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世界は「問い」でつながっている。

先月、僕は自身の研究を30ページ弱のEnglish Paperとしてまとめて、計算機科学(Computer Science)の暗号学(Cryptography)で権威的な某国際学会にそれを投稿した*0。まず、学部3年にもかかわらず国際会議Paper執筆の機会を頂いた弊研究会や支えてくれた仲間に感謝したい。そしてお返しというわけではないが、今私ができることとしてはこれらの経験を次につなげることだと感じている。次につなげること、それは後発研究を行うことだけではない。論文執筆に関するノウハウや執筆時の気づきを共有することは大学にいる身として大切だと考え、このブログを執筆した*1。
だが、世の中にはたくさんの研究者の方がいらっしゃって、論文投稿に関する様々な知見がインターネット上に公開されている。僕はこの方々のブログを参考にさせていただき論文を執筆できたといっても過言ではない。よって参考にした記事をシェアすること、それだけでも良いのかなと考えたが、学部3年でなぜ論文を書くのか、それをベースに論じられているブログは少なくとも僕が眺めたが限り見受けられなかった。
誤解がないように一点ことわっておくが、Academiaに年齢・国籍は関係なく、学部生だろうが、ラボの教員はともかく世界中の研究と同じ土俵で知の積み重ねに貢献する必要がある。よって学部生だからといってこれらの点で妥協できる点は何一つない。 その点に関しては期待してほしくないが、学部生の僕が論文執筆を通じてどのようにAcademiaを認識・解釈したのか、そのような観点で橋渡しができれば幸いである。

このブログは以下のようなトピックで構成される。まず、僕が学術論文に関してどのような解釈を持っているのか、執筆時まで気づけなかったエッセンスと誤解を学部生の視点から論じたい。これらの観点から現行の研究会・ゼミ運営で主流の輪読に関して考えていくとともに、学部生が論文を書く意義について考えていきたい。

おことわり(Notice)
本稿で論じる内容については、私が所属している団体等の公式見解等ではなく、私自身の独断と偏見に基づく構成、解釈であることをご理解ください。そのため個人の主張にとどまることを念頭に読んでいただきますようお願いいたします。また私は主にComputer Scienceの分野を専門としており, これらの見解はすべてのDomeinに共通するものでない可能性は十分に考えられます。

学術論文とは何か。

「論文」と聞いて、あなたは何を想像するだろうか。少なくとも僕の周りの学部生や後輩に聞いた話では、堅苦しい英語、難しい手法、難解な数式のオンパレード、知的大喜利(膨大な知識を組み合わせてそれっぽい解を生み出す芸)だという認識を持っているように聞こえる。実際、僕もまともに研究をするまではこのようなイメージを持っていたことは否定できない。

結論から申し上げると、これらは論文を構成する必要条件ではない。この解釈を持っている方は、おそらく論文に対してなんらか誤解を持っていると僕は思う。このセクションでは、学術論文とはなにかについて論じたい。

では論文とはなんだろうか。僕の見解では「論文とは国境などのボーダを排除した知的生産の保存創発を行う仕組み」だと考えている。
この主張を補うために以下に有名な図(Chart)を添付する。

出典:The illustrated guide to a Ph.D.
https://matt.might.net/articles/phd-school-in-pictures/

この図はPh.D.(Philosophy of Doctor、博士号)取得で求められる知的生産の位置付けを模倣したものである。円周は現時点で先人たちによって発見・解明・創発された人類が保持する知的財産を表している。Ph.D.を取得するためには、学術研究を通じて人類の知的生産に貢献し、このボーダーを少しでも押し上げなければならない。すなわちこれまで誰も発見・解明・創発されていない新たな知を"人類のため"に積み重ねる必要があるというメッセージをこのChartは私達に伝えている。しかしこれはPh.D.取得に限らず、論文執筆のモチベーションとしても共通する考え方であると僕は思う。

ここで一度話を変えて、インターネット上で「論文」と検索をかけると論文は次の三要素から構成されると説明される。「新規性」「有用性」「信頼性」だ。
これに関しては僕が説明するよりも記事を読んでいただいたほうがよいので、リンクを記載する。このブログではこのようなスタイルをたびたび取ることをご了承いただきたい。

