィックデザイナ―の石﨑悠子と出会ったということが大きいですね。他者の力で自分が変わっていくのに驚いたし、いい形で変わっていける相手だったんです。人間としても表現者としてもリスペクトしています。

――『文机』とは違って『黒日傘』はゲストを迎えるという構成です。ご結婚されたことの影響が大きいのですね。
 そうですね、それはあります。『黒日傘』のディレクションと発行者は妻ですし。以前、『旧制度』の批評会に黒瀬君が来てくれたときに「島宇宙」という話をしてくれたんです。ひとりひとりの歌詠みは自分の世界を持っていて、それぞれの世界は豊かで面白いんだけど、他者とぶつかって、昔みたいに論争するっていうのにはなりにくいような状況だと。今はまた違うのかもしれないけれど、長い間、その状態が続いてたと思うんですよね。その「島宇宙」はそれぞれにあるとして、同じテーマでそれぞれの「島宇宙」をぶつけたら面白いんじゃないかなと。それが『黒日傘』です。最初は石川美南さんをゲストに招きました。私と石川さんはだいぶ違うし、さぞかし面白かろうなと思って「滅び」というテーマでやったんですね。確かに違うことは違うんですよ。でも、思っていたよりは共有していたものがあるなと。今、第七号まで出ていて、これからも続ける予定です。

――岡井さんが『旧制度』の解説に「一言でいへば、浪漫的な激情歌である。」と書いています。『雨を聴く』でも激しい恋愛の歌が多いですね。「パレスチナの少女が自爆せし時刻炎のごとく君を思ひゐき」とか。この「激情歌」というのが最近変わってきている印象があります。だんだんしっとりしてきたと思うのですが。
 最初は漢語志向が強かったですね。そのうち懐かしいものに回帰していって、和語の志向が強くなってきました。

――それと、年齢を重ねられたっていうこともありますよね。最新の第五歌集『饕餮の家』の恋愛の歌はものすごく静かです。「最終の恋はしづかにめぐり来て今ひとり聴く花のこゑごゑ」「われへわれへとあなたを連れて遡上する。夕暮れまでに間に合ふだらう」とか、今まで見たことがないような静かで深い歌になっていると思います。

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「結社の恩恵は極めて大きい」

――最近の「未来」はどうですか? 
 前と比べて若い人の雰囲気は違うのかもしれないけれど、粒ぞろいで、面白い歌を作る人が沢山いて頼もしいと思いますよ。

――一方で結社に入らない若手も増えたと思うんです。入らないのはひとりひとりに理由があるのでしょうけれど。
 結社は近代にできたシステムですからね。より豊かに和歌文学の伝統が引き継がれていくのであれば、どんな形であっても構わないと思いますし、人によって向き不向きがありますから、こうじゃなきゃいけない、っていうのはないと思います。ただ、私自身は結社の恩恵は極めて大きいですね。「未来」をやめている時期に「塔」の座談会で言ったこともあるんですが。

――二〇〇八年九月号の「結社とのつきあい方」という座談会ですね。結社をどう捉えているのかを漢字一文字で表す、という題に、高島さんがあげられたのが、「恩」。
 尊敬する歌人のもとに集まって切磋琢磨していくっていう、その営みの連続性の中で蓄積されていくものの豊かさっていうのは捨てがたいものがあります。それはなかなか悪くないものだよっていうのは、結社に入らない人に言いたいですけどね(笑)。

――私も、無所属の十年があって、だからこそ結社のよさみたいなものがすごく身に染みていますね。
 でも私、こんなこと言ってますけど、十四年間無所属でしたからね(笑)。もちろん、ひとりでやっていたことによる自信とか達成感はあるんだけど、ひとりで頑張っている間も、そうやっていられるのは岡井さんとか「未来」に育ててもらったおかげなので。それは忘れたことはないです。

