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せかい食べ物紀行―第一話、パリとアップルタルトとトマトと玉子の炒め物

『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』という石井好子さんの名著を読んでいる。石井さんが今のわたしと同い年くらいの時に1950年代のパリに住んでいた時の回顧録であり料理本である。わたしもパリへは6~7年間行き来していたので、石井さんの文章を読んでいるとその思い出がまた輝きだし、途端にノスタルジックな気持ちに襲われる。

フランスについては以前『フランスについて、2014年の夏に思うこと』というテキストに書いたが、パリという街は住んでみると、実に面白い街なのだ。地続きのためヨーロッパ各国から、そして過去の植民地化の歴史もあり世界中から文化や人種など様々なバックグラウンドを持つ人々が集まって古く美しい建築物がひしめく街に住んでいて、誰もがいつでも全身でぶつかってくる準備万端というオーラを放っている。そのダイナミックさが新しい文化や芸術、教育制度や政治、思想や人々の野望を次々と生み出していて、その雰囲気を感じながら暮らすのはそれだけでかなり刺激的だった。もちろん歴史と伝統については言うに及ばない。

よく喋る人が多く、電車の中などでも見知らぬ人同士で何気ない会話を始める場面を何度も見たことがある(わたしもよく話しかけられた。電車の中でおばさんがその靴どこで買ったの、わたしも同じのが欲しい、と声をかけてきたり(その後も今水泳にハマってるのよね、など、会話は続く)、おめかけして歩くと街角のおじさんからは「どこの蝶々がダンスしてるかと思ったくらい美しい!」とセクハラというよりはただ嬉しくなるようなさらりとした褒め言葉を投げかけてくれた)。特に政治や芸術になるとさらに語りたがる人が多い。実際「フランスでは複数人とのディナーで自分の政治的な意見を主張できない人は一人前とはみなされない」といった文章を読んだことがある。幸い興味がかぶっていたので良かった。

わたしが初めてフランスに行ったのは9歳の時だが、最低限のフランス語を身につけて春休みに1カ月間語学留学に行ったのは21歳の時である。今日はその時の思い出について思い出の食べ物とあわせて書きたいと思う。思い出の食べ物はアップルタルトと中国の料理、トマトと玉子の炒め物だ。

パリに着いたのはちょうど2005年の今頃、3月3日頃だったと思う(わぁ~わたしはちょうど10年前のことを書こうとしているのか。恐ろしい…)。実は滞在のはじめは、大学の授業で一緒だった女の子と同じアパルトマンを借りて住むことにしたのだった。彼女もちょうど1ヶ月パリの語学学校に行くということで、そういう話になった。12区のサンタントワーヌ病院のそばで、とっても素晴らしいアパルトマンだった。一つの部屋を彼女とシェアすることにしたのだが、でも実際わたしがそこに住んでいたのは4日くらいだったと思う。渡仏する前は気づかなかったのだが彼女とはあまり気が合わないということが判明したのである。実は彼女にとってはわたしが初めての友だちで、コミュニケーションに難があり、また洗いものも掃除も全くしない人だということがわかった。わたしはこのまま残り1ヶ月を彼女と住むのはストレスが溜まりすぎてせっかくの留学が楽しめなくなってしまうと考えて、悩んだ結果家を出ることにした。幸い彼女はお金持ちで、わたしがいなくてもその部屋の家賃は払えるということだったし、わたしたちは全く違う語学学校に通っていたのでもう会うこともないというサッパリとした別れだった。わたしは電話をかけて、19区のクリメ駅に当時あった『白い門』という日本人バックパッカーの集まる安宿に移動することにした。汗をかきかきスーツケースを引きずりながらナシオン駅に辿り着いたあの午後は忘れられない。