よく、論文に大切な要素はなにか、と質問をすると第一に上がってくるのは「新規性」という言葉だ。超簡単に訳すと「これまで誰もやったことないかどうか」である。だが、この言葉だけに流されてしまうと、僕の経験上、論文内で論じられている「手法」だけに目が行きがちな傾向がある。つまり論文内で定義されている問題を”どのように”解いたか、解き方そのものに意識が行きがちになる。では解き方にフォーカスするとどのような弊害があるのだろうか? 僕の見解としては人類の知の構築がどのように行われてきたのかという変革をMisunderstandingする可能性があると考えている。この理由については後々後述するが、先に結論を申し上げると、知の構築は手法をベースにしているのではなく問いがベースになっているがゆえに、手法ありきで全体を見渡そうとすると「井の中の蛙大海を知らず」状態になってしまうと僕は結論を出している。

Misunderstandingを避けるために僕が「新規性」以上に意識したい要素がある。それは「有用性」だ。有用性はこの論文が学術にどのような影響を与えるか、そして実社会で役立つかという視点であると僕は解釈している。

有用性に関してもう少し考察してみたい。有用性の視点で見ると、僕の見解では論文の事例としては大きく二つに分けられる。それは「仕組みとしての有用性」と「ビジョン・問いとしての有用性」だ。
前者は論文内で提案された手法が、実社会に適応可能かどうかを指している*2。つまり実社会に存在するProblemを解決する手段として、提案された手法が用いることができるかどうかだ。どんなに誰もがやっていない手法であって学術研究としての「新規性」を担保されていたとしても、その手法が実社会でどのように用いられるのかどうかという「有用性」が欠落していては話にならない。その研究を行うことで「誰がHappyになるのか」どうかを”よく”考える必要がある。よくある誤解として「誰もやっていないからインパクトがある」という筋違いの解釈が見受けられる。大切なのは手法としての新しさだけではなく、なぜ今までやられていなかったのか、その穴を探ることが大切である。
だが、有用性を評価できる対象は「手法」だけではない。僕が今回、一番Clamingしたいのは「ビジョン・問いとしての有用性」だ。

まず「ビジョン」や「問い」と聞いて何を想像するだろうか。説明のために安宅先生の資料をお借りしたい。

https://www.pref.toyama.jp/documents/19621/ataka04.pdf

注目していただきたいのはp.129「ビジョン設定型(タイプB)」のチャートである。ビジョンというのはまさに「目指すべき姿」のことを指している。つまり「あなたはどういう世界やシステムを作りたいですか?」という問いかけである。この質問は少々アバウトなので、僕の分野に当てはめてもう少し抽象度を下げていくと「暗号通貨のインセンティブだけに依存しないブロックチェーンの技術応用を推進できるように」、「インターネット上における情報の信頼(Trust)を醸成し、それぞれのユーザーが検証できるように」のように、「現状はそうなっていないけど、こうなったらいいよね」という理想状態のことを指す。ビジョンには、決まったスケール感や抽象度はなく、またその世界が定量的に計測可能でなくてもよい。またそのビジョンを構想するにあたり様々なバックグラウンドが含まれていてもよいし、人と違ってよい。大切なのは自分自身でどういう方向性に議論を持っていきたいのか、議論の下地となるビジョンを持つことである。

問いとは、理想状態に一歩でも近づくためにケリ(白黒)をつけなければならない問題のことを指す。例えば「暗号通貨のインセンティブだけに依存しないブロックチェーンの技術応用を推進できるように」というビジョンに対しては、「どのような社会問題に対してブロックチェーン技術を用いた解決策が展開可能なのか」という問いや、「ケースXにブロックチェーン技術を用いる場合、技術がもたらす制約は何か」、「この制約をカバーするために、どのような策があるか」などが考えられるだろう。このようにビジョンと現状とのギャップを埋めるために、何を明らかにしないといけないのかを(再帰的に)探索し、その結果として”なにに白黒をつけなければならないのか”を明らかにすることは研究するうえで欠かせないと僕は考えている。

だが、ビジョンや問いを持たなくても研究もできるし、論文は書ける。研究にビジョンなんて不要だとお叱りを受けそうだが、実際その通りである。正確にはビジョンを持っていないのではなく、他人が提唱したビジョンに共感し、お借りしている状態を指す。ビジョンを意識せず研究に取り組んだ場合、僕の経験則では「精度を良くしたい」「解像度を高めたい」「処理速度を速くしたい」など誰でも思いつく「最適化の未来」というビジョンを背負う傾向が強い*3。
ビジョンを意識的に持っている人と持っていないひとにはもうひとつ明確な違いがあると僕は感じている。それはRed Oceanで戦うか、Blue Oceanで戦うかの違いだ。ただ、この議論には一つ言葉が足りない、それは「どこがRed Ocean、Blue Ocean」なのかというOceanの境界線、対象のことだ。これらを議論するための前提知識として理工学部渡辺先生のスライドをお借りしたい。

