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沼へ(山川築)

――一巡目「短歌と私」

 田丸さんの文章は、さわやか、と思った。一篇のプロローグのようでもあり、するっと最後まで読まされて、じーんと余韻が残る。西村さんの文章は、劇的、と感じた。文体の力も大きいのだろうけれど、なにより短歌との出会い方自体が、劇的。わたしの文章は、どんなふうだろう。

 高校生のころ、歌集を一冊だけ読んだことがある。笹公人さんの『抒情の奇妙な冒険』という歌集だ。SF叢書から出ていたし、変な題名だったので、気になったのだ。
 二〇一五年、NHKで笹さんの『念力家族』がドラマ化された。あれ、これって『抒情の奇妙な冒険』と同じ人じゃん、と思って、文庫化された『念力家族』を買い、読んだ。次の一首は、わたしにとって最初の愛唱歌だ。

  少年時友とつくりし秘密基地ふと訪ぬれば友が住みおり
  /笹公人『念力家族』

 笹さんの歌集以外にも、教科書で短歌を読んだことはあったし、短歌を作っている人が現代に存在することは知っていた。とはいえ、なんというか、遠いなあという気もしていた。
 偶然、短歌を作っている人のブログを見つけたのは、『念力家族』を読んだのと同時期だったと思う。工藤吉生さんの「存在しない何かへの憧れ」というブログだ。そこには、自作の短歌や、読んだ歌集・雑誌の感想が書かれていた。たとえば、笹さんの歌と工藤さんの歌は全然違ったし、さらに様々な傾向の歌がたくさん引用されていた。率直に、短歌はおもしろいと思ったし、それまでより近いものに見えた。

  そこここに空を見ている人がいて青さを喜び合っている夢
  /工藤吉生「短歌研究」二〇一四年九月号

 ブログを読んでいるうちに、「うたの日」というウェブサイトの存在を知った。そこでは毎日、多くの人が短歌を投稿し、相互に投票や講評を行っていた。はじめて投稿する人もいれば、何十日も続けて投稿している人もいた。最初は見ているだけだったが、やがて、自分でも投稿するようになった。軽い気持ちで投稿できるのは、ネットのいいところだと思う。
 短歌を作り始めて、家には父の買った歌集や歌書、雑誌がいろいろあることに気づいた。また、父だけでなく、母方の祖母や、父方の大伯母、大叔父も、それぞれ短歌を作っていたというではないか。全然知らんかったわ。ちょっとお得な環境だったのかもしれない。

 しばらくして、現実の歌会にも参加した。大阪で大辻隆弘さんを中心に開催されている、新淀川歌会という歌会だ。なぜそこを選んだのかといえば、大辻さんと父が旧知の間柄だったからだ。思い返せば、父がときおり、

  ぼくは君を、象が踏んでもこはれないアーム筆入れ、ふふふ好きだよ
  /大辻隆弘『水廊』

とかなんとか口走っていた気がしないでもない。
 歌会では、「これはええんちゃうか」と思った歌が、思いもよらぬ方向から評されることが何度もあった。「うたの日」でもそういうことはあったが、歌会のライブ感は、ネット上での評とは違う楽しさ、快感を呼び起こしてくれた。とりわけ大辻さんから「Twitterでいいねをもらえそう」という評をもらったことが印象に残っている(ほめことばではありません)。
 そんなふうにしてわたしは、短歌の沼にはまっていった。

 写真展に人まばらなり受付の青年の読むモービィ・ディック

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