『白い門』は確か一泊19€で朝ご飯付きで、超貧乏学生だったわたしにはここより安く住める宿はなかった。12区の古くて可愛いアパルトマンとは異なり、19区に近年になって作られた背の高い団地群の中の個人宅を安宿として提供されていた室内には、大きい部屋と小さい部屋とマダムの個室があり、大きい部屋(20畳くらい)には男性が10~20人くらい雑魚寝していた。小さい部屋(5畳くらい)は女性部屋で、最大で6人くらいしか寝られなかった。そこで残りの3~4週間お世話になることになったのだが、語学学校が同じ駅の、宿から徒歩10分くらいのところだったのでわたしとしては大変都合が良かった。授業は朝8時から昼12時までと、昼2時から4時までの2コースを取っていた。朝ご飯もそこそこに授業に出かけ、昼ご飯のためにうちに帰ったり、または語学学校の近くの店でパニーニを買って学校授業で食べて次の時間まで待ったりした。とにかくお金がなかったので、基本的に勉強していた。

〔これは4区〕

バックパッカーたちの殆どは世界一周やヨーロッパ周遊旅行に来ている人たちで、大抵3~5日で宿を出ていたので、唯一の長期滞在のわたしとしてはそこに出たり入ったりしてくる人たちとの出逢いも楽しかった(たまに2週間くらいいる人もいた)。みんなもちろん倹約家で、朝から精力的に歩き回って夜はへとへとになって帰って来る人が多かった。滞在期間にできるだけ多くのものを見てやろう、という人ばかりだったので、昼ご飯のために宿に帰って来ると大抵すでに誰もいなくて、遅く起きたアンニュイなマダムがキッチンにいるだけだった。マダムは韓国人で、どうゆうわけだか日本語が話せたのでわたしはよくマダムとお喋りした。すごく人嫌いの人だったんだけど、わたしのことはとても気に入ってくれて、よく話しかけてくれてコーヒーやディナーに連れて行ってくれた。多分長くそこにいたせいで新しく泊まる人を駅まで迎えに行ってあげたり、フランス語ができたので電話や郵便の応対もできたし、いつも真剣に勉強していたからに違いない、と思う。

〔メトロの広告。ジュード・ロウが好きでしてねぇ…〕

語学学校は当時パリ一安い学校で(わたしは安いものを見つけるのが本当にうまい)、確か1日4時間、週5日、4週間の授業で僅か300€というような価格だったと思う。他のところは同じ条件なら1000~1500€は取っていたと思う。最初は朝だけにしていたが、あまりにも楽しかったので、さらに午後の2時間のコースも150€くらいで追加した。安くて全部自分一人で申し込みや教科書の購入などをしなくてはいけないので(他の語学学校に比べて授業以外のサービスが全然ない)、もちろん日本人はほぼいなかった。さらに言えば、わたしはすでに中級から上級のコースだったので(期間中あったテストで成績が良かったので途中で上級に移動した)、同じクラスに日本人は全くいなかった。同じクラスにいたのはポーランド人やロシア人、ブラジル人やスペイン人だった。多くの人が移民で、長くパリに住もうとしている人だったのですでに結婚したり仕事を持ったりしていた。そのなんだか浮ついていない感じも良かった。朝から勉強して、昼から仕事に行く。学生やワーホリとしてフランス語を学ぶのではなくて、フランス語を習得することは死活問題、といった雰囲気がすごく良かった。

〔現代アートを見られるパリ最大の美術館、ポンピドゥー・センターには本当によく通った〕

初めて日本人以外とフランス語を勉強して思ったことは、「どいつもこいつもよく喋る!」ということだ。先生が質問しようとしまいと、習いたての文法で文法の間違いを大量におかしながら昨日何をしたか、自分の国の政治システムはどうか、最近発見したフランス事情について語り出す人多数。ここでは先生から止められるまで、とにかくくだらないことでも発言しなくてはならないのだな、と思った。幸いわたしは大勢の前でも躊躇せず話すタイプなので、なるべく話すようにもした。さすがに人の話を遮ったり、誰も興味のないようなことを自分から話すようなことはしなかったが、先生が質問した時は必ず一番乗りになるように答えたし、誰かが面白い話をし出したら「それは初めて聞いた、興味深い!」というような相槌をすることで、「ニコニコしているけどいつも黙っていて何を考えているか分からないおとなしい日本人」というイメージは持たれなかったと思う(フランスに限らず、学校などでの日本人の発言の少なさは有名なので)。