出典:論文の読み方 / How to survey
https://speakerdeck.com/kaityo256/how-to-survey?slide=4

このスライドが伝えたいメッセージとして、学問的なトレンドの起点は一つの画期的な論文から始まるということだ。では、このひとつの論文とはどんな論文なのだろうか?まず一つ上がるのが「被引用数」だ。これは、この研究が後発研究内で引用された件数であり、論文のインパクトを測るうえで欠かせない指標となっている。だが、さらに問いかけを深めていくと、被引用数という数字が伝えるメッセージとはなにか?ここで北川先生のツイートを掲載したい。

後発研究に引用されるモチベーションとして、この研究が新しいアイデア(研究)の創発にいかに寄与したかということが考えられるだろう。では、アイデアの創発に寄与する論文とはなんだろうか。僕の経験では、新しいビジョンや問いを定義をしてくれる論文だ。つまり、ビジョンや問いに新規性、有用性があるといえる。もちろん、論文なのでビジョンや問題定義をするだけではなく、その問題解決のための手法(や評価)もあわせて提案されている。だが、評価されているポイントはこれらの手法ではなく、論文内で設定されたビジョンや問いそのものであるであると僕は解釈している。したがって、被引用数は多いのにも関わらず、手法や評価方法がイケていない論文に遭遇した経験があるかもしれないが、それは評価されているポイントがそもそも違う*4。でもAcademiaではそういう論文が「画期的な論文」となり、たくさんのフォロワーを集める*5。フォロワーは、このビジョンと現状とのギャップを測定し、「こうすればこのギャップを少し/完全にFillできるんじゃないか」と仮説を立てて、様々な手法を提案し、それらはAcademiaで論じられる。これは紛れもない事実である。

ここで、話を少し戻したい。僕はブログの冒頭で論文を「論文とは国境などのボーダを排除した知的生産の保存と創発を行う仕組み」と定義した。ここで伝えたいポイントとして、大切なのは保存だけではなく"創発"を行う仕組みであるということだ。創発の具体例としては後発研究がそれにあたるだろう。では、後発研究を行うモチベーションとはなんだろう。それを紐解くために、論文そのものを知の体系を築く1つのパーツとして考えたとき、それらがどのように結合しあっているのかまず考えてみることにする。

論文を通じて知の体系を理解するうえでまず意識したいポイントは、個々の論文はどのような問いにアプローチしたのか、そしてどのような手法を用いてどの程度解決できたのか、また新しく誕生した問いはなにかである。これを関数に例えると以下のようになる。

僕はこの関係性をClaming関数と呼んでいる。こうすれば先人たちが残した問いに対してアプローチできるというClaming(主張)が未来に残す問いを新たに定義し、知の体系を拡張させるという見方ができる。

すなわち個々の論文は上の繋がりをLiterature baseにパッケージングしたものである。少し抽象的でわかりずらいかもしれないので、Claming関数を具体例に落とし込んで考えてみよう。例えば、「人の顔をコンピュータが認識できないか」という問いを考えたとき、論文ではこの問いをInputとし、どうやればこの問いにアプローチできるかというClamingを行う。例えば「Deep Neural Networkを用いれば人の顔を60%認識できる」という手法とその結果のセットがClamingに相当する。結果的にこの論文は「あと40%の誤判定をどのように改善するか」という新たな問いを残し、これがOutputとなる。だが、Outputは必ずしも一つだけではない。もしかしたらこの論文では正面の顔に対する認識という仮定が置かれているかもしれない。よって暗黙的に「横顔の場合も同じく認識ができないか」という新たな問いも考えられる。

またこの考え方をもとに論文間へと視点を広げれば、誰かが残した問いに対して新たな問いを生むという連鎖関係になっているともいえる。このような問いをベースにそれぞれの知が結合するシステムこそが、人々の知的生産のモチベーションとなっており、”人類のための知の体系化”に欠かせない土台であると考えている。

