【小説】13 ぼうけんのつづき


 年内の授業が終わり、街中の華やいだ気分もどこかへ去ったあと、晴れた空はぽかんと気の抜けたようにも見える。図書館の窓から差し込む光はあたたかみをもって僕の手元を照らしているけれど、それでいて外の空気はぴりっと乾燥して冷たいんだろう。
 年明けの授業では何の話をしようかと考えながら、楽器の資料集を眺めてはノートを取っている。右手だけでページを繰り、書き物をするのにもだいぶ慣れた。最近はタイピングもスムーズにできる。元々が器用な性質でよかったと思う。
 小学校の音楽教諭と、半ば趣味のような感じで始めたピアノ教室の先生。どちらも自分にとっては本当に楽しくて、天職だと思える仕事だった。それで夢中になりすぎて、知らず知らずのうちに体に負担をかけてしまっていたのかもしれない。脳梗塞で倒れたのは三年前のこと。試合中のスポーツ選手が、怪我をしてもアドレナリンの作用で痛みを感じないようなものなのか、わからないけれど、少なくとも僕にとっては何の前兆もなくそれは起こった。意識が戻って、自分の病状を聞いても、全然納得できないぐらいに。
 病院の先生が驚くぐらい、僕の回復力は凄まじかったらしい。けれど後遺症は残った。左半身――特に、左手に。
 リハビリをして、多少は動かせるようになったとしても、繊細な動きはおそらくできるようにならない。病院でもそう言われたし、自分でもなんとなくわかった。もう以前のようにピアノを弾くことはできないと。
 それでも、元々自分自身がステージに立つ演奏家ではなかっただけ、僕は幸運だと思った。お手本を弾いてみせることができないし、まだ体調の不安もないわけではないからとピアノ教室は閉めてしまったのだけれど、うまくやり方を工夫すれば、音楽を誰かに教えることまでも諦めてしまうことはないんじゃないか。そう思ったのだった。
 そうして、以前も勤めていた小学校に戻ってきて、二学期が過ぎた。僕は僕なりのやり方で、生徒たちに音楽を教える道を見つけつつある。
 