そのうちブラジル人のクラスメイト3人と仲良くなって、放課後はたまに彼らと遊んだり、日曜日にホームパーティーに呼んでもらったりもした。共通語はフランス語だけ、19区から18区のモンマルトルまで歩いてヌテラたっぷりのクレープを食べながらサクレ・クールの階段でおしゃべりしたり、家では超絶美味しいブラジル料理をブラジル音楽とともに振舞ってくれた。ブラジル人はやっぱり踊りがうまかった。

『白い門』でも友だちができた。いけすかない連中もいたが、仲良くなった人たちと日曜日に三ッ星レストランでランチを食べに行ったり、夜に宿でお酒を飲みながらゲームをしたり、突然思い立ってサン・ミッシェルにあるパリで一番古いと言われる老舗のジャズライブハウス、カヴォー・ドゥ・ラ・ユシェットに踊りに行ったりした。この滞在の不思議なところはフランス人の友だちは殆どできなくて、全然違う友だちに囲まれてパリにいたことだ。過ごしていたところから考えてみると当たり前だけど(大学院で留学した時にできた友だちは9割フランス人だった)。

貧乏学生だったわたしが、朝ご飯と昼ご飯にたまに食べていたものはアップルタルトだ。パリにはブーランジュリー(パン屋)が多いが、そこでわたしはバゲットよりもサンドイッチよりもアップルタルトをよく買った。バゲットは0.8€くらいで安いけど、バターつけて食べるだけじゃすぐお腹がすくし、翌日には硬くなってしまう。チーズと食べると美味しいけれど、チーズは高い(でも美味しくてたくさん種類があるし、日本に比べたら格段に安いのだけれど)。サンドイッチなんて論外、一つ4~7€する。美味しいけど、時間が経つと野菜から水分が出てきてべちゃべちゃになってしまう。だから1回で食べきらなくてはならないけれど、1食でその値段はあまりに高い。毎日食べたらたちまち破産だ。その点パリのアップルタルトは、中くらいのホールで5~6€くらい。朝に一切れ、昼に一切れ食べても2~3日持つ。日が経ってもりんごにどんどん味が染みて美味しい。1食1€でお腹はふくらむし、何より貧乏感がない。宿ではご飯と玉子が食べ放題だったので、玉子スープも作って一緒に食べた。宿題しながら、それと玉子かけご飯ばっかり食べていた。

ある日、語学学校の夕方の授業で「今日の宿題は自分の国の料理についてレシピを書いて来ること、そしてその料理を作って来ること。授業のあとはそれを食べながら小さなパーティーをしましょう」と言われた。わたしが何を作ったかはてんで覚えてないが、そのパーティーはとても楽しかった。ブラジル人の友だちは朝の授業の友だちなのでそこにはいなかったが、色んな国のクラスメイトがそれぞれの国の料理を、パリで手に入れた食材でこしらえてくれて、先生はワインを何本か用意してくれて、なんだかとても贅沢な時間だった。ギリシャから来た子はオリーブとフェタチーズを使った前菜を、アメリカから来た子はキャロットケーキを作って来てくれたが、そこで食べた一番忘れられない料理は北京からの留学生の女の子が作ったトマトと玉子の炒め物だ。中国では一般的な家庭料理だが、恥ずかしながら、わたしはその料理を知らなかった。一口食べてびっくり、すっごく美味しい!まだ食べたことにない中国料理があるなんて。フランスだけじゃなくて隣国についても知らなければならないなぁ、と料理を通して思い知らされた。実はその子はわたしを除いてクラスで唯一のアジア人で、なんだかお互いに様子を探っているうちに話す機会がないままだった。授業中たまに彼女が日本のことをよく思っていない発言をしていたこともあり、なかなか話しかけられずに1ヶ月の語学学校を終えようとしていた。