Claming関数の合成関数とみなすことができる。

ここで僕はIssue Structure Mappingという概念を紹介したい。この概念は僕が提唱する概念なのだが、少し説明させてほしい。Issue Structure Mappingとは個々の論文をClaming関数を用いてMappingし、特定のDomeinやビジョンに関するAcademicなStructureを理解するために用いることができる。

Issue Structureの例。
この例では、各論文は一つの問いをInputとし、1つもしくは2つの問いをOutput(s)している。InputとOutputに含められる問いの数に上限はないことはことわっておく。

論文を見るうえでは、このIssue Structureを把握できるかが重要である。つまり自分が着目しているドメインでは、どういう問いが議論されていたのかということを時系列的に理解することだ。よくこのことを「研究パラダイム」という言葉で一般的に用いられることがある。だが、研究パラダイムという言葉があまり好きではない。よく「研究パラダイムを整理して」とお願いをすると、「手法」ありきで理解しようとするケースがある。これは非常にもったいないケースで先述した「最適化の未来」だけを背負うケースに当てはまる場合によくみられる。この議論は「最適化」という一つの問いに閉ざされた議論になる傾向が強く、結果的に異なる問いやビジョンに回帰して全体像を見渡せていない「井の中の蛙大海を知らず」状態に陥る根本的な原因であると僕は考えている。研究のモチベーションがあるにもかかわらず、研究の可能性をふさいでしまう入り口になることが多いのがこの部分だ。

学部生がIssue Structureを意識する1つ手立てとしては、論文の輪読を工夫することにあると僕は思う。輪読は、大体の大学のゼミ運営に欠かせない要素となっているが、ただ論文を読んでいるだけでは、教育的な目的を見失ってしまうケースがよくある。よって、ただ論文を読み込んで発表する場合、大体のケースでは手法90%、問題設定が10%、Next Stepsが0%となり、手法にフォーカスが置かれる議論へと展開されがちだ。しかし、僕は問題設定が40%、手法30%、Next Stepsが30%くらいの比重で議論されるべきだと考えている。輪読は一つの論文”だけ”に焦点が行きがちだが、いざ研究するとなると一つの論文だけではなくより広い視点で見渡さなければならない。輪読はその「見渡し方」を修得する場所であるとともに、先人たちが残した問いを踏まえてた研究の余白や時代に沿った新たなビジョンや問いを考える場になればよいなと思っている*7。

ここでOceanの境界線、対象の話に戻りたい。Oceanの境界線にはこれまでの議論を踏まえると「ビジョン」「問い」「手法」3つがある。またこれらは以下のChartのような関係性になっている。


内側になればなるほど競争率が高くなる。
また必ずしも各円に含まれる円(問いや手法)の数は一つではない。

そして新規性をアピールするポイントとして「ビジョンが違う」「問いが違う」「手法が違う」と下に行けば行くほど、どんどん他の研究者との競争度合が上がっていく*8。もちろんすべてがこのケースに当てはまるわけではないが、おおよそこのような法則があるのではないかと僕は考えている。よってどのレイヤーをTargeted Oceanとするかによって競争率は大きく変わる。そして、Targeted Oceanを「手法」にすれば、その問いに対してどういうイケた答え(手法)を出すかという大喜利状態を強いられることは自明である。だが、それは全体を見渡せば知の体系の一部であることを忘れてはならない。

ここまで論じて結局何が言いたかったのか、僕のメッセージをここに残したい。それは本題である「学部生」が論文を書く意義である。正直なところ、学部生が「手法」のOcean(たいていの場合「最適化の世界」)で戦うことは厳しいところがある*9。これは、世界中の研究者が同時に取り組みやすいからこそ血に染まったRed Oceanである可能性が十分に高い。だが裏を返せば、問いや、ビジョンといった世界で勝負すれば、学部生だろうが、世界に通用する論文を書けるということだ。原点の問いである「論文にどういう印象を持っているか」に戻ると、堅苦しい英語、難しい手法、難解な数式のオンパレード、知的・アイデア大喜利は論文を書くうえで必ずしも必要ではないことがContextから理解いただけるだろう。

