特別な他人①

私には、「特別な他人」が二人いる。「特別な他人」とは、自分ではない人間、すなわち「他人」という管轄の中でも、私がとりわけ好意や敬意を持ち合わせている「他人」のことである。今回は、「特別な他人」のうちの一人について記しておこうと思う。


その人とは出会ってから約3年になる。大学4年の夏の終わりに知り合った。その人と最後に会ったのは確か、2年前の夏。私の方から会いに行った。高速バスに乗って7時間くらいかけて会いに行き、会って話したのは30分くらいだった。それきり、その人とは会っていない。

物静かで、絵と音楽が好きな人だった。その人の家には自分で書いた絵が何枚かあったし、音楽を教えてくれたこともあった。

その人と知り合ってから私は、絵を描いたり、音楽を学んだりするようになった。

つまり、その人は今の私を作る要素の礎である。


その人と出会ってからから今日まで、私はたくさんの絵を描き、たくさんの音楽を聴いた。

絵を描くたび、音楽を聞くたび、私はその人のことを思い出す。

そういえばその人には、父親がいなかったらしい。その人は、父親のことをひどく憎んでいる様子だった。その人が父親について話す時、「あいつがいなくなったから、自分は大変な目に遭いつづけてきたんだ」という旨のことをよく言っていた。

いない父の代わりに自分が、残りの家族を支えているのだ、と言っていた。その人の家族は、その人の他には、妹と母親がいるらしかった。

その人の父がどうしていなくなったのか、私は聞かなかった。

どうでも良かったからだ。

そんなことよりも、わたしとその人がとても似た境遇にあることの方が余程大事であった。


その話を聞いた当時、私は年の離れた妹と二人で暮らしていて、「自分は母親代わりに頑張らないといけないんだ」と自分を鼓舞し、授業と、卒論と、場末のスナックでのアルバイトに勤しんでいた。

その人に会うたび私は、自分の家族に関する大変な話をした。その人もその人の家族に関する大変な話をした。

私は、少しでもその人のことを解りたいし、寄り添いたいと思った。今でも思っている。


もう2年近く会っていないけれど、半年に一度くらいの頻度で連絡が来る。

「生きてる?元気にしてる?」

と尋ねてくれる。私が、自分の体を切ったり、薬をたくさん飲んだりして、死にたがっていたことを知っているからだろう。

私は、「しぶとく生きてるよ〜」とか、「元気だよ〜そっちは?」とか返事して、そわそわしながらその人からの返事を待つ。

一週間のちに「ごめん返事くれてた?携帯調子悪くて」と返事が来る時もあるし、半日くらいで返事が来る時もある。その人はとても気ままな様子だ。


その人が、私をどう思っているかは知らないけれど、私はその人のことを「特別な他人」であると思っている。

「私がその人をどう思っているか」ということに、「その人が私をどう思っているか」ということは関係ないと私は思う。

私はその人に、

「私に絵や音楽を教えてくれてありがとう」と思っているし、

「家族を支えるのは大変だよね」と伝えたいし、

「どうか元気で、幸せに生きていて欲しい」と願っている。

もし、半年に一度の連絡もなくなり、家も分からず、連絡先も消えてしまって、その人のこれからの人生に私が登場しなくなったとしても、私はその人の幸せを願っている。

「特別な他人」の定義は、「その人の人生に私が登場しなくなっても、その人の幸せを願えるかどうか」というところに依るのかもしれない。

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