自己紹介もどき

このところ、「はじめまして」の機会が増えてきた。これまでは名刺交換がわりにTwitterを教えるだけで、ある程度、何者なのかを伝えることはできたのだけれど、最近はそうもいかなくなっている。

(自分が「何者」であるかは、常に自由な私が行為を通して実現するべきなのだという考え方が自己紹介することを躊躇わせてきたのも事実ではあるのだけれど、)自分にかんする情報をまとめたnoteのひとつくらい書いておいても良いだろう、ということで、今日は自己紹介をしようと思う。


1.会話分析をする鈴木

(まず、このナンバリングで何を一番最初におくべきか、つまり、「会話分析をする鈴木」が一番上なのか「演劇をする鈴木」が一番上なのかということに若干悩みつつ、ひとまず研究から。)

私は、普段、千葉大学の博士課程で、芸術制作場面において、その作品の知覚がいかに形作られているのかについて、会話分析(conversation analysis)の方法を用いて明らかにすることを試みている。

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会話分析について簡単に説明しておこう。
たとえば、「今、何時ですか?」と人が言うとき、(シンプルな)言語学的研究だと、文法的な形式に着目して、ここでは質問がなされていると記述する。しかし、日常的な会話においては、それが非難だったりすることがある。たとえば、遅刻してきた人に向かって、「今、何時ですか?」と聞くならば、それは質問というより、非難だろう。(このことは、遅れてきた人が謝らず「11:33です」とだけ答えるならば、おそらく喧嘩になるということからも明らかである。本人たちにとっても、これは質問として扱われていない。)
このような、言語形式に部分的には頼りつつも、言語形式から独立して、より広い文脈のなかでなされる行為としての会話を探究するのが、会話分析である。文脈についての研究と言うと、もしかしたらわかりやすいかもしれない。

(以上は方法についての説明であるが、)他方、私が研究しているテーマは、知覚についてである。

知覚というと、脳の内部、あるいは神経系で行われるような、情報処理の過程として考えられがちである。「天才と言われる芸術家は脳の構造が違うのだ」というような言説は、このような前提のもとでなされている。
しかし、私たちが普段生活する中で、「見る」ことや「聞く」ことについて捉えるとき、脳の情報処理過程よりももっと豊かなことを捉えていますよね、というのが、私の研究の基本的な観点(かつ、脳の情報処理過程だけに「見る」ことを狭めてしまいがちな先行研究への批判)である。

もっと具体的に言うと、たとえば「ウサギ=アヒルの絵」を見たときに、ウサギとして見るのが適切かアヒルとして見るのが適切かは、ある意味で文脈に懸かっている。つまり、国際ウサギ学会で、「ウサギ=アヒルの絵」が描かれるのであれば、それはウサギとして見るのが適切であるし、国際アヒル学会なら、逆である、ということである。重要なのは、物理的には絵が変化していなかったとしても、その意味や見え方の適切さが、文脈に応じてまったく異なる、ということである。

この研究の理論的な背景には、ウィトゲンシュタインの後期の哲学がある。つまり、言語ゲーム/生活誌のなかではじめて捉えられる、「見ること」や「聞くこと」、あるいは「心」に関する概念について記述していきましょう、というスタンスが、背景にある、ということである。(だから、私のnoteにはウィトゲンシュタインがしばしば登場する)
つまり、「心」について考えていくときに、ブラックボックスとしての心について探究をするのではなくて、「心」という概念の用法について考えていこうというスタンスである。
(わたしたちは相手の「心」の中なるものが見えなくても、相手が喜んでいたり悲しんでいたりすることが分かるのだから、見えない「心」ではなくて、「心」という概念がどのように用いられているかについて探究していきましょうという立場である)

以上のような立場に立ちながら、そのつどの芸術制作活動・その際の会話のなかで、いかに作品の見え方が形作られているのか、というのが、わたしの研究である。

(とはいえ、以上はかなりざっくりとした説明なので、厳密さという観点から言えばいろいろおかしいと思う。noteは論文ではないから勘弁してほしい。)



