見出し画像

積み重なる新しさ(馬場めぐみ)

―― 三巡目「短歌の過去・現在・未来」

 短歌研究十一月号掲載の石井僚一さんの連作二十首「短歌をやめた日」がとても印象的だった。

  あなたに賭ける、と言われて、この人に短歌のすべてを賭けよう、と思った東京の日
  電話をすれど電話をすれどつながらない日 あなたは短歌をつくっていました
  こんな歌つくらないほうがいい、と言われて歌会にいくのをやめた日
  なんだか嫌なきもちの日
  会えば殴るか刺すか首を絞めるかしてしまうと思って二度と会わないために短歌をやめた日

 短歌を始めたことで出会い、熱い思いを抱いた相手と関係がこじれ、愛憎の末に短歌という表現形態及び短歌の場から離れた、というはっきりとした筋のある連作だ。
 五七五七七に到底収まらない言葉の羅列も、一方で上の句にも下の句にも満たないほど短いフレーズも、「二十首連作」というフォーマットの中の一行として提示されることで連作の中で機能する「一首の短歌」となる。感情のままの作品のようでありながら理性とアイデアと抑制とその先の普遍性があるし、だからこそ胸を打たれる。
 石井さんは最初から爆風とともに現れた。短歌研究新人賞受賞と同タイミングで巻き起こった虚構問題。「父の死」をテーマとした連作の作者の父が実在していたことを巡り議論が起こった。受賞したのは彼がまだ短歌を始めて間もない頃だった。
 辺見さんが書かれていた「表現方法として短歌を選ぶことは、ある共同体に参入することとほとんど等価」に私も頷くのだけれど、石井さんは、共同体への参入に対する強い意識がないうちに足を踏み入れ、前線に立つことになった歌人ではないか。自分が作る歌が他者の価値観を動揺させてしまうというのは、自分にも衝撃を与えることだ。
 受賞と論争のなかで、「短歌って何だ!?」「短歌を短歌たらしめるものとは何なんだ?」「自分にとって短歌表現とは何なのか?」ということをかなり必要に迫られて、突き詰めて考えることになったであろうことは容易に想像がつく。
 型がある表現だということはつまり「型破り」があり得るということだ。どれが「型破りな短歌」で何が「短歌ではない」のか。自分の中にある、短歌で表現したいこととは何か。短歌が自分に本当にあったことを詠むというのが原則だとしたら自分は本当にあったことの中で何を短歌にしたいと思うのか。そんなことたくさん考えて石井さんは短歌を作ってきたんじゃないかと、この連作を読みながら強く感じた。
 それはもちろん、短歌を作る者みんながみんな考えていて、考えてきたことだ。
 今に至るまでの歌人が今の短歌を作っている。例えば口語で短歌を詠むことも、過去には革新的で、現在においてはもう過去の蓄積のある行為だ。どんどん色んなひとが新しいアイデアを試みて、試行錯誤して、それぞれの格闘がまた新たな蓄積となって新しい短歌を形作っていく。
 私が作る短歌が、私が今見ている同時代の歌人の短歌が、未来でどのように見えるのか。見え方が全然違うのかもしれないな、と考えるとすこしざわざわするような、不可思議な世界に迷い込むような気持ちになる。どきどきわくわくするし、知りたいなと思う。

  見たことがないものはもうそんなにはないはずだけどうつくしい空

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?