 資料をめくりながら、ギターが今の形になるまでの歴史なんかはわかりやすくていいかもしれないな、学校にアコースティックギターなら置いてあったはずだし……などと考えていたら、後ろから「先生!」という声がした。
 振り返ると、見覚えのある男の子が、お母さんらしき人にたしなめられているのが見えた。五年一組の子だなと気づいて僕はひとり頷く。やあ、と声には出さずに口だけ動かして右手を挙げたら、早歩きでこちらに向かってきた。
「なんか見たことある人がいる! って思ってつい大声出しちゃった」
 彼はあまり反省していなさそうな調子で、一応はボリュームを落としながら言った。
「先生も何か調べに来たの?」
「年明けの授業で使う教材を考えないといけないからねえ」
 僕は笑いながら答える。
「おれねえ、ロックとか教えてほしいな。エレキギターで、こう、ギャーンってかき鳴らすの、格好いいじゃん」
「確かに格好いいね。でもそれだけがロックっていうわけじゃないんだよ」
 僕が授業中に、歌やリコーダーの練習だとか楽譜の読み方だけではなくて、色々な国の楽器や民族音楽の話をしたり、映画やミュージカルを見せたり、コンサートの映像、時にはロックバンドのライブ映像なんかも流してみたりするものだから、生徒たちは僕の授業では何でもありだと思っているらしい。実際、そういう面はあるけれど。
 彼は僕の手元をちらりと見て、「わあ、なんか難しそうなの読んでる」と言った。楽器の構造を説明したページだったから難しそうに見えたんだろう。
「これはね、ギターなんかの音が鳴る仕組みだよ」
 そう言って説明しながら資料をぱらぱらめくってみせると、彼は「ふうん」と頷く。
「そちらは勉強ですか」
「そう、宿題でさ、地域の歴史について調べて発表しましょうっていうのがあるんだよ。そんなのわかんないよって思ってたら、お母さんが、図書館にそういう本があるでしょっていうからさ。探しに来たところ」
「地域の歴史か。なかなか大変そうですね」
「ほんとに、何書いたらいいのかわかんないや」
「あなたは確か今年になって引っ越してきたばかりだったでしょう。まだ歴史どころか、今のこの街のこともやっとわかってきたぐらいなんじゃないですか」
「そうそう! 行ったことない場所もいっぱいあるし、まだ覚えてない道もあるんだよ。ぜんぜん、冒険しきれてないんだ」
 冒険。懐かしい響きの言葉だなと思った。
「知らない街を冒険するのは好きですか」
「うん。どこにどの道がつながってるのかなとか、こんなところに変な家があるとか、自分で歩き回って見つけるのって楽しいよ」
「いいですねえ。私も子どもの頃はそういうのが好きでした。いや、子どもの頃というか、大きくなってからもそうだったなあ。体を壊してしまってからはあまり遠出もできませんけどね」
 昔、彼と同じぐらいの歳の頃に、同級生を無理矢理巻き込んで、自転車を乗り回して街のあちらこちらを「ぼうけん」していたことを思い出す。どの道がどこへつながっているか自分の目で確かめたり、地図に載っていない情報を見つけて興奮したりするのは、あの頃の僕にとって何より楽しいことだった。このビルとあの公園は案外近いんだなとか、この道をずっと行ったら県境まで行けるんだぜとか。この家にはどんな人が暮らしているんだろうと想像したりもしながら知らない道を進んでいく。そのおもしろさは今でもよく覚えている。
「先生、もう歩き回ったりするのは大変なの?」
 彼は無邪気に尋ねる。
「学校に戻ってきた頃に比べたら、歩く元気も戻ってきましたけどね、昔のようには、なかなかいきません」
 悪いことを聞いただろうか、とでも言いたげに彼はうつむいた。僕は「まあ、でも」と続ける。
「今は、前とは違うやり方で、どうやったらもっと音楽を楽しめるか、あなたたちにそのおもしろさを伝えられるかを考えるのが私にとっての冒険みたいなものです。それも楽しいですよ」
 
 じゃあおれ資料探しに行かなきゃ、と言って立ち去る彼を見送りながら、僕は、かつて街の「ぼうけん」に一緒に出掛けていた友達のことを思い出していた。文章を書くのが上手くて、僕らの「ぼうけんのきろく」を、ファンタジーか何かみたいな立派な読み物にしてくれていた。小説家になれるんじゃないかって言ったら困ったような顔をしていたけど、それから十何年か経って、本屋の店頭で彼の名前を僕は見た。何かの賞を獲って出版されたという、それは彼のデビュー作だった。それ以来、彼の本には出会えていない。正直、小説の良し悪しというのも僕にはあまりよくわからない。ただ、その本の作者は間違いなくあの「ぼうけんのきろく」を書いた少年と同じなんだというのはわかった。
 倒れて、左手が動かなくなったあと、また「音楽の先生」としてやっていこうと思ったのは、あの本があったからでもあったんだよな、と僕は思い返す。その友達との最後の「ぼうけん」の時、高く広がる冬空を見て、そいつは「石を投げたら吸い込まれちゃいそうだ」と言った。僕はそれを聞いて、「吸い込まれて消えちゃうよりは突き抜けてやりたい」とうそぶいたことを覚えている。あいつがちゃんと作家になってるのに、僕がここでこのまま吸い込まれて消えちゃったら、嘘じゃないかって、そう思ったんだ。
 
