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review 4 ハラハラ

 涙で前が曇って字が読めず、それでも先が読みたくて涙を拭う。

 そんな、小説やドラマにはよく出て来ることを経験したのは久しぶりだった。

 帯に「今年いちばん泣けた本」と書いてある。正直、こういうのは「全米が泣いた」と同じような惹句だろう、と思っていたから、心づもりがなかった。

 なんということだ。涙は意図せずはらはらと両の眼からこぼれた。

 『エンド・オブ・ライフ』の著者、佐々涼子さんの筆は、抑え気味で淡々としている。決して他人の情動にずかずかと踏み込まない。むやみに突いたり、抉ったりしない。喩えるなら、揺さぶる、というよりも、心にあるひだをそっと撫でるような感じで、くる・・。長いこと死を扱った文章を書いて来た、と本書にもあったが、それが良くわかるような、不思議な旋律を持つ文章だ。

 おそらく佐々さんは、人が気がつかない細かなことによく気がつく人なのだと思う。ノンフィクションなので、書いてあることは基本的には事実のみで、装飾的な物言いはないのだが、ふとしたときに、繊細な部分にさらりと触れる。着ている服や、家の内装や家具、庭に咲く花、言葉に潜む育ち。それがまるで小説的伏線のような効果を醸し出し、そのうえ構成がものすごく上手い。読者は気がつくと、舞台となった渡辺西賀茂診療所と、佐々さんの取材対象である「森山さん」が、同僚や親戚みたいに良く知っているような気持ちになってくる。

 「森山さん」は、京都の渡辺西賀茂診療所で働いていた看護師さんだ。この診療所は、在宅医療のみならず、無償のボランティアで患者さんの最期の願いを叶える手伝いをしている。白衣を着ないオシャレな渡辺院長は、往診の途中で鴨川を通ったときに佐々さんに「方丈記」を知っているか、と問う。

 ゆく川の流れは絶えずして…

 この方丈記が、この本の重低音として流れる。

 読後、どうしてこんなに涙がこぼれたのか、理由がわかる。この本は、まさに佐々さんと森山さんの「共著」、いやむしろ、森山さんが著者だったのかもしれないからだ。

 在宅医療に力を尽くしてきた看護師である森山文則さんが、がんを患う。以前の取材が縁で「一緒に本を書いてほしい」と言われ、彼の生きざまをつぶさに傍で見ることになった佐々さん。

 沢山の人の最期を看取ってきた人が自分の命の幕引きをする、ということに、「こうじゃないのかな」と他の人が漠然と予測することを、森山さんはことごとく裏切る。スピリチュアルに傾倒したり食事療法をしたりと「まさか」の言動をとる。取材だと言いながら、あちこちに旅行したり食事に行ったり、抗生剤治療も止めてまったく現代西洋医学に頼ろうとしない。「がんに感謝している」「自分に気づきを与えるためにがんができた」「がんが無くなると信じ切れば治る」など、読んでいるこちらが驚くような言葉が飛び出す。

 時折挟み込まれる、森山さんが熱い情熱を持ってしてきた仕事のエピソードとの落差に、佐々さんと読者は戸惑うことになる。医学的知識を持って、様々な処置を取り、そのうえで人間として人に接する頼り甲斐のある看護師さん、というイメージは、まさにそのまま『情熱大陸』だった。それが揺らいでいく。

 さらに森山さんは、自ら佐々さんを「本を書きたい」と誘っておきながら、取材にも応じない。のらりくらりとはぐらかしたり、話題を変えたり。佐々さんはちゃんと話ができないことに時々焦りを感じながらも、森山さんの真意がわからないまま月日が経ってしまう。どうなるのか、と、読んでいる方が、何か焦れてハラハラする。もう森山さんに残された時間が無くなりかけていることが感じられ、読者が心配になったころ、その真実が明かされる。

