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005.あたらしく、わたしらしく、はたらく。ための感覚器官の使い方

もともと2020年は「あたらしく、わたしらしく、はたらく」と決めていた。抽象度の高い、自分のなかでしっくりくる言葉としてはそう決めていて、抽象度を低く、もっと地に足のついた目標としてはもうひとつ別に、「自分の才能とスキルを活かせる仕事でしっかり稼ぐ。豊かさを味わう」とも決めていた。

あらためて「ああ、わたし、ちゃんと”あたらしく”するって決めていたんだな」と思いました。

そのためになにをすればいいの?と聞きたくなるけれど、いつでも骨が最後で意識が先。抽象が先で具象があと。なにをする、の前に、どう在る?という問いがあるよね。どう在る?がわかりにくかったら、インプットとアウトプットはなんですか?でもいい。

なにを食べて、なにを出すの?でもいいし。なにを吸って、なにを吐くの?でもいい。

あたらしく、わたしらしく、はたらく。

ときに、わたしにとってキーになるのは「ことば」です。最近、どんな「ことば」を自分にインプットしてるのか。インプットって絶対にされているので、それはアウトプットに影響します。わたしたち、食べたものでできてるっていうのなら、もっと強くもっと密に、わたしたちはインプットした「ことば」でしか、世界になにもアウトプットできないです。

そうそう、わたしがnoteをはじめた!ってFacebookでいつもつながってくれている方々にお知らせしたら、ある人が「僕は自分がかく文章がいちばん好きで、読んでる」という主旨のことを書いてくれていて。それって、まじで、わたしもだよ!って思って、心の中でひそかに「うし!」って思いました。

つまり、わかりにくい前置きだったのだけれどわたしは決めたわけ。もうさ、世間にわたしの好きな表現ってほとんどないわけだから、もうインプットしない!って。これまでは”なんとなく許容範囲”としてインプットできてたけど、さすがにもう1ミリも許容できねえな、と。

視覚という感覚器官をこれ以上、不浄なもので汚すわけにはいかないって強く感じているし、もう目を汚したりしませんって誓いたい。わたしの視覚を汚すものは「情報」です。

今、みんな、目を「情報をインプットする器官」として使っていて、ことばと声を「情報をアウトプットするツール」として使っていて、その世界に加担するわけにはいかないぜ、って感じなんです。それは本来の使い方じゃなくって、すごく矮小化した使い方だから、どんどん感性が死んでいく。


じゃあ、目と、声と、ことばはなんのためにあるのですか?

あたらしく、わたしらしく、はたらく。

と、決めたひとにだけ、小さな声で教えるね。


「ことば」と「声」は、世界を創造=クリエイト するための力。
「目」は、そのクリエイションを、観察して記録 するための器官。

です。じゃじゃん!


ねーこれ、わたしが最近「もうこんな究極の真理を知ったら、衝撃で身体がこわれちゃう!!」ってくらい、全身の血が逆流して目の前が真っ白にスパークして気絶するかと思うくらいのエクスタシー1000%ばりの衝撃度の気づきであり教えだったのだけど(そこまで?笑)、こんなふうにさらっと書いて、いいのか。ま、いいか。どうか誰かの胸に小さく響きますように。


どんな「ことば」を日々、自分にインプットする?
どんな「声」に日々、耳をすませるの?
その「目」に、映ったものが、観察を経て記録されて、あなたの世界が目の前に現れてくるよ。


追伸:
「もう自分にとって純度の低いものを一切インプットしない!」って決めたら、お金と時間の使い方がギュイーンと変わったのがおもしろかったので、その変化についても次回書いてみるね。


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