今年の春にコロナの影響で中止になった発表の報告資料は、ここから見られる。


細かい業績については、ここを見てもらえたら嬉しい。



2.演劇をする鈴木

ぺぺぺの会という劇団で制作をしている。

制作というのは、作品と観客と劇場の、三者をつなぐ仕事である。(あるいは、芸術と社会とをつなげる仕事である)
つまり、作品を作っても、見てもらえなければ仕方ないので、多くの人に見てもらうにはどうしたらよいのか。そして、芸術制作の活動を通して、社会に対してどういうインパクトを与えるのかを考える仕事である。
(もしかしたら、アートマネジメントと言った方がイメージつきやすいかもしれない。ただ、アートマネージャーを自分から名乗るのはこっぱずかしくて気が引けている自分がいる。)


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ぺぺぺの会は、千葉大学の演劇部で出会った数人で作った劇団で、ポストドラマ系の演劇作品を作っている。ポストドラマというのは、起承転結の枠には収まらない、普通の意味でのストーリー性は無いが、演劇ではあるような、そういう作品である。
(ポストドラマを演劇と呼べるのかという議論もあるだろうが、私は演劇だと思う)

ぺぺぺの会では、作演出の宮澤大和が書いた詩を、おもに戯曲として用いている。
詩を戯曲として用いているのは、物好きだからという理由ではなくて、むしろ詩の方が現代社会について批判的に捉えることができるのではないかという観点による。
だから、ある意味で、台本という形式には乗っかっておらず、ぺぺぺの会の試みは、台本の形式を取らないで演劇をやるにはどうやるかという挑戦でもある。

大学院での研究の関心と、演劇の関心が重なり合うところでもあるのだが、おそらく人は、芸術作品を何らかのゲシュタルトのもとで見ている。つまり、演劇を見る時も俳優だけを見るのではなくて、照明・音響・気温・声・文字など、さまざまなモダリティに分散した要素の、そのゲシュタルトを見ているのだ、と言いたい。
ゲシュタルトという言葉について馴染みが無い人も多いだろうから、一応説明しておくと、ゲシュタルト(Gestalt)とは、それぞれの部分の足し合わせ以上のその全体のことである。たとえば、私たちはドラえもんの顔を見るときに、目・ひげ・色・鈴・四次元ポケットを別々に見て、それをドラえもんだと解釈しているわけでは無い。それらの諸要素の全体の配置のなかで、それをドラえもんとして端的に理解している(そもそも解釈などしていない)。演劇に置き換えると、私たちは、照明・音響・気温・声・文字などの作品の部分部分を、視覚・聴覚・触覚などの様々な感覚器官から別々に集めて、それを頭の中で解釈して作品を見ているのではなく、その全体の布置として作品を見ているのだ、ということである。

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そして重要なのは、このゲシュタルトが、部分の総和に還元できないということである。たとえば、上のコマも、文字・吹き出し・ドラえもんの位置がそれぞれ意味付けし合うことによって、創発的に、新たなゲシュタルトを作り出している。
(セリフと、吹き出しと、ドラえもんを別々に見て、それらを単なる足し算として解釈したとしても、このコマの解釈以前の見え方には決してたどり着かないということである)

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もっとわかりやすい例として、カニッツァの三角形がある。
真ん中に逆向きの三角形が見えるけれど、この三角形は、それぞれの部分からは決して語ることができない。重要なのは、ゲシュタルトとは、単なる部分の総和からは語ることのできない全体であるということである。