 まとまった話は今まで聴いていないですよねという佐々さんに森山さんが言う。

「何言ってんですか、佐々さん。さんざん見せてきたでしょう」。

 自分がどう生きるか、ということを言葉ではなく、一緒に時間を共有することでさらけ出していた森山さん。ひょっとしたら、ご家族だけで過ごしたかったことも、プライバシーに踏み込ませたくないことも、実はあったのかもしれないが、それをすべて佐々さんと共有し、佐々さんに託していたのだ。

 彼の中には、確実に、彼が看取ってきたすべての人達の教えが活かされていた。あらゆる瞬間、瞬間が、彼が語るすべてだった。もしかすると、あまりにも在宅医療を知り尽くしていたからこそ、言葉にしたら、きれいごとや嘘も交じってしまって不純になることを恐れたのかもしれない。それを理解して常に第三者と思い出を共有した奥様のあゆみさんも、すごい方だと思った。「自由」を選んだ森山さんの選択は、あゆみさんと、元同僚たちと、佐々さんと佐々さんのプロフェッショナルを心から信頼したからこその、選択だったのだ。

 そもそも佐々さんが在宅医療に興味を持ったのは、お母さんがきっかけだという。辛い難病で、長い在宅の闘病生活をされたお母さんを亡くされている。

 本書は現在と過去の取材を交互に差しはさむ形の構成で、森山さんの取材をしている現在と、過去に在宅医療の取材で出会った患者さん達の境遇がシンクロするように描かれる。過去の取材で出会った患者んさんたちはまさしく千差万別で、在宅医療とひとくちに言っても、本当に人それぞれなことがわかる。おひとりおひとりの事情を描きながら、その医療に携わった西賀茂診療所のスタッフそれぞれの人柄にも触れられていて、この診療所がどんな人々によって支えられているかも、読んでいるうちに徐々にわかってくる。

 森山さんのこの言葉を聞く頃には、読者もまた、森山さんがそこに至る経緯を知っている状態になっているのだ。

 佐々さんもまた、お父さんが在宅介護をしている傍らで、取材は時に自身の体験と同時進行だった。人の不幸を生業とすることの重さに苦しみ、いつしか自律神経の調子を崩し、本を書けなくなっていた時に、森山さんとの共著の話が持ち上がった。森山さんの依頼を受けた当初は、佐々さんには迷いがあったようだ。

 私は誰にもみつからないところで、ひっそりと人生を立て直していた。他人には、ふらふら遊んでいるようにしか見えなかったかもしれないが、本人は必死だった。そうやって人生を治癒している最中に、身体が変わり、味覚が変わり、読む本、人間関係が変ってしまった。心身ともに健康を取り戻した私は、もう以前の私ではなかった。

 実を言うと、私が最も共感したのはここだった。佐々さんは海外をさすらい東南アジアに仏教行脚に行くようなこともあったようだ。そのため、辛酸なめ子さん並みにスピリチュアルに詳しい。

 しかし佐々さんは結局、どっぷり浸かることができず現実世界に戻ってきてしまった人だ。だからこそ、家族も同僚も戸惑うような森山さんの変節や代替医療への傾倒を受け止めることができたのだろうと思うし、森山さんのストッパーにもなっていた、と思うのだ。

 森山さんも、おそらくは完全にはそちら側に行けなかった人だろう。森山さんはスピリチュアルな話を佐々さんにして「あなたはスピリチュアルな人だからわかってくれますよね」と言う。言うのだが、実は彼らはふたりとも、どうしてもスピリチュアルにハマりきることはできない二人だ、と私は感じた。「盲信」するのが極めて難しい人は存在する。冷静で客観性を失えず、「ハマる」ことが最終的には研究になってしまうのだ。もちろん、それは悪いことではない。しかし信じきれたらどんなに楽だろうと思う気持ちは、わかる。

 日常的に人の死に接する職業の人の中には、スピリチュアルや代替医療に傾倒してしまう人が一定数いる。西洋医学の限界を感じた時、その世界をよく知るだけに絶望が深いのだと思う。日本人は明確な「宗教」もなければ「宗教教育」も受けていないので、この方面においては相当に「初心うぶ」だ。そのうえ、舶来ものだとか変な健康法には簡単に騙される。