「首都の会とMOSTの会」

 錦見さんが「未来」に入られたのはどういうきっかけがあったんですか。

――あ、私の話になるんですね(笑)。それはやはり「首都の会」に参加したことですね。
 あの会は面白かったからね。

――あの頃の「首都の会」はすごいメンバーが毎回参加していました。「首都の会」に行っていなかったら、歌をこれまで続けられたかどうかわからないです。運命のひとつというか。初めて「歌会」というものに参加したのが「首都の会」なんです。田中槐さんがお誘いくださって、どんな会かもよくわからないまま参加しました。それが岡井隆主催の会だった。めちゃくちゃ緊張しながら参加した初回に、よくわからないけどなんか素敵だなって思って高島さんの歌に票を入れたら、その歌の批評が当たってしまって、しどろもどろで発言したのをよく覚えています。そのことはエッセイ集にも詳しく書いたのですが、調べがいいなと、あまり意味も考えずに票を入れたんだと思いますね。「首都の会」には高島さん、嵯峨さん、笹公人さんや中澤系さんなど若手の「未来」の男性メンバーがたくさん参加されていて、笹さんにもそのとき初めてお会いして、よどみない語り口でぴりっとした評をされるのが衝撃的で、終わってから、あの方はどういう人なのかと槐さんにお聞きした覚えがあります。歌も今まで読んだことがないような印象で。あと中澤系さんの歌にも驚いて、票を入れたと思います。私はそれまでひとりぼっちでやってきたので、こんな人たちがいる場所があるんだというショック、インパクトがすごくありました。当時「MOST(モスト)の会」っていう、未来の男性の若手の頭文字を取った会があったんですよね。Mは村上たかしさん、Oは大隈信勝さん、Sは嵯峨さん、Tが高島さんの四人がメンバーでした。
 その中で、嵯峨さんだけがずっとやめずに残っている。意外と強かったんだなあって思います。嵯峨さんも強烈な人ですけど、個性的なメンバーが「未来」に揃っていましたね。

――私が「未来」に入会して最初に書いたのが、初めて行った松山大会の印象記なんですけど、それが載った次の日くらいに吉野亜矢さんから――吉野さんのことを少し書いたんですけど――「書いてくれてありがとう」って反応があってびっくりしました。こんな体験は無所属の十年間には一度もなかったです。何かを発表しても読まれているか全くわからない真っ暗闇にいるような状態だったので、すごいことだなと思いましたね。あとは「大会」も何が行われているか知らなかったので、初めて参加して驚きました。だって、歌さえ出せば、岡井さんが読んで何か言ってくれるって、とんでもないことですよね。衝撃的でした。
 選者に送れば読んでくれるって、なかなかすごいシステムですよね。ただ、そのシステムを支えている人の努力があるわけです。事務をやってくれている人もそうだけど、選者はすごいなと思いますよ。岡井さんだって、選歌欄の人からの原稿は自宅に届くわけでしょ? 

――毎日どれだけ届くんだろうって思います。
 しかも、評論を連載して自分の歌を作って……いったいどうやって時間を作っているんだろう。

――歌人って大変なものだなって、やればやるほど思いますね。普段の仕事もあるし。
 器用っていうのとは違うけど、皆さん、手を抜いていないからすごいですよ。そういうのはできないかもしれないですね、私は。

――今年(二〇一七年)の夏は富山大会がありますね。
 なるべくお役に立ちたいとは思っているけど、私は器用じゃないからね。でも岡井さんからは「黒瀬君を支えて頑張ってくれ」と言われています。

――尊敬する歌人にそういうことを言われるっていうことがすごく大きいですよね。この間の未来の新年会でも、恒成美代子さんのような近藤芳美さんのお弟子さんたちがいらして、いろいろ言ってくださったり教えてくださる、そういうことが財産になっていくんですよね。結社に入って一番よかったのは、一人でやっていたら絶対に出会えなかったはずの方々と言葉を交わしたり、何かを言ってもらえるっていうことなんです。それは生涯自分を支えてくれるんじゃないかって思いますね。

「書いたものが人の心を動かせれば勝ち」

――『黒日傘』は毎回若手歌人を中心にゲストを迎えておられます。「塔」の花山周子さんとか、人選は毎回、今一番面白い歌を作っている人たちという印象ですね。最新号では堂園昌彦さんを迎えておられて、すごくスリリングで非常に面白かったです。二人とも攻めている感じがしました。
 編集後記にも書きましたけども、堂園君は、口語なんだけど、文語と同等くらいの重量感とかエロスとか、そういったものが感じられるところが好きなんです。あとは、詩の本質的なところである、不可能なものに対する希求を持っている人だと思って共感しています。彼が取り上げているドイツの作家のW.G.ゼーバルトは読んだことはないんだけど、彼の文章を読んでいると、読んでみたいなと思わせるんですよ。ノスタルジーが、個人の記憶のレベルを超えて、集合的なところまで広がっていく、そこが面白いです。あと、最近の若い人たちで面白いなと思うのは、私なんかでは考えつかないような、身も蓋もない俗な表現だとか、即物的な表現とかをうまく取り入れて、なおかつ美しい調べの歌にしているところですね。

――例えば誰ですか?
 内山晶太君の歌。彼はそんなに若くないのかもしれないけど、若い世代の方法を象徴していると思います。彼のこんな歌があって。「しじみ蝶ひらめきながら白昼を目先の金のように飛びおり」これにはすごくびっくりした。短歌で「目先の金」を使うのって、普通は躊躇するんだけど、ちゃんと歌になっている。若い人はそのあたりを自然に取り入れていると思います。

――「わからない歌」の問題もあります。
 わからないっていうことは面白いっていうことだと思いますよ。そんなに簡単にわかるわけないんです。若い世代の歌がわからないっていうのは昔からあったことで、みんながそう言われながら成長してきたんですよ。つねに未知のもの、今までなかったものに触手を伸ばしていかなければ和歌文学の伝統は終わってしまう。前の世代に「わからない」と言わせる若者がいるということは希望でもあります。