 一通り資料に目を通し終えたので帰ろうとすると、出口のところでまた声をかけられた。
「先生、偶然だね」
 見るとさっきの生徒が重そうな手提げ袋を肩にかけて立っている。
「一日に二度も会うとはね。何かいい資料は見つかりましたか」
 彼は首を横に振った。
「地図とか、歴史の本とか見てたけど、つまんないや。自分で探検するほうがずっと楽しいと思うな、おれ」
 そうかそうか、と僕は笑った。お母さんは送ってきただけで帰ってしまったらしく、僕らはそのまま一緒に帰路についた。
「私も、あなたと同じぐらいの歳の頃だったらそう言ったと思いますよ、自分で探検したいって。友達も道連れにしたりしてね、街中歩き回ったり自転車でぐるぐる回ったりして」
「先生、この街は探検してないの?」
「してないどころか、私がどこよりもたくさん探検したのがこの街ですよ」
「えっ」
 彼は目を丸くした。
「だって先生、去年うちの学校にきたばっかりじゃん」
 僕はニヤリと笑ってみせる。
「いや、実はね、住んでるのはずっとこの街なんですよ。今の学校も初めてではなくて、以前今と同じように音楽の先生として来ていた時期がありました。あなたたちは学区外に引っ越したりとか、何かそういう理由がなければ転校することはないでしょうけど、先生たちはそういうわけじゃあないですからね。住んでいる街の学校で働き続けるというわけではないんです」
 ああ、確かにと彼は納得した様子を見せ、それからハッとして続けた。
「じゃあ先生、もしかして、先生もおれたちと同じ学校に通ってたの?」
「一応はそうなります。その頃はまだ合併する前で、もっと小さい学校でしたね、名前も違っていたし」
「へえっ、そうなんだ。おもしれえ」
 彼はそこでふと思いついたような顔をした。
「ねえ、それなら先生は昔からずっとこの街のこと知ってるんでしょ」
「まあ、何でも知っているわけではありませんが……」
「じゃあ、地域の歴史の宿題、おれ先生の話にしたい」
「私の話ですか?」
 今度は僕が目を丸くする番だった。
「だって、絶対そっちのほうがおもしろいもん。先生、インタビューしに行っていい?」
 参考になるかどうかわかりませんよ、と僕はまた苦笑いした。

 僕の家に着くと、彼はへえ、という顔をして家の壁をまじまじと見ている。派手な色ではないけれど、黄色い外壁は周りの家とは少し雰囲気が違うから気になるのかもしれない。
「ここから学校までって遠くないの?」
「歩くのは嫌いではないのでね。もう慣れましたし」
 彼をリビングに通し、紅茶を淹れて持って行った。
「二階で息子が練習中なので音が聞こえるかもしれませんが、気になさらず」
「練習?」
「ピアノをやっているんです」
「音楽一家なんですね」
「そんなに立派なものでもありませんが、まあ、昔は家でピアノ教室なんかもやっていましたからね」
「あ、それ二組のやつが言ってた。二組の先生、昔そこに通ってたんだって」
「ああ、そうです、そうでしたねえ」
 教室の生徒たちのことは今でもよく覚えていた。中にはすごく技術のある子もいたし、心の動きを音に乗せるのが驚くほど上手い子もいた。場面緘黙症と診断された子が、鍵盤の前ではこちらから何も教えなくてもいきいきと音を鳴らしていて、今度はその音にその子自身が誘われるようにして言葉や表情を取り戻していくのも見たことがあった。そういう生徒たちにも、僕自身が演奏できなくなってからは随分と助けられた気がする。
「私はプロの演奏家になる道は選びませんでしたし、もう今ではピアノを弾くこともままならなくなってしまいましたけど、彼はまだまだこれからです」
 僕は二階を見上げながら言った。
「前はできてたことができなくなっちゃうのって、辛くないですか?」
「そりゃあ、最初は辛かった」
 大袈裟に溜息をついてみせる。
「でもね、そもそも私がやりたいのは何だったかって考えたら、弾けなくてもそんなに問題はないなと思ったんですよ。私は、ほかの誰か――鳴らしたい音がある誰かのお手伝いができればいい。そう思ったら楽になりました」
「だからまた学校の先生になって戻ってきたっていうこと?」
「そういうことです……私のような教師に出会えるというのはなかなかない経験だと思いますよ」
 その言い方がおかしかったのか、彼は愉快そうに笑った。