しかし、実際このSpiritで臨もうとするとある壁に立ちはだかる場合がある。その壁とは、ビジョンや問いがなかなか見つからないというケースだ。ビジョンや問いの世界で戦うには、自分が"ときめくビジョンや問い"を見つけなければならない。だが、このようなビジョンや問いはいきなり天から舞い降りてくることはないし、そのようなことは期待してはならない。問いの発見に受動的な姿勢を取っていれば、問いを見極めるどころかまったく何も前に進まない状態になる。ではどうやって問いを見つけるのだろうか。僕の見解では、まず自分がときめくドメイン領域をひたすらDeepDiveする(何も考えず、そのドメイン領域を理解するために深く潜り込む、So whatを繰り返す)ことが大切だと考えている。ではどうすればDeepDiveできるだろうか。僕が持っている一つの答えとしては「学ぶこと」である。しかし、学ぶと聞くと受験勉強が連想され、人によっては悲観的な印象が根付いているかもしれない。だが、僕は受験勉強とは全く違う学びが必要だと強くClaimしたい。僕の解釈では、学問を学ぶ・修めるということは、問題を解くためではなく、問題を発見するためにある。Academiaにコミットするということは、先述した通り、知の穴埋めだけではなく、知の拡張であることを忘れてはならない。大学受験を始めとした受験勉強は、既存の知をひたすら人類にダウンロードするタスクである。さらに、学ぶ対象は問いではなく、問いにアプローチするための手法だけに絞られることが多い。だが、私達とりわけAcademiaのモチベーションとしては、先人たちの問いを踏まえて新たな問いを未来に残すことだ。これは前節で強くClamingしたことだ。したがって、学ぶ上で意識したいポイントは、受験勉強を始めとした経験則に基づいて学ぶのではなく、学びの段階を問わすIssue Structureを意識しながら勉強するとことだ*10。最初は今までと学びの性質が大きく異なるため、なかなか難しいかもしれないが、トレーニングを重ねるごとに見抜けるようになる。

また最近では、弊学部のように学際(Interdisciplinary)を謳う学部も多く登場し、ひとつのPureな学問だけではなく、実社会のProblemを踏まえて新たな問いを提示する重要性が高まってきた。だが弊学部では純粋な学問体系を修得できない・できにくいというHandicappedを感じる人が多いゆえに論文執筆から遠ざかっているのではないかという雰囲気を僕の周りからしばし感じることがある*11。だが、学際的な領域のポテンシャルは、学術研究においても非常に高いレベルで求められていることにそろそろ気づかないといけないと僕は思う。そんなステートメントを残してこのブログをいったん占めたい。論文執筆に関しては、また別のArticleに書くことにする。

*0 投稿しただけでAcceptされたかどうかはまだわからない。
*1 ラボ内教育がいかに重要かを見にしてみて感じている背景もある。
*2 僕はEngineeringよりなので実社会への応用という視点で有用性を意識することが多いが、自然科学の場合などは、後発研究のモチベーションが重要な有用性となるかもしれない。
*3 研究テーマは「誰もやっていない」だけで決めてはならない。なぜ今までやられていなかったのか、その穴を探ることが大切である。
*4 そういう意味では、被引用数の多い論文に輪読の対象を絞るのではなく、穴だらけな議論しがいのある論文も選ぶ必要がある、と僕は思う。個々の論文いろはを知ることが大事だ!と主張される方もいますが、その知恵を生かすときって、研究テーマが見つかった”後”の話であって、学部生がつまずいているのは研究テーマ探し、つまり問いを見つけることなのです。そして問いの探し方は少なくとも高校卒業までの18年間で習わないはずです。
*5 細分化すると、他人のビジョンを自分の言葉で咀嚼できていないか、ビジョンを考えたことがないの2通りに分けられる。
*6 論文では、このような画期的な論文(ビジョン)とビジョンに沿った現時点での問題意識が定義されているedgeの先行研究が引用されるケースが多い。
*7 輪読で取り上げるに値する論文の基準が被引用数に依存してしまう状態はよく見る、が論文をあまり読んでないと疑いの心が消えて、論じられている手法がすべて正しいかのように認識てしまう傾向がある。疑問を大切にするマインドが消え去るのがもったいない。
*8 ただし研究としてのインパクトはこの限りではない。
*9 ChatGPTやGPT-3,4の登場でNLP(Natural Language Processing)研究に関わる何人の人生を変えるだろうか?(良い方向にも悪い方向にも)
*10 歴史から学ぶこともたくさんある。なぜその手法が見いだされたのか、その時代背景とともに考えることで、次第にEdgeの問いが見えてくる。
*11 学部レベルであれば本屋に行けばたくさん教科書があるので、それを読めばいいだけなのだが、僕の体感だと勉学のポテンシャルがあれば大学の講義よりも早く濃くそして楽しく修得できる。


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