ぺぺぺの会でやろうと試みていることの一つに、このような、芸術を形作るゲシュタルトの構成に自覚的になりながら、そのいち要素として観客の身体に注目しようということもある。これまでの近代西欧の影響を受けた演劇の潮流の中では、観客の眼は、あたかも客席のなかで身体から離れて浮遊した存在として捉えられてきたように思う。しかし、実際に観客は、身体のなかに埋め込まれた眼を持って、そこにいる。
このことは、演劇のライブ感・ナマでしか出せない良さということにもきっと関わっているはずで、このことについて、いろいろ考えを巡らせていけたらと思う。
(ただし、私は作品そのものの作り手ではないので、これは勝手に稽古場の作業を見ながら考えていることでしかない。ただ、最近は会話分析の手法を用いていろいろな稽古場を分析しているので、的は外していないのでは無いかという感じもしている)

演劇関係だと他には、

平田オリザさんが学長をしている無隣館にも参加させていただいている。
ここでは、アートマネジメントの勉強を主にさせてもらっていて、今年はアジア初の国際的な演劇祭である、豊岡演劇祭にスタッフとして参加させてもらう、予定。

これは平田オリザさんも指摘していることだけれど、おそらく地方と都市の文化資本(Bourdieuの括りで言うと身体化された文化資本)の格差は、今後顕著になっていくように思う。そう考えたとき、地方で演劇祭をやることには大きな意義があるように感じている。

ゲシュタルトの話に無理やりつなげると、幼少期から本物の(genuineな)芸術作品に触れていないと、芸術をゲシュタルトのもとで端的に見ることは難しくなっていくのだと思う。つまり、学校的な知識を得ることであとから解釈することはできるようになるのだけれど、解釈することはゲシュタルトを知覚することとは異なるので、幼少期から作品を見続けた人との間には決定的な差が生まれてしまう、という。
(このことは、Bourdieu自身が「知覚」という言葉で語っていることに近い含意があるのではないかと勝手に思っている)



また、演劇の稽古場で起こるハラスメントの問題についても関心がある。
今年から、早稲田大学の小劇場どらま館で企画制作の学生スタッフをさせてもらっている。ここでの企画の一環として、ハラスメント問題に関連した企画を打てればよいと思う。
(本当は8月にやる予定だったのだが、コロナの影響で中止になってしまった)

社会と演劇をどうつなげるのかという観点から、応用演劇にも関心があって、世田谷パブリックシアターのワークショップのお手伝いなども、ときどきさせてもらっている。(どのワークショップの面白く、世田谷区民以外も参加できるので、ご興味ある方は是非・・。)



3.教育をする鈴木

私は中学時代に不登校を経験していて、今の日本の教育のあり方について、やや懐疑的な考えを持っているところがある。
そういう思いも背景に、学部生〜修士にかけてアルバイトさせてもらっていた湘南ゼミナールさんに協力いただいて、中学生向けに、プライベートバンカーとして働いている形に喋ってもらうというプロジェクトを実施した。
プライベートバンカーの方が中学生のときに書いていた日記などを見せてもらったりして、私にとっても学びのある時間だった。

その一方で、最近は、キャリア教育・人材開発という言葉は、ある意味で資本の論理に無批判であるような気もしていて、最近はこういうことからはやや遠ざかっている。(もちろん、たのしいキャリアを歩めた方がよいし、能力はあったほうが自由の幅が広がるという意味では、キャリア教育も良いのだが、どちらかというとわたしの問題として、教育の正解のなさのようなものに、少し途方が暮れているという感じである)



おわりに

自己紹介ができないことをnoteに書くくらいには、自己紹介が苦手である。
だから、自分の紹介というよりかは、自分の好きなものについて、マニアックに語ったような、そういう自己紹介になってしまった。
だからある意味では、私の好きなこと紹介でしかないし、そういう意味で「自己紹介もどき」である。
ただ、わたしは、自己とは社会の関わりのなかでしか生まれえないような感じもしていて、だから、真面目に自己紹介しようとすればするほど、逆説的に、自己から離れていくのでは無いかという感じもしている。

なんのこっちゃという感じでもあるが、今日はこの辺で。
自己紹介は、随時更新していきたいと思う。


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