「若い女」であること

私はずっと、大人になるのが怖かった。「高校生であること」「未成年であること」それが自分のステータス、付加価値であると思っていた。

体感、「若い女」は持て囃される傾向があると思う。アメリカの男女を対象とした「魅力的だと思う異性の年齢」を調査した結果では、女性は年齢が上がるにつれて魅力的だと思う異性の年齢も上昇する(ほぼ同年代の男性を好む傾向がある)が、男性はどの世代も「20~24歳」と回答しているのは有名な話だ。「JC(女子中学生)」「JK(女子高生)」などの言葉に代表されるように、きっと今の日本でも同じような結果が出るのではないか。

私はここで男性の趣味嗜好を批判したいわけではないし、「男性が若い女性を好むのは生物学的に遺伝子を残せるように……」などの話はまた別の記事で書きたい。今回の論点はそこではない。

そのような社会で20年生きてきて、「若い女」であることで発生したであろう経験をいくつかしたことがある。

(注)私の完全な主観で便宜上ネガティブ、ポジティブと表現したが、受け取り方は千差万別なので、全ての女性がこの限りではない。

ネガティブなものでは、電車で他にも席が空いているのにわざわざ隣に来て周りに見えないように身体を触られたり、池袋を歩いていたら見知らぬおじさんに「君いくら?」と聞かれたりした思い出すのも心底嫌な経験などがある。

ポジティブなものでは、「若いね」と言われちやほやされたり、年上の男性からプレゼントをもらう機会が多かったりと、その度に「守られる存在であること」を実感した。

ポジティブなものは純粋に嬉しかったが、ある日「これらは全て私が若い女であるからではないか」と思った。実際、これを利用して承認欲求を満たしたこともある。確かに正面から向かってくれる素敵な人もたくさんいたが、「年を取った男性」でも同じような状況は発生しただろうか。(便宜上「年を取った男性」という表現をしたが、この人たちが劣っているなどのネガティブな意味合いはない。あくまで「今の自分と年齢も性別も正反対だったら」という表現である) 

大なり小なりそのような経験をしてきた私は「未成年であること」「女性であること」「低身長であること」が私の付加価値だということを理解し、異常なまでにそれらに固執するようになった。生まれつき肌が弱いのも少しは関係しているがメイクに積極的でなかったり、メイクをし始めても垢抜けないように、所謂「童顔メイク」にこだわったり、ヒールを敬遠したりしていた。

それはなぜなら、「年を重ねるごとに自分の付加価値がなくなっていく」と思い込み、「それがなくなれば誰も私を必要としない」と真剣に思っていた。だから私は、未成年、女性、低身長などの「守られる存在であることを証明してくれるもの」を必死に両手でぎゅっと抱え込み、年相応に垢抜けていく同級生たちに背を向けて小さく、小さく縮こまっていた。

人は朝起きて突然性別が変わっていることはないし、眠りにつく前より30センチ身長が伸びていることはない。しかし1日1日を過ごすほど次の誕生日に近づく、未成年ではなくなる時は必ず来る。2020年5月10日、私は自分の20歳の誕生日が怖かった。このまま死んでしまおうかと思ったほど、とにかく怖かった。今まで必死に守っていたものが、確かにひとつ自分の手から零れ落ちていくからだ。

結局誕生日を迎えてから今まで「20歳になっても特に何も変わらない、お酒とタバコが解禁されるくらい」という拍子抜けするような感想しかなかった。確かに客観的に、20歳になった立場からはそう思えるのだが、未成年の私にとっては本当に深刻な問題だったのだ。私は人より自己肯定感が果てしなく低いのは自覚している。実際友達に同じ話をしても完全な同意を得られたことはないし、「考えすぎじゃない?」と言われたこことも多い。それは本当にそうなのだ。今ならわかる。

それから私は、自分と向き合うようになった。「どうしてそこまで自分は未成年であること」に固執していたのか、頑なに垢抜けるのを拒んでいたのか。付加価値に固執すること、それは、「自分には何もない」という強い思い込みの現れだった。例えるならば、自分は、「何も着ていない着せ替え人形」なのだ。私が大切に大切にしていた付加価値は、その人形の素敵なドレスや靴であったり、髪を整えることであった。「可愛く着飾り、容姿を整えて初めて必要とされる」ものであるから、「私はそれらを守り続けているから大丈夫」そう自分に何度も言い聞かせた。