「余談が長くなりましたね。この街の歴史について聞きに来たんじゃありませんでしたか?」
「そうでした。先生、昔この街を探検してたって言ってたでしょ。その頃のこととか教えてほしいです」
 そうだなあと少し考えて、僕は彼に、あのノートを見せてあげようと決めた。ちょっと待っていなさいと言って書斎へ下がる。幸いノートはすぐに取り出せるところに置いてある。表紙に書かれた文字をしばし眺めてから、それを持ってリビングに戻る。
ドアを開けるやいなや、「先生、確かに上からピアノの音聞こえるね。すげえや」という弾んだ声が聞こえてきた。
「おれクラシックとか全然わからないから、何の曲かまではわからなかったけど、なんかいいなって思った。弾いている人の気持ちがこっちにも乗り移ってくるみたい。先生も昔はこんなふうに演奏してたのかなって考えちゃった」
 僕はなんとなく照れ臭いような、でも確かに嬉しいものとしてその言葉を受け止めた。「きっと本人も喜ぶでしょう」と言いながら、僕は持ってきたノートをテーブルに並べる。
「ぼうけんの、記録?」
彼は表紙の文字を読み上げた。
「昔、友達とこの辺りを『ぼうけん』していた時の記録です。その友達は作文が得意でね、物語風に書いてくれたので少しフィクションも入っていますが。よかったらそれを持って行って参考にしてください」
 彼はぱらぱらとノートをめくり、おおっと目を見張った。
「へえ、すげえ。おもしろそう。ありがと、先生!」
 持って帰らなきゃ、と彼は手提げ袋の中にノートを入れようとしたけれど、うまく収まらないらしい。ちょっと置かせてね、と中身をいったんテーブルの上に広げ始めた。地図のコピー、何か資料集のようなもの、郷土史の本のコピー。意外とちゃんと調べようとしているんだなあと思いながらぼんやり眺めていたら、ふと、資料ではなさそうな本が目に留まった。それが何の本かに気づいて、僕は思わず「えっ」と声を上げた。
「え? どうしたの先生」
 きょとんとした表情でこちらを見る彼に、僕は「それも図書館で借りてきたんですか?」と尋ねる。
「あ、そうだよ! さっき見つけて、嬉しくって借りてきたんだ。これ、おれのお父さんの本だから」
 僕はそれを聞いて少し混乱した。
「お父さんの……図書館の本なのに?」
 そう言うと彼はおかしそうに笑って、違う違う、先生勘違いだよと言う。
「お父さん、本を書くのが仕事なんだ。これ、お父さんの二冊目の本、この前やっと出せたんだって。そしたら今日図書館でたまたま見つけてさ、やったあ、と思って借りてきちゃったんだ」
 その表紙に書かれた名前は、僕のよく知っている、あのぼうけんの記録を書いた男の子の名前だった。
「あれっ、でも、名字が……」
「そう。名字が違うんだけど、これお父さんのペンネームだからさ。うちのお母さん、研究の仕事してて、名前が変わっちゃうといろいろ大変そうだったんだって。お父さんはペンネームを元の名前のままにしとけるから、結婚する時お母さんの名字にすることにしたんだって言ってた」
 僕は信じられない思いで目の前の少年を見た。
 僕がこうして、最初の道が行き止まりになってからも、音楽を教える道を探している理由のひとつは、かつて一緒に「ぼうけん」をした少年の存在だった。そうして学校に戻ってきて出会った生徒が、そいつの子どもなんだという。
「前の学校にいた時さ、お父さん小説家なんだってクラスのやつに言っても信じてくれなくてさ。本屋さんとか図書室にもなかなかお父さんの本ってなくて。でもさ、ちゃんとあったんだよ。お父さんの新しい本。図書館にあったんだ」
 彼は得意げにその本を両手で抱える。
「先生も読んでみる? 貸してあげるよ」
「それは図書館で借りた本でしょう」
 あっ、そうだったと笑う彼の、少し困ったような顔に、僕はよく知った男の子の面影を見た気がした。
「大丈夫ですよ。私はその作家を知っています」
「えっ、本当に?」
 目を輝かせる彼に、僕はまたニヤリと笑って頷いた。それはもう、ずっと昔から。
「私はその人の、いちばん最初のファンですからね」

書くことを続けるために使わせていただきます。