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コロナ・ネット・断絶・現代(山川築)

 西村さんの日記を読み、虚を突かれたのは、漠然と現代を捉えるのではなく、まさにいま現在進行中の事態である新型コロナウイルスを取っ掛かりにしていることだった。いや、それは自然なことかもしれないが……わたしにはその発想がなかった。
 「コロナ読み」の話になるほどと思う。わたしも意識下では影響を受けているだろう。西村さんは慎重に書かれているが、状況や感情を代入して読める(場合が往々にしてある)のも、短歌の価値だと思う。一方で、新型コロナウイルスの歌しか詠めない、という声は意外なのだけれど、これは、わたしが新型コロナウイルスによって受けた影響が相対的に小さいからかもしれない。
 「短歌と現代」というテーマを見たとき、現代的な短歌、という語が頭に浮かんだ。現代的な短歌とはなにか。たとえば、新型コロナウイルスについて詠んだ歌が現代的、なのか。

 田丸さんは、掲示板やブログで短歌を発表し、交流したと書かれている。現代の短歌をインターネット抜きで語るのは、もはや不自然だろう。たとえば、インターネット上で選考経過が公開され、斉藤斎藤さんや笹井宏之さんなどを輩出した歌葉新人賞(二〇〇二年~二〇〇五年)は、わたしにとってはほとんど「歴史上の存在」である。
 インターネットの発達により、見えにくかったものが可視化されたり、それまでにないリアリティが生まれたりした、という話はたくさんあるだろうし、短歌に関しても例外ではないだろう。そういう部分を掬う短歌は、もしかすると現代的と呼べるのかもしれない。
 こんな認識も、そもそもインターネットを利用されたことのない方には、まったくピンと来ないのだろうか。

 などなどと思いながら、山下さんが述べている「〈ばらばら〉の感じ」というフレーズを読んで、断絶のことに連想が飛んだ。短歌をはじめてから、石井僚一さんの新人賞受賞に端を発する虚構問題や、服部真里子さんの「水仙と盗聴」をめぐる議論など、つい最近にも論争(らしきもの)があったことを知り、さかのぼって何人かの発言を読んだ。世代論は苦手だが、世代間のギャップを否定しきるのは難しく思えた。
 「かりん」五月号の時評で丸地卓也さんが、若手歌人が年長者を詠みんだ歌を取り上げて、「対立構造を生みがちな世代間のギャップだが、作品においては散文で語りえない次元で架け橋ができているのではないか」と指摘している。そういう考えもあるのか! と思いつつ、この指摘の当否は判断がつかず、韻文による架け橋が、対立の本質的解消につながるのかも、よくわからない。
 いたずらに断絶を広げようとする言説には、うへえという気持ちになるので(たとえば某短歌総合誌のコラムとか……)、この文章がそうなっていないことを願う。

 わたしの現在の欲望としては、あんまり現代的にどうこうということは意識せず、むしろ古い方へにじり寄って、短歌という巨大な概念の奥に手を伸ばせないだろうか……というところだ(なんだか大辻さんの猿真似みたいな言い草になってしまったが)。そこに断絶を埋める手がかりがある、とも信じたい。もしかすると時代錯誤な営みかもしれないが、それが巡り巡って現代と接続しないと誰が言いきれるだろう。

 いかなるものが満たすだらうかただ歌がそよぎしのちの吾の空隙を

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