しかしこの料理をきっかけに、わたしたちの距離はぐっと縮まった。まずわたしは料理のレシピを聞き、こんなに美味しい料理食べたことない、と伝えた。彼女はお金持ちの美人で、ちょっと冷たい雰囲気の人だったんだけど、話してみたら気さくで、英語がぺらぺらだったので英語を好んだ。わたしたちは英語に切り替えて自分たちがなぜここにいるのかとか、どこに住んでるとか、これからどうするかとかの話をして、翌週は公園に出かけて色々話した。3月の終わりのすごく天気が良い日で、太陽の光が強くてコートがいらないくらい暑かった。彼女は歴史の話を持ち出し、日本が中国にしたことを子どものころに習って以来、日本人とどう接していいかわからないと言っていた。わたしはわたしも日本人が過去にしたことを学んだこと、そしてそれは信じられないくらいひどいことであり、その当時、世界的に残虐なことがあちこちで行われていたことは深く受け止め、繰り返さないようにしなければならない、というようなことを言った。そして、もし日本人がしたことについて、わたしが謝るべきことで、あなたの気持ちが少しでも楽になるなら、と言い、「ごめんなさい」と言った。彼女は今までで一番の微笑みをわたしにくれて、「わたしたちはもう友だちだし、あなたはわたしの料理を好きと言ってくれたから、もうこの話はこれで解決」と言ってくれた。彼女と会ったのはそれが最後。わたしは最後の授業を、アイルランドに小旅行に行くために休んでしまった。そしてその後、日本に帰ってしまった。当時はFacebookもなく、eメールアドレスも交換する習慣もなかった。また次に授業で会える、とお互い信じていて、
住所も電話番号も聞かなかった。

今でもトマトと玉子の炒め物は大好きな中華料理で、機会があればお店で頼むし、自分でもよく作る。トマトの皮を湯剥きしている時は、必ず彼女の顔を思い出す。彼女は今、どこで何をしているんだろう。北京にいるのかな、それもとパリにいるのかな。わたしはその後連続して6年くらいパリを行き来して、まとまって住んだりもしたが、彼女と会うことはなかった。でも、わたしの人生、よく奇跡のような面白いことが起こるので、いつかきっとまた会えるような気がするのだ。その時は、他の中華料理も作ってもらおう。そして、わたしも日本の家庭料理を作ってあげよう。

〔10年前の写真がほとんど残っていなかったので、後年のパリで撮った写真を掲載しました〕


【過去テキスト】

フィンランド―若手起業家たちの生まれる地:

https://note.mu/minotonefinland/n/ncb081698cdf8

かつてmixiで友だちに書いてもらった紹介文を振り返ってみた:

https://note.mu/minotonefinland/n/n1f9ed7196e07

アールヌーボー、ジャポニズム、サイケデリック、女性:

https://note.mu/minotonefinland/n/n8e2725c2bdcf

時の宙づり:

https://note.mu/minotonefinland/n/n2a182b91e783

不思議惑星キン・ザ・ザ(Кин-дза-дза! Kin-dza-dza!):

https://note.mu/minotonefinland/n/n3d2e049be0ff

日本からのサプライズの贈り物:

https://note.mu/minotonefinland/n/n1f33b547e2f4

フランスについて、2014年夏に思うこと:

https://note.mu/minotonefinland/n/n5bbe675bd806

エミールの故郷への旅(前編):

https://note.mu/minotonefinland/n/n8d7f3bc8d61d

エミールの故郷への旅(後編):

https://note.mu/minotonefinland/n/n6ccb485254c2

水とフィンランド:

https://note.mu/minotonefinland/n/n82f0e024aaab

ヘルシンキグルメ事情~アジア料理編~:

https://note.mu/minotonefinland/n/nb1e44b47da30

わたしがフィンランドに来た理由:

https://note.mu/minotonefinland/n/nf9cd82162c26

ベジタリアン生活inフィンランド①:

https://note.mu/minotonefinland/n/n9e7f84cdc7d0

Vappuサバイバル記・前編

https://note.mu/minotonefinland/n/n2dd4a87d414a

サマーコテージでお皿を洗うという行為:

https://note.mu/minotonefinland/n/n01d215a61928


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