 世界には標準治療に載らない選択肢が無数にあるが、現代の日本人の多くは標準治療というコースを選択する。しかし、そこで打つ手がなくなった時に、帰っていく場所を持っていないし、死の準備教育もされていない。

 ではなんであれ、宗教者であれば死を受容できるのかというと、実はそうでもないらしい。まさしく「死の受容五段階」を説いたキュプラー・ロスは晩年自身の死に際し、信じていた神に裏切られたと感じていたということを聞いたことがある。あのマザー・テレサでさえも。人とは、人の命とは、単純なものではないのだと思う。

 しかし断言できるが、あれ(スピリチュアルや仏教に傾倒した経験)は私にとって貴重な道程だった。命が短いとわかってから宗教に向き合うのは難しい。なるべく早く宗教については学んでおくべきだし、自分の信仰に対する態度を点検しておくべきなのだ。※( )内は文脈から補足

 程度には差があれど、心身辛い時期を過ごしたことのある私も本当にそう思う。

 緩和治療の現場では痛みには4種類あるというのが大変興味深かった。近代ホスピスの創始者シシリー・ソンダースの分類した、身体的な痛み、精神的な痛み、社会的な痛み、そして日本語に訳しきれないスピリチュアル・ペイン。精神的な痛みとは分けてあるだけに別物だが、「魂の痛み」、「霊的な痛み」を指す。これが医療従事者でさえも明確にはわからないという。佐々さんはその「スピリチュアル・ペイン」こそが終末期医療における最大の鍵だと思っているように感じた。だから実際のところ、ホリスティック医学やスピリチュアルが寄与する部分も無視できない。それによって和らぎ安らかになる痛みがあるからだ。

 病を得ると、人はその困難になにかしらの意味を求めてしまう。自分の痛みの意味、苦しみの意味。人は意味のないことに耐えることができない。

 いたたまれないほど、目をそむけたくなるほどの在宅医療や介護の実態も、緩和医療の現状も赤裸々に綴りつつ、佐々さんの筆致は常に冷静だ。様々な立場の、様々な人に、佐々さんは公平な目を向け、問いかけ、振り返って自分自身にも問う。家で看取り、看取られるということ。常に迫られる命の選択とその重さ。

 死ぬことを考えることは、生きることを考えることだ。亡くなる方は、必ず生者にギフトを残す。どのような生き方でも、どのような亡くなり方でも。先達の死の中には生きるための教えがある。かつては人が家で亡くなるのでそれを学ぶ機会があったが、今は完全に排除されてシステムに組み込まれてしまった、と言っていたのは養老孟司さんだ。

 それにしても、この本に出てくる医療従事者の方々の献身には頭が下がる。どうしたらこんなに人に優しく、自分の中のネガティブな感情を押さえ込み、心を込めることができるのだろうか。かと思えば、忙しさに人の心を忘れたような医師や看護師のエピソードも盛り込まれる。

 ひとつだけ、この本から教訓めいたものを引き出すとすれば「在宅で死を迎えるのは医師次第。医者は選んだ方がいい」ということだ。家族は存在が近すぎて、佐々さんのお父さんのようには滅多なことでは、できない。佐々さんも、佐々さんのお父さん自身も、それは警告する。だれにでも出来ることではない、と。無理をすれば家族も自分も壊れてしまう。それは、愛情や愛着とは別の、テクニカルな話だ。できる人とできない人が確実に存在する。

 ことこの終末期医療に関しては、どうやら相当、医師の腕次第、相性次第、死生観次第、というところが大きいように思った。渡辺西賀茂診療所のような献身的な看護が受けられてこその、佐々さんのお父さんのようなプロフェッショナルに近い技量があってこその、森山さんの奥さんのような覚悟と知識があってこその、在宅医療だと痛切に思った。

 こればかりは運かもしれないが、良い医者に巡り合うように、頑張って生きよう。もしよい医者がいなかったら、在宅は潔く諦めよう。

 涙を拭きながら、そう思った。




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