――今は連作の時代なのかなって思うときがあって。特に、新人賞の選考会では以前はなかった、この人は男なのか女なのか、職業は何なのか、連作の中から作者像を決めたがっているのが気になるんですよ。
 それについては私も非常に違和感がありますね。私は別に書いてあることが全部嘘でも構わないと思っています。父親が生きているのに死んだように歌ってもいいんですよ。実際、そういうことをやろうかなと思ったこともありますし。母は健在ですけど、死んだことにしようかなって。そしたら、死んだことにした歌を想像して泣きそうになりましたけどね(笑)。基本的には短歌は虚構の次元のものですよ、書いたものなんだから。

――連作と一首の独立性の問題についてはどうでしょうか。
 これは大きな問題です。私は連作という方法には非常に助けられてきているんですけど、自己ベストの歌を何首か挙げろって言われたときは連作の中の歌は全部外してますね。例えば第一歌集の「首都赤変」、第二歌集の「オイディプスの帰還」とかの連作はすごく思い入れがあるんです。ただ、それは連作としてだけ読んでほしい。連作としてしか読めないような作り方なので。それ以外は一首でも読めるように、とは意識しています。生活する中で感じることを歌にするということと、自分の中にある物語というか、ひとかたまりのイメージになっているものを連作で展開していくということ、その二つの方法が、どう結びついて、どう違うのか、わからないながらもずっと同居しているような感覚があります。

――でも、現代短歌はそういうふうになっていますよね。
 私の場合は、倫理性よりも欲求のほうが先にあるので、ある種の人には責められるかもしれません。ただ、歌に関する限りは、これを伝えていいかどうかっていうのは考えていないんです。自分勝手であって構わないし、それぞれが自分勝手にしているのを、みんなで楽しむのが文学ではないかと思っています。実景や実体験から取材してきた歌があっていいと思うし、完全な空想で連作にすることもあっていいと思う。それを、今、存在している読みのモードに投げかけていきたい。自分が歌を作りたいという欲求に忠実であるというだけです。いくら怒られてもやりますよ。書くのは止められないですから。自分の書いたものが、人の心を動かせればそれで勝ちです。

――連作の話でいうと、高島さんの大事な連作は「母」で始まるんですよね。
 そういえばそうですね。初めて気がつきました。

――「首都赤変」の中の「比島沖に赤きのしぶく朝途絶えしならむ、母を呼ぶこゑ」は、伯父さんが戦争で亡くなったという現実の話とほとんどリンクしています。
 これもイメージとしての母なんですよね。伯父がフィリピン沖で戦死していること、それと、母からよく聞かされていた、日本の若い兵隊たちは「天皇陛下万歳」と言って死ぬっていうけど、それは違う、みんな「お母さん」と言って死んでいくんだっていう話、それがあってその歌になっていると思いますね。

――イメージだけど、胎内にだいぶ入っている感じ。
 母胎回帰的な衝動はこれまでの歌集のなかにもあります。でもこれからはちょっと変わるんじゃないかなと思いますね。

――「未来」に復帰された作品を読むと、お子さんができたというような。
 そうですね。もうすぐ産まれます。

――この私生活の変化はすごく大きいですよね。黒瀬さんもお子さんの歌を沢山作っていますし、自然にそうなるんでしょうね。
 これも生活上の必然と文学上の必然が重なった形ですよね。「未来」に復帰したことと子どもができたことは、直接の因果関係はないけど、響き合うような関係はあると思います。

――これからの高島さんの歌の変化を楽しみにしています。今日はありがとうございました。

(二〇一七年一月二十一日 未来発行所にて収録 構成/岡崎裕美子)

高島裕(たかしまゆたか)●プロフィール
一九六七年富山県生まれ。一九九六年「未来短歌会」入会。一九九七年度「未来年間賞」受賞。一九九八年「首都赤変」にて短歌研究新人賞候補。二〇〇〇年第一歌集『旧制度』刊行。同歌集にて「ながらみ書房出版賞」受賞。二〇〇二年第二歌集『嬬問ひ』刊行。同年「未来短歌会」を退会する。二〇〇三年第三歌集『雨を聴く』、二〇〇七年第四歌集『薄明薄暮集』、二〇一〇年散文集『廃墟からの祈り』刊行。二〇一二年第五歌集『饕餮の家』刊行。同歌集にて寺山修司短歌賞受賞。二〇一六年「未来短歌会」に再入会。二〇二〇年六月より選者に就任する。富山県在住。

錦見映理子(にしきみえりこ)●プロフィール
一九六八年東京都生まれ。一九九七年「開放区」に参加。二〇〇三年第一歌集『ガーデニア・ガーデン』刊行。二〇〇七年「未来短歌会」入会。二〇一八年小説『リトルガールズ』で太宰治賞受賞、同年末刊行。同年エッセイ集『めくるめく短歌たち』刊行。東京都在住。


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