しかしそれは本来の自己肯定とはかけ離れていて、本来は何も着ていなくても、髪を整えていなくてもそこにいるだけで価値があるのだ。それに人間は人形ではないから、言動や行動もついてくる。容姿や属性だけで人の価値は決まらないのだ。

こうして偉そうに書いているが、私はまだ心からそう思えているわけではない。「若い女」であることに頼ってしまいそうになる時もある。承認欲求がお手軽に満たせることに味をしめているところは大なり小なりあるのだ。それに20年思いこんでいたことを急に180°ひっくり返すことは困難だ。

だからこそ私は「何にもなくても大丈夫」と自分に言い聞かせる。

正確には、「今まで必死に守ってきたものを手放して、何もなくなっても大丈夫」だ。「今まで守ってきてくれてありがとう、でももう大丈夫」何度も何度も声に出した。今はまだ実感もない、小さい子に向けた「痛いの痛いの飛んでいけ」と似たようなおまじないである。「大丈夫、大丈夫」今日も言い聞かせながら少しずつ、ぎゅっときつく抱きしめていた腕を、縮こまらせていた身体の力を抜いていく。自分と真正面から向き合えるのはいつになるのだろう。何年、下手したら何十年かかる話かもしれない。しかし私は20歳になって「若い女である」という自分でかけた呪縛を、自分で解くと決めた。

ここまで、つらつらと自分のことを書き連ねてきたが、私は「裏垢女子」という存在が自分の考え方とかなり近いのではないかと感じている。

説明するにはあまりに有名ではあるが「裏垢女子」とは、性的な意味合いを持たせた顔や自分の身体の写真や動画をSNSに投稿する女子たちの俗称である。その活動範囲は様々で、顔を出したり、出さなかったり。ファンティアやBOOTHなどでTwitterなどには公開しないさらに刺激的な写真や動画を有料で公開し、収入を得ていたりする場合もある。これも「男性は年代問わず若い女性を好む傾向があるという調査結果」と同じように、彼女たちの行動そのものを否定するつもりはないし、そもそも赤の他人がとやかく言うことではないのだ。

個人的見解だが、私は「若い女」である付加価値を切り売りしている彼女たちを生理的に嫌悪しているし、それを手放しで持て囃し消費している男性も理解ができない。

私の友人や知人にそのようなことをしている人はおそらくいないため、これは完全なる想像だ。ここから先は、私がもしそうであったら、という感情論でしかない。

自分の胸などの身体、時には顔を晒せば、SNSのいいねであったりコメントで、持て囃し賞賛してくれる存在がいるのだ。ファンティアやBOOTHをやっていれば、お金という目に見える形で自分の存在に価値が生まれる。「愛しているよ」の言葉や感情といった不確かなものではなく、いいねやコメント、それで得たお金は目に見える確かなものだ。

私はきっとそれに依存する。目に見える確かなものが増えれば増えるほど、「ここにいていいんだ」「私は必要とされているんだ」とそれらを守ろうとするだろう。それらは「若い女であること」で生まれた価値であることに目を背けて、頑なに。何をどう頑張っても人間は年を取ってしまうのだ。「若い女であること」に依存しそれを切り売りしていたら、そうでなくなる時、私はどうしていただろうか。

きっとそこには、実年齢とはかけ離れた悪い意味で幼い私がいるはずだ。目を背けていた年数分、どうしていいかわからずいつまでもその場で立ち尽くしている私が容易に想像できるのだ。

「若い女であること」を切り売りするのは、未来の自分の否定である。

だから私は、少女たちの自分の切り売りする一連の行為を手放しで持て囃し消費している男性も理解ができないのだ。若くなければ意味がないのに、過剰に少女を持て囃す。そして少女が年相応に成長したとき彼らはもうそこにいなくて、また別の少女のもとにいるのだろう。

どう生きるかは自由なのだ。

だからこそ、私は自分で自分に呪縛をかけて、未来の自分を否定しながら生きるのはつらいと思った。だから、私は「若い女である」という自分でかけた呪縛を、自分で解くと決めた。自分を否定し続けるのは寂しいだけだ。

「私らしく」なんて曖昧な言葉が今まで心底嫌いだったが、少しずつ向き合ってみようと思う。きっとこの気持ちや、「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせるおまじないが、今はわからなくとも、きっと未来の私を肯定してくれているはずだから。

これまでも、いまも、これからも、

私は「何もなくても大丈夫」だ

明日も